飼い猫と野良猫-1-

 雨は止むことなく降り続いていた。小さな公園の、むき出しの地面には水たまりがいくつも生まれ、雨水は地に汚れ濁り、その水面に灰色の空を映している。


 濁った水たまりに、灰色の土管。一見して、この公園にはそれしかないと人間には見えるだろう。しかし、その灰色の土管の中には雨が止むのを待っている生き物がいた。白く美しい毛並みの飼い猫と、黒く薄汚れた黒い野良猫である。


 同じ猫であるはずなのに、その二匹はおよそ太陽と月ほどの違いがあった。


 飼い猫は、この世の温もりを知っていた。愛を知っていた。しかし、この世の寂しさを知らなかった。己を知らなかった。


 野良猫は、この世の寂しさを知っていた。己を知っていた。しかし、この世の温もりを知らなかった。愛を知らなかった。


 そんな、全く異なる二匹の共通点は、雨に降られ、行き場を失い、地を駆けてこの土管の中に逃げ込んできたという点と、同じ猫であるという点だけであった。同じ種であるというのは、とても大きな共通点であるような気がしてならないが、太陽と月だって同じ宇宙に浮かぶ球体である。太陽は昼に住み、月は夜に住む。両者の居場所には明確な違いがあり、居場所が異なるということは、日々目にする景色が違うということである。太陽は明るい景色しか知らない。月は暗い景色しか知らない。同じ景色を見ることが出来ないというのは、残酷なまでに壁を築くのだ。


 この世の汚れた景色しか見たことがなかった野良猫にとって、独り音も無く涙を流し眠る飼い猫の姿は、どうしようもなく美しく映った。野良猫は、太陽を知らぬ。初めて太陽をその目に映し、その眩しさに目を眩ませながら、なぜこのような薄汚い場所にいるのか不思議に思った。


 野良猫は、「雨から逃げて来たのか」と眠る飼い猫に鳴く。飼い猫は、返事をすることは無かったが、しかし野良猫の声で目を覚ましたのか、一度耳をパタと動かし瞼を開き、白い体をゆったりと撓らせる。野良猫は、そんな飼い猫の姿から目を離すことが出来なかった。


 雨が土管を叩く中、「誰かの声を聞いた気がします」と飼い猫は鳴いた。その声は普段の声よりもわずかに高い声であった。なぜなら、飼い猫は嬉しかったからである。飼い猫はこれまでに誰かと言葉を交わしたことが一度もなかった。飼い主である人間にどれだけ鳴こうが一向に言葉は伝わらず、会話の相手は常に自分自身であった。飼い猫は、「いつか誰かと言葉を交わしてみたい」と、長い間切に願っており、そんな、長年胸の内で願っていたことが今叶ったのであるから、喜ぶなという方が酷な話である。考える時間は有り余っていたのだ。飼い猫には誰かと話してみたいことが沢山あった。そんな沢山ある会話の種を、鬱蒼と生やすことはせずに、「誰かの声を聞いた気がします」とこの飼い猫は静かに鳴くのだから、随分とお淑やかな白猫である。


「雨から逃げて来たのか、と尋ねたんだ」

「さあ、どうでしょう。雨から逃げて来た訳ではない気がします」


 雨から逃げて来たという言葉は、飼い猫にとって半分真実で半分嘘であった。逃げて来たのは正しい。しかし、雨から逃げて来た訳ではない。飼い猫がそのことを素直に野良猫に話すと、野良猫は「じゃあ、俺と同じだな」と言葉を返すのであった。


 飼い猫も、野良猫も、決して雨から逃げて来た訳ではない。だからと言って一体何から逃げて来たのかと問われれば、両者ともにその何かに当てはまる適切な言葉を口にすることは出来なかった。


「俺は雨宿りをしているんだ」


 野良猫は、それが最も適切な言葉であると思った。突然に降り出した雨が止むのを待っているのである。雨を止めることすら出来ぬちっぽけな存在は、何かとてつもなく大きな、それこそ神様のような偉大な何かが雨を止めてくれるまで、ひたすらに逃げて、雨が止むのを待つしかない。


「あなたの名前は何ですか?」

「名前? そんなものは無いよ。そう言うお前には名前があるのか?」

「どうでしょう。名前かどうかは分かりませんが、私はトトと呼ばれています」


 飼い猫は飼い主である人間からトトと呼ばれていた。しかし、実際の所飼い猫は自身がトトであるのかわからなかった。なぜなら、飼い主からトトと呼ばれているというだけあり、飼い猫自身がそう名乗ったという訳ではないからである。飼い猫は飼い主である人間と言葉を交わすことが出来ないのだから、飼い主が勝手にこの飼い猫に名を与えたのである。


「トト、と呼ばれているということは、お前をそう呼ぶ誰かがいるということだろう。珍しいな、誰かとつるんでいるのか? じゃあ、その仲間とはぐれたってことなのか?」

「いいえ。そういう訳ではありません。私の飼い主がそう呼んでいるのです。あなたにも飼い主がいるのではないのですか?」


 野良猫は「馬鹿を言え」と語気を強め、毛を逆立たせる。野良猫は人間を心底嫌っていた。無慈悲で身勝手な人間に飼われるくらいであるのなら、自ら死を選ぶほど嫌っていた。であるから、飼い猫の「あなたにも飼い主がいるのではないのですか?」という問いかけは、野良猫の毛を逆立たせ、緑色の瞳を鋭くさせたのである。


 一方で、飼い猫は自分自身しか知らぬものであるから、猫は皆全員飼い主と共に日々を過ごしているものだと思っていたのである。であるから、どうしてそんなにも野良猫が苛立ち、またこの野良猫に飼い主がいないのか不思議に思えてならなかった。


「猫は皆、飼い主と共に時間を過ごしているものではないのですか?」


 その言葉に、今度は野良猫が唖然とした。逆立っていた毛は、見る間に沈んでいく。野良猫は飼い猫の存在を知っていたが、まさか飼い猫は野良猫の存在を知らないとは想像すらしなかったのだ。


「俺は名前も持たない野良猫だ。お前のように、人間に飼われている猫を俺達は飼い猫と呼んでいる。俺は人間が大嫌いだが、その人間に飼われている飼い猫も嫌いだ」


 野良猫は、すぐさまこの場を後にしたかった。飼い猫の姿が一瞬でも美しく映ってしまったことが、どうしようもなく愚かしく、自身の薄汚い心の壁にべっとりと黒い油が付くような心地になった。


「俺は飼い猫と雨宿りをするつもりはない。悪いが、俺はこれで失礼する」


 野良猫は起き上がる。飼い猫は、そんな野良猫に「待ってください」と声を上げた。


「なんだ」

「行かないで欲しいのです。私は、今日飼い主と共に過ごしていた小さな世界から抜け出して、この広い世界に来ました。私は外の世界にずっと憧れていたのです。先ほどの通り、私は何も知りません。あなたのような、飼い主のいない猫がいることすら知らなかったのです。それに、私はこれまでに誰とも言葉を交わしたことがなかった。だから、私はあなたと話がしたいのです。私は、知らないことを知りたいのです。そして、私自身を知りたいのです」


 飼い猫は最後に、「独りは嫌です。とても寒く、寂しいのです」と、泣くように鳴く。その声は、野良猫の心の壁に、さらに黒い油を付ける。ずっと独りで生きて来た野良猫にとって、こんな心地になるのは初めてのことであった。


「なら、一つだけ条件をいう。俺は飼い猫が嫌いだ。しかし、同じ野良猫は嫌いでも好きでもない。だから、お前が今日から野良猫になると言うのなら、一緒に雨宿りをしてもいい」


 飼い猫を辞め、野良猫になれ。それは、飼い猫にとって大きな決断であった。それは、自身を愛してくれた飼い主と自ら別れることを選択するということであり、飼い主の愛を裏切る行為であった。


 飼い猫は、飼い主のことを嫌っている訳ではないのである。それどころか、今すぐにでも飼い主の元へ帰りたいとさえ思っていた。飼い主の手の温もりに焦がれていた。しかし、外の世界は飼い猫が想像していた以上に広大であった。その広大さと冷たい雨が、飼い猫に寂寥という感情を植え付けたのである。そうして芽吹いた寂寥と、自ら飼い主の元を離れてしまった事、飼い主のいる小さな世界に帰る道が分からない事が、この美しい飼い猫を野良猫へと変える。


「分かりました。私は、今日から野良猫になります」


 この飼い猫が本当に求めているのは飼い主の温もりであるはずなのに。

ただただ外の世界に憧れていただけであるはずなのに。


 野良猫になるつもりなど全くなかったはずなのに。


 ただ、飼い猫は何も分からなかったのだ。飼い猫は、芽吹き、伸び、絡みつく寂寥に締め上げられ、苦しい理由も分からなくなってしまうほど苦しかったのである。


「分かった。良いだろう。では、お前は今日からトトなどではなく、単なる野良猫だ」


 雨は、未だ止む気配を見せない。


 飼い猫と野良猫の体は雨に濡れたままである。


 寂しさとは、寒さだと思います。

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