飼い猫と野良猫-7-

 彼女には、もう行く当てなどなかった。見知らぬ道をひたすらに歩き続け、時折、ああ、飼い主に会いたい。と、無意識にそのようなことを思っては、いや、もうそれは叶わないでしょう。私がそう望んだのだから。と、月の無い夜空を見上げるのだった。首輪が無いこの違和感も、きっと時が経てば薄れ消えて行くのでしょう。そのことが、どうしようもなく虚しい。と、月のない夜であるから、彼女は俯き鳴くのである。しかし、今の彼女の傍には、その鳴き声を聞いてくれるものなどいなかった。彼女は、孤独というものを知った。せめて黒い野良猫の傍を離れなければ、この叫び散らしたくなるような心地を知らずに済んだであろう。しかし、もう彼女には耐えられなかったのである。黒い野良猫にとって、白い野良猫が重荷になっていることは明らかであった。彼女は、あの力強く生きる黒い野良猫の荷物には成りたくなかったのだ。


 結局、彼女は飼い猫にも、野良猫にもなることが出来そうになかった。外の世界に憧れ、飼い主と共に時間を過ごす日々を終わらせたのは何より自分自身である。首輪を引きちぎったのも自分自身である。飼い猫を辞め、野良猫になると決断したのも自分自身であった。


 何もかも、自身が決めたことであるのに、どうして今こんなにも虚しく、悲しい面持ちで、独り月の無い夜の下を歩いているのだろうかと、彼女はもう何も分からなくなり、訳もなく泣き始めるのである。


 ああ、悲しい。こんなにも胸が熱い。熱く、燃え、火傷跡が刻まれ、そうして真っ黒になるのだ。いっそのこと、灰にまでなって空へ溶けてしまいたい。こんな私でも、灰となれば少しは陽の光を受けて輝くことが出来るでしょう。しかし、其れすら出来ないのだ。もしも灰になれたとしても、きっと私は誰にも見られることなく、独り風に吹かれ溶けて行くのでしょう。


 彼女は夜空を仰ぐ。瞼の裏よりも深く暗いあの夜空を覆う雲の向こう側に、変わらず月や星があるのだなんて到底思えぬほど、今日の夜空は深く暗いのである。


「雨が降って来ました」


 夜空を仰いだ彼女は、顔を上げたまま雨を受ける。何もかもを流して欲しいと、そう思いながら、冷たい雨をその身に受け、当てもなく夜道を行くのであった。


 雨を吸い込む川の水面を眺めては、橋を渡って先を行き、遠く遠くに建つ明かりの灯った大きな建物を避けるように歩み、そうして彼女は、車も通らず、人もいない、真夜中の繁華街に辿り着くのである。


 音も無い繁華街は、外灯の明かりをより一層物寂しくさせるもので、彼女は「ああ、私は本当に独りきりになってしまったのだ」と、不思議と何もかもを一歩引いて眺めているような心地になり、スッと涙も引くのであった。どこまでも冷めた心持で、ひたすらに自身のことを考えるのである。野良猫でもなく、飼い猫でもないと言うのなら、一体私は何者なのだろうか。愛されることもなく、愛することもない私は、これからも生きていてもいいのだろうか。


 ふと、白い野良猫は、数日前に車に轢かれ道路で腹の中身を晒しながら死んでいった一匹の野良猫のことを思い浮かべる。あの死んでいった野良猫のことを覚えている者はどれほどいるだろうか。誰の心にも残らぬちっぽけな存在なのだとしたら、生きていようが死んでしまおうが誰も気にはしない。誰も気に留めないのだと言うのなら、よく分からぬ苦しさに喘ぎながら淡々と生きて行くことに意義などあるはずもない。「生きなければならぬ」という義務を、苦しんでまで背負う理由がどこにあるのだろう。


 きっと、これまでも「生きなければならぬ」という巨石に押しつぶされ、苦しみ続けて来たのである。ただ、彼女が抱くその悲しみは飼い主の愛が包み込んでいただけなのだ。「生」は義務である。そこに思いやりなどあるはずもない。その義務の重みを、各々「愛」やら「夢」やら「希望」やらで背負っているというだけであろう。一方で、その「愛」やら「夢」やら「希望」は時が経つにつれて重みとなるのだから、「生きる」ことが苦しいのは仕方のないことである。苦しむことが生を実感することだと、言い切ることすら出来るのかもしれない。


 彼女は今までに飼い主から受け取った「愛」をそっと大事に抱きかかえ、募らせ、生きて、そうしてその重みは「生」を越えたのだ。


「ああ、悲しい。とても苦しい。この苦しみから逃れる術はないのでしょうか。もう、私は愛されることは無いでしょう。生きる意味もない。首輪も自ら捨ててしまいました。生きているだけで誰かの重みになるのだと言うのなら、もう私は生きていても仕方がないのではないでしょうか」


 彼女は死に場所を探すように真夜中の繁華街を歩く。星も、月の光さえもない、雨の降る夜に、死んでしまおうと彼女は考えたが、そのあと一歩を彼女は踏み出すことが出来なかった。


 ある店の窓ガラス、そこに一枚の紙が貼ってあったのである。その紙に書かれた文字を彼女は読むことなど出来なかったが、その紙に書かれた絵の正体が何なのか、彼女は理解することが出来た。


「これは、私です。私がいます」


 今はもう捨ててしまった首輪をした、美しい白い猫がそこにはいた。一体この用紙は何だろうかと、その疑問が彼女を止まらせたのである。


「やあ、見つけたよ」


 ふと、上空から声が聞こえ、彼女は顔を上げる。すると、ちょうど一羽のカラスが夜空から舞い降りて来て、翼を二、三度羽ばたかせた後、地に足をつけるのであった。


「あなたは?」

「僕はカラスさ。あの黒い野良猫に君を探して欲しいと頼まれたんだ。こんな所に居たんだね」


 カラスは「黒い野良猫が君のことを心配している。さあ、一緒に行こう」と言おうと嘴をカチカチ動かそうとしたところで、それよりも早く彼女は「カラスさん。あなたは文字が読めますか?」と、カラスに迫るのだった。


「文字?」

「はい。そうです。この紙に書かれている文字です。どうか、文字が読めるのでしたら、読んではくれないでしょうか」

「いいよ。僕は文字が読める」


 そして、カラスは彼女が言う窓ガラスに貼られた紙に黒い瞳を向ける。その紙を見て、カラスは一瞬だけ翼を羽ばたかせるのだった。


「探しています。特徴、白い毛。青い瞳。赤色の首輪。連絡をください。トトは大切な家族です」


 続けてカラスは「だそうだよ。どうやら、君を探しているのは黒い野良猫ばかりではないらしいね」などと話をしたが、その声は彼女に届いてはいなかった。ただ彼女は「トト、トト」と繰り返し呟き、それからゆっくりと、一歩一歩貼られた紙に近づき、そうして、ようやく何かを思い出したかのように、大声で泣き始めるのだった。


「ああ、ああ、本当にごめんなさい。私は何と愚かであったのでしょう。あなたは、私をこんなにも愛してくれているのに、私は、自ら死んでしまおうとさえ思ってしまいました。あなたのことも忘れてしまいました。あなたからもらった首輪も自ら引きちぎって、あなたが私にくれた名さえ忘れ、あなたの声も、忘れてしまったのです。それでも、あなたは私を、私を探してくれているというのでしょうか。こんなにも愚かな私を、許してくれるのでしょうか」


 彼女は、雨粒よりも大きな涙を流し、ただただ、飼い主に会いたいと、其ればかりを思って鳴くのである。生きるだとか、死にたいだとか、苦しいだとか、悲しいだとか、あらゆるものを追い越して、ただひたすらに、飼い主に会いたいと泣くのである。


「君はどうしたいんだい?」


 カラスはただただ泣く彼女に尋ねる。彼女は一言「会いたいのです」とだけ答える。


「なら、会えばいいよ。君は自由なのだから。誰と一緒にいるのかも、生きるのも、どうあるのかも、誰を愛するのかも、何もかもが自由なんだ。それを忘れてはいけないよ。そうして、誰かと会うことが出来るのは、生きている間だけなのだということも忘れてはいけない」


 カラスは嘴をカチカチと動かす。彼女は「そうですね。本当に、その通りです」と、答えるのである。


 それから、彼女は店の下に入り雨宿りをし、ずっと紙を見つめ続けた。遥か遠い日々のことを、陽だまりを思い出すように、ジッと紙を見つめるのである。カラスは何も言わずにそんな彼女の近くにいる。そうして、しばらくして彼女は疲れたのか深い眠りに就くのである。その場に黒い野良猫はやって来たのは、彼女は眠って少ししてからのことであった。


「やあ、黒い野良猫」


 黒い野良猫は、カラスに答えることなく歩み、眠る白い猫に目をやる。そして。「ああ、やはり美しい」と、黒い野良猫はそう思うのであった。


「この子、どうやら飼い主に会いたいらしいよ。君はどうするんだい?」


 黒い野良猫の心は既に決まっていた。同じ猫であろうと、飼い猫と野良猫が一緒にいられるはずもなかったのだ。昼と夜、太陽と月は決して隣にはいられないのである。


 黒い野良猫は、口に咥えていた首輪をそっと白い飼い猫の前に置くのであった。


「ここで眠っていれば、きっと人間がどうにかしてくれるだろう」

「人間がどうにかしてくれる。とても君からの言葉だとは思えないよ。人間のこと、少しは好きになれたのかい?」

「そんなわけがないだろう。人間は嫌いだ」

「そうかい。そうだ。君に聞きたかったんだ。この猫は、あの時の猫なのかい?」

「分からない。もう昔のことだから、記憶もあまりないんだ」

「でも、もしもあの時の小さな子猫が、この白い飼い猫であったとしたら、君は嬉しいんじゃあないのかな?」


 黒い野良猫は返事をすることなく白い飼い猫から離れ、雨の降る夜空の下に出る。


「俺は戻る」

「そうかい。またいつの日か、一緒にご飯を食べよう」


 それは、もうずっと昔のことであった。まだ黒い野良猫が子猫だった頃のことで、一日かけてようやく一匹の蛙を捕えることが出来たほど、遠い昔のことである。その遠い日のことを、今はもう黒い野良猫は上手く思い出すことは出来ない。ただ、あの日人間に連れて行かれた後、この白い飼い猫のように愛されて日々を過ごしていれば、何も言うことは無いだろうと黒い野良猫は雨が降る夜空を見上げるのであった。


 そうして、心の内で「さようなら。もう決して会うことはないだろう」と呟き、二度と振り返ることなく雨の中を独り駆けて行くのだった。

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