飼い猫と野良猫-5-

 首輪だけが、唯一自身が飼い猫であったことの証拠であった。しかし、その首輪は証拠であると共に刃であった。白い野良猫は、喉元に鈍く光る切っ先を当てたまま、この数日を過ごしていた。食べ物は黒い野良猫が獲って来たものを食べ、一度そればかりでは余りにも悪いと思い、自身も食べ物を得ようと人間から食べ物を盗もうとしたが、盗むために駆けることも出来なかった。ならばと、せめて命を食べようと思い、蛙の脚を口に咥えたこともあったが、結局噛み砕くことも出来ずにえずいてしまうのであった。その度に、ああ、私はなんと愚かであるかと強く自身を責め、私はただ寝て、起きて、食べて、寝ることすら独りでは出来ないのだと、自身の弱さに泣きながら、毎晩毎晩月を見上げては鳴くのである。もう、飼い主の顔も思い出せぬのに、もう、飼い主の声も思い出せぬのに、自身が何と呼ばれていたのかも思い出せぬのに、それでもただ、飼い猫であった時に抱いていた、あの温もりだけは忘れられず、その熱が、炎を上げて体を蝕んでいくようであった。どうして私は野良猫になったのか分からない。どうして私は今この場所にいるのか分からない。ただ、毎日を生きて行くだけで精いっぱいであった。


 そんな様子を、黒い野良猫はただ黙って見ていることしか出来なかった。黒い野良猫は、白い野良猫と出会った時こそ似た者同士だと思っていたが、それは思い違いであるということを、二、三回夜を越えた辺りで理解したのである。飼い猫が野良猫になれるはずがなかったのだと、黒い野良猫はやはり自身を責めるのである。あるいは、あの時白い飼い猫など相手もせずに、雨の中を走り去っていれば、このような気持ちにならずに済んだのかもしれないと、後悔が募るのであった。


 黒い野良猫は、余りにも白い野良猫が悲しく鳴くものであるから、いっその事その首輪も引きちぎってしまえばいいと提案したのだが、白い野良猫はその提案を聞き入れなかった。この首輪を手放してしまえば、到頭自分が分からなくなりそうであるからそれだけは出来ないと、声を殺して泣いたのである。白い野良猫は、喉元に刃を突きつけていた方が、まだ自身を見失わずに済むと、そう鳴くのであった。


 白い野良猫は、首輪をつけたまま黒い野良猫の後を追うように辺りを歩き回り、食べ物は無いか、寝る場所は無いか、どこか向かう場所は無いか、どこか、陽の当たりの良い場所は無いかと、目を忙しなく動かすのだが、目に映るのはどこまでも知らぬ外の世界であり、数日間、かつて憧れていた外の世界を見て来た白い野良猫であったが、今はもう憧れもどこかへ消え、小さい世界を抜け出した日、あれほどまでに色鮮やかに見えた景色は、その色彩を失っていた。


 あれから、嫌なものばかりが目に付くようになった。道端で死んでいる野良猫を、白い野良猫は既に二、三匹目撃した。また、真夜中に野良猫の鳴き声がすると思い目を覚まし、ふらふらと様子を見に伺ったところ、一匹の野良猫が足のふらついた男の人間に蹴り飛ばされている所を目撃した。あるいは、黒い野良猫から「人間が乗っている、あの車というものには気を付けろ。あれに轢かれたらタダでは済まない。俺は、車に轢かれ足を失った野良猫を知っている。俺は、車に轢かれ死んだ野良猫を知っている」と話を聞き、外の世界に出た初日、雨が叩く道端で腹の中身をぶちまけ動かなくなった猫のことを思い出すのであった。ああ、人間は、本当にこの黒い野良猫が言う通り、とても恐ろしい存在なのかもしれないと、白い野良猫はそのように思い始めたのである。


「人間というのは、本当は恐ろしいものなのですか?」

「そうだ。人間は恐ろしい。であるから、俺はそんな人間に飼われることを良しとした飼い猫が、本当に理解できない。その心地とは、一体どのようなものなんだ?」


 人間に飼われることを良しとした覚えなど白い野良猫にはなかった。気が付いたら、白い野良猫は飼い猫として日々を過ごしていたのである。しかし、白い野良猫の飼い主は決して悪い人間ではなかった。常に白い野良猫を愛し、また白い野良猫も気まぐれにその愛に答えていたのである。であるから、白い野良猫にとって人間は愛を与えてくれる存在であったのだ。決して、人間というのは猫を蹴り、傷つけ、殺すような存在では無かった。


 一方で、黒い野良猫の知っている人間は、どこまでも非情であった。野良猫にとっては敵でしかなく、害しかもたらさない存在であった。であるから、どうして人間に飼われることを良しとした、飼い猫などという存在がいるのだろうかと、黒い野良猫は長年疑問を抱いていたのである。


「まだ飼い猫であった時、お前はどのように人間と過ごしてきたんだ?」


 白い野良猫は、黒い野良猫の問いかけに答えようと青い空を見上げるが、やはり上手く思い出すことは出来ないのであった。もう、飼い主と過ごした日々でさえ、遠い昔の出来事であるような心地であった。果たして、私は飼い主からどのように愛され、どのようにその愛に答えて来たのか、上手く思い出せないのである。


「すいません。上手く思い出せないのです。ただ、愛されていたことは事実なのだと思います。そして、その事実が今の私にとってはどうしようもなく辛く、そしてとても熱いのです。熱く、苦しいのです」


 飼い主と共に過ごしていた時は、このような焦げる思いを抱いたことは無かった。なぜ今なのだろうかと、白い野良猫は思わずにはいられないのである。


「どうしてこんなにも、苦しいのでしょうか」


 白い野良猫は、首を伸ばすように、さらに青空を見上げ、どこか悲しそうにニャーと鳴くのであった。


「昼にも月が見られれば、どれほど良いだろうな」


 黒い野良猫はそう言って、白い野良猫に続くように青空を見上げ鳴くのであった。それから、「生憎、俺にはお前が今胸の内に抱いているものが何なのか分からないし、その原因も分からない。そもそも、俺は愛というものを知らぬ」と、そう口にする。


 黒い野良猫は、これまで独り耐え忍ぶように生きて来た。独りであるから、愛など知らぬのである。ただ、知らぬからといって興味が無いわけではなかった。ただ口に出さず、ずっと、心の底の、その裏側に隠すように、愛に対する羨望を押し殺していただけであった。それは、ちょうど白い野良猫が飼い猫であった時に、窓ガラス越しに外の世界を時折鳴き声を上げて眺めるのと同じで、黒い野良猫もまた、夜に独り身を小さくし、月を見上げ時折声を上げて眺めていたのである。であるから、黒い野良猫はいつか来る機会を待ち望んでいたのだ。愛を知っている猫に、愛とは何かと尋ねる機会を。


「愛と言うのは、どのようなものなのだ」


 黒い野良猫は、ずっと知りたかったのである。例え人間であろうと、喉を鳴らし甘える猫を目にすると、それは、一体どのような心地になるものなのかと、知りたかったのだ。


「そうですね。きっと、陽だまりのようなものなのでしょう。陽だまりは影も作るものですから」


 ならば、きっと俺には手の届かないものなのだろうなと、黒い野良猫はそう思った。陽だまりは太陽がなければ出来ない。決して、夜に陽だまりが出来ることはない。夜は、影すら飲みこむのである。


 きっと、野良猫には不要なもので、ただ生きて行くだけならば不要なもので、知ったとしても、今の白い野良猫のように酷く苦しむ時が来ると言うのなら、知らないままの方がいいのかもしれないと、黒い野良猫は思う。しかし一方で、それでも一度だけ、愛し愛されてみたいと考えてしまうものであるから、つくづく愚か者であると、黒い野良猫は息を吐くように小さく鳴くのであった。視線は既に空へ向けられ、遠く遠くの何かを眺めていた黒い野良猫であるから、その後白い野良猫が「影というのは、きっと陽に焼かれて出来た火傷跡なのでしょう」と呟いたことに、黒い野良猫は気が付かなかった。


 火傷跡は治らない。ずっと、その体に刻まれる。その火傷傷を見る度に、燃えた日のことを思い出すのだ。白い野良猫は、黒い野良猫の言葉を思い浮かべる。人間は恐ろしい。もしそうだと言うのなら、かつて飼い主から与えられて来た愛は何だったのだろうかと、これまで柱にしていたものが揺らぎ、燃え始める。真っ黒になるまで燃え、灰になってしまったのなら、到頭私は本当に私が分からなくなってしまう。白い野良猫は、昼間の青い空に月を見つけようと必死に目を動かすが、やはり昼に月など見えるはずもないのであった。


 外の世界を駆ければ、生きていることを実感し、私を知ることが出来る。そう思い、あの雨の日に小さな世界を飛び出した白い野良猫であったが、実際の所、今はもう苦しく喘ぐだけで、願望も、欲求も、すべては「生きて行かねばならない」という漠然とした、正確な大きさも分からぬ巨石が押し潰し、砕いて行くのである。生きていることを実感するというのは、この漠然とした巨石に押しつぶされることなのかと、白い野良猫は心の内で嘆くのであった。


 今はただ、早く月を見せてほしいと、野良猫たちは思うばかりである。

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