野良猫-3-

 雨に打たれ続けるのは良くない。体が冷えて、そのうち動けなくなってしまう。


 結局、俺はカラスと会うことは出来ず、飯を漁ることもないままビルとビルの隙間を後にして、雨を凌ぐことの出来る場所を目指した。


 雨が体を貫き、その冷たさが深いところにまで手を伸ばすようで、走っても、走っても、この胸の内に巣食った寂寥の念を振り切ることが出来そうにない。


 しばらくして、人通りの多い場所に出た。人間は嫌いだ。一層足を速く動かし、道の隅を駆け抜ける。もうじき路地へ入ることが出来るというところで、道路の方から甲高い音が鳴った。無視して路地へ入ればいいものの、どうしたってその音を無視することが出来ず、結局俺は音のした方へ向かった。俺は、その音を知っているのだ。その音は、不吉を告げる音である。


 音のした方に辿り着くと、俺が思い描いていた通りの光景がそこには広がっていた。


 俺と同じ野良猫が死んでいた。車にはねられ、無残に腹の中身を雨に晒しながら野良猫が死んでいる。流れ出た血は、雨水と混ざり排水溝へと落ちて行く。


 俺達は、そういう生き物なのだ。あの野良猫を俺は知らぬ。どこで生まれ、どのように生きて来たのかを知らぬ。そして、もしも俺があの野良猫の骸を目にしなければ、奴がどのように死んでいったのかも知らないままであっただろう。孤独とはそういうことなのだ。俺達はそういうものなのだ。誰かの一部になることすらできずに、ただ己が生きて行くことだけを考え走り続けるのだ。であるならば、この寂寥の念が消えるわけがなかろう。忘れることは出来るかもしれないが、それは単に目を逸らしているだけであろう。一生、この背に担いで走り続けるしかないのだ。あの、死んだ野良猫がそうであるように、どうせ誰も助けはくれないのだから、何かに期待するように空を見上げ鳴くことは、どうしようもなく惨めだ。


 どうしてこんなにも辛いのだろう。ただ生きているだけであるのに、それがこんなにも辛いのだ。きっと、地獄と言うのはこの世のことを言うのだ。罪を犯したものは地獄へ落ちると言う。であるならば、俺も、あの死んだ野良猫も、そこら中にいる人間も、鳥も、何もかも、すべて罪を背負っている。


 罪を背負いながら生きて行く喜びを知っている奴がいるのなら、どうか俺に教えてはくれないだろうか。寂しさを底に沈める方法を、教えてはくれないだろうか。


 死んだ野良猫よ。きっと、俺もいつの日かお前と同じ境遇になる時が来るのだろう。死ぬときは随分と呆気ないものである。空を見上げて歩いていれば、迫る崖に気が付くことなく死ぬのだ。せめて、誰にも見られることなく死んでしまいたい。悲しむ暇も与えずに、ひっそりとこの地獄から飛び出したいと思う。だから、死んだ野良猫がどうしようもなく不憫だ。内側に秘めていた赤き血潮を垂れ流し、雨に血と涙を滲ませ、動くことも出来ずに醜態をさらし続けている。


 奴をどこかへ運び出したいが、しかしそれは難しいだろう。俺には出来ない。死んだ奴を運ぶためにあの絶えることのない行列の中へ入るのは死に行くようなものなのだ。空を見上げたまま死ぬのは構わないが、崖を見下ろし死に行くつもりはない。


 せめて、出来る限り奴のことを覚えていよう。死んだ野良猫から目を逸らし、路地の方へと急ぐ。ジメジメとした狭い路地を抜け、小さな公園に辿り着く。昔、この小さな公園にある土管で寝泊りしていたことがある。この公園と、土管には嫌な記憶が染みついているのだが、こう雨が降っていては仕方がない。雨が止むまでの辛抱である。


 体を震わせて、土管に入る。雨を叩く土管の音が心地よく響き渡っていた。

そんな響き渡る雨音の中に、微かな寝息が混じっていることに気が付いたのはすぐである。


 土管の中には先客がいたらしく、一匹の猫が丸くなって眠っている。白い毛の、到底野良猫とは思えない、とても美しい雌であった。


 美しい雌は、穏やかに眠りながら音も無く泣いていた。

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