飼い猫と野良猫-4-

 白い野良猫は二度目の夜を迎えた。一度目の夜は、雨が降る夜であったが、二度目の夜は、それは穏やかな夜であった。


「木の葉で星が隠れてしまっています」


 白い野良猫は、暗闇に白い体を浮かばせ、夜空を見ようと顔を上げる。

「星を見たいのか?」

「はい」


 黒い野良猫は「なら、良い場所がある」と立ち上がる。それから、夜の闇にその黒い体を溶かし歩き始めるものであるから、白い野良猫も、どうにか目を凝らし黒い野良猫を見失わないよう、後をつけるのであった。


「星を見るのが好きなのか」

「どうでしょう。ただ、今見たいと、そう思うのです」


 黒い野良猫は、どうして今星を見たいのか、と白い野良猫に尋ねることはせず、「そうか」とだけ返事をし、黙々と前を行くのである。


 真夜中の公園は、ちょうど昼の公園の裏側にあるようであった。人間が見当たらないだけではなく、そもそも生き物の気配がまるでしないのである。大勢いた人間は何も死んだわけではないはずなのに、こう周りに何も無くなってしまうと、独り取り残されたような気分になる。


 夜というものは孤独の壁を築くのだ。夜はどこまでも澄んだ静けさを保ち、時折夜風が静寂を切り裂いて、遠い夜空へと旅立っていく。己は静寂を切り裂き旅立てぬことを、実感する。


 であるから、ひたすらに虚しく夜空を見上げては、ニャーと鳴き声を上げることしか出来ないのである。ジッと、孤独を逃がさぬように握りしめ、強く拳を握り続け、ひたすらに耐えることしか出来ないのである。黒い野良猫にとって、夜とはそう言うものであった。


 しかし、今宵は後をつけてくる者がいた。夜であろうと、白であり続けるものが、黒い野良猫の後を追うのである。


 黒い野良猫は、やはり時折振り返っては白い野良猫の様子を窺い、その度に、「ああ、お前はこの夜にいてはいけないのかもしれない」と、そう思うのである。野良猫になろうとも、白が黒に染まり切る訳では無かった。どれほど汚れようとも、その汚れの下には純白が潜んでいるのである。やはり美しいと、黒い野良猫は外灯に照らされる白い野良猫を見て思う。醜い汚れすら、一種の誇りであるかのような美しさを宿すようであった。


 外灯が照らす並木道を、二匹の猫が進んで行く。周囲に人間の気配は無い。ただ、黙々と二匹の猫は歩むのであった。


「着いたぞ」


 二匹の猫は、何もない草原に辿り着く。


 二匹の猫は、一面に生える草にその身を隠し、草原の中央で並び座り込むのであった。夜風に揺れる草の音が心地よく、うっすらと月明かりに照らされた夜の雲が、風に乗って流れて行く。


「どうだ」

「ええ、本当に、何て美しいのでしょうか」


 星が、見えた。この時、白い野良猫は初めて本当の星の光というものをその瞳に映したのである。あの、狭い世界で、見えぬガラス越しに見上げる星空とは、全くの別物であった。白い野良猫と、あの星空の間に遮るものは何一つなかった。

暗い、暗い夜空に手を取り合うように連なる星たちが、たった二匹でいる猫を見下ろしている。


「知っているか? あの星にも名前があるのだという」

「はい。聞いたことがあります。ですが、もう何も覚えていないのです」


 白い野良猫は、何も覚えていなかった。いつの日か遠い昔に、飼い主と一緒に星を眺め、あの星はあのような名前だと、夏の星の名や、冬の星の名を教えてもらったはずなのに、白い野良猫は何一つ星の名を思い出すことが出来ないのである。


 あの星の名は何であっただろうか。あの、連なる星の名は何であっただろうか。名も知らぬ星達ですら、この暗い夜に、寄り添うように手を取り合い小さく輝いているのである。であるから、夜空はこんなにも儚く美しいのである。それがどうしようもなく悲しいのだ。この、星にも満たぬ自身が悲しくて仕方がないのである。


「俺も、もう忘れてしまったよ」と、黒い野良猫は瞳を夜空から白い野良猫へ移す。すると、白い野良猫は音無く静かに泣いていたのだった。白い野良猫の青い瞳から流れた涙は、星の光を受け、夜に音も無く溶けて行く。黒い野良猫は、ああ、夜空よりも、夜空に浮かぶあの星よりも、その涙の方が儚く、虚しく、美しいと、そう思ったのであった。


「すみません。少し、飼い主のことを思い出してしまいました」

「そうか。悲しいのか」

「分かりません。もう、何も分かりません。ただ、昔、星を共に眺め、星の名を教えてもらった夜があったことを思い出したのです。そして、この美しい星空を、飼い主にも見て欲しいと、そう思ってしまったのです」


 白い野良猫は、「星ですら手を取り合って輝いているのに、それがとても美しく悲しいのです」と、決して夜空から瞳を逸らすことなく、涙を流すのである。


 黒い野良猫は「俺がいるではないか」とは言えなかった。この白い野良猫は、飼い主を思って泣いているのである。こんなにも、涙を流しているのである。


 であるから、「あの星は、俺達がいるこの地球と同じなのだ」と、以前カラスから聞いた話を思い出しながら、話を始めた。


「俺達は、地球の上にいる。あの空の先、星の住処を宇宙と言う。俺達も、そんな宇宙に浮かぶ星の住人なのだ。宇宙は、この夜空よりも広いという話だ。星と星との距離は、気が遠くなるほどあるのだと言う。あれが手を取り合っているように見えるのなら、それこそ虚しい。しかし、それでもお前があの星たちが手を取り合っているように見えるのだと思えるのなら、気が遠く鳴るほどの距離など易々と越え、手を繋ぐことが出来ると、お前が思っていることに変わりないだろう」


 白い野良猫は、夜空に浮かぶ星を眺めながら黒い野良猫の話を静かに聞き、確かにその通りなのかもしれないと思ったが、しかし、それでは温もりはどうしたって得られぬと、そう思うのであった。


「あなたは、それで満足なのですか」

「ああ」

「そうですか」


 黒い野良猫が、自身を慰めようとしてくれているのだと思い、とても「私はそれだけでは満足できないのです」とは言えなかった。そんな、ガラスの欠片を握りしめ、自身の血で熱を感じるようなことはとても出来ないと、そう思ったのである。


「それでも、時折どうしようもなく虚しい時が来る。そのような時は、あの、一番大きく、輝く星に鳴くのだ」


 黒い野良猫は夜空に顔を向け、ある一つの欠けた星に目を向ける。


「あの星を何というのですか?」

「月だ。俺も、カラスに教えてもらった」

「カラス、というのは、あの黒い鳥のことですか?」

「ああ、そうだ。あいつらは、頭が良い上に空を飛ぶことが出来る」

「あなたは、カラスが羨ましいのですか?」

「分からない」


 黒い野良猫は、欠けた月に鳴く。


「そうですか。私は、きっとカラスが羨ましいのだと思います」


 白い野良猫は、欠けた月に鳴く。


 カラスのような翼があるのなら、夜空を飛び、気が遠くなるほどの距離を易々と越えることが出来るだろうに、あの月に手が届くかもしれないのに、と、そう思わずにはいられなかった。

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