第30話 デビュタントへの階段(2)
デビュタントはダンスパーティーが選ばれ、令息令嬢は踊りを披露するのが通常。
けれども今回はダンスがない夜会が選ばれた。立ち回りや簡単な所作のみが教えられ、私は前日のテストでフレデリカ先生からなんとか及第点をいただいた。
そして昼食後、私は久々にアスラン夫人とクッキーを焼いていた。ようやくクロヴィス殿下に買ってもらった動物のクッキー型の出番だ。
焼きあがった熊のクッキーをフレデリカ先生は摘まんで、顔を綻ばせた。
「可愛いわね。それにあなた器用なのね。レベッカが弟子を取るなんてなかなかよ?」
「私が教えても良いと思った令嬢ですもの。良い生徒でしょう?」
「そうね」
尊敬するアスラン夫人にも褒められ、くすぐったい。
「お菓子だけでもアスラン夫人の味を継ぎたいと思っているんです」
「うふふ、坊ちゃんに作ってくれるのですね?」
「はい」
クロヴィス殿下はアスラン夫人の作った料理やお菓子の味を好んでいる。私も作るのなら、できるだけ好きな味でお出ししたい。
フレデリカ先生はニマニマしながら、また一枚クッキーを摘まんだ。
「クロヴィス殿下ったら、あんなクールな顔して大の甘党だものね。あの子のことだからナディアちゃんの手作りが食べたいから、作れって言ったんでしょう?」
「いえ! 違います……私のために作ってるんです」
「ナディアちゃんのため?」
「クロヴィス殿下は美味しいものを食べると笑ってくれるんです。それが私の作ったもので引き出せたとき、私が嬉しんです」
彼の疲れたお顔が綻ぶとき、機嫌のいい表情が更に明るくなったとき、私の胸の奥がとても温かくなる。今まで寂しいと感じていた心に火が灯ったような優しい温かさを、彼の笑顔は与えてくれる。
それが欲しくて、私はお菓子を作っているのだ。
「まぁ聞きまして、アスラン家の奥様」
「えぇ、えぇ、聞きましたとも! ナディア様、少しお早いですが坊ちゃんとふたりでお茶をなさってくださいな」
「でもフレデリカ先生は……」
ここ最近のお茶の時間は急な依頼に応えてくれたお礼として、マナー講師であるフレデリカ先生をもてなす時間になっていた。
「わたくしのことは気にしないで。久々にレベッカと奥様会するわ」
「良いわねぇ。フレデリカに聞きたいことがあったのよ」
「ということだから、殿下のところへいってらっしゃいな」
私はおふたりにお礼を言って、執務室へと向かった。
「クロヴィス殿下、お茶はいかがですか?」
「もうそんな時間か。ん? バレ夫人は?」
「その……今日はふ、ふたりでお茶をしませんか?」
いつもクロヴィス殿下が自然とふたりきりの状況を作るのだけれど、私から誘うのは初めてで少しばかり緊張して噛んでしまった。
彼は少しばかり目を見開いて、「あぁ大歓迎だ」と顔を緩ませた。
「これはデートの時に買った型で作ったクッキーだな?」
「はい。ようやくお出しできました。犬の型がなかったのが残念ですが」
「犬か……今更だが、ナディアは俺が狂犬モードでも怖くないのか?」
二週間前、お父様を圧倒した彼の姿を思い出す。
荒い口調に、横暴な態度、どこまでも冷たい視線。アスラン卿は五割程度だと言っていたことから、社交界での彼はもっと威圧的な狂犬を演じているのだろう。
明日の夜会ではおそらくその恐ろしい彼の隣に立つことになる。
「正直、少し怖かったです。でも私はクロヴィス殿下が本当は真面目で優しいことを存じておりますから、そのことを思い出したら、恐れ多くも頑張っているあなた様を応援したくなりました」
「怖いからやめて欲しいとは思わないんだな」
「国のために、嫌われることを厭わず体を張っているんですもの。私にできることは応援と心配だけです」
正直、私は支えたくても彼の仕事を直接お手伝いできるとは思えない。むしろ足を引っ張るだけだ。
だから代わりに私はクロヴィス殿下が安心できる場所で、帰りを待ち、疲れを癒す環境を整えてあげたい。
「それしかできませんが、よろしいですか?」
「十分だ」
クロヴィス殿下は満足げな笑みを浮かべて、摘まみ上げたクッキーを口に放り込んだ。「旨いな」と言って、目尻を更に下げた。
この瞬間がたまらなく好きだ。
「明日、頑張ろうな。決着をつけよう」
「はい。宜しくお願いします」
「良い返事だ」
流れるような仕草で、頬に口付けされた。ふわりと鼻腔を抜けていく甘いクッキーの香りで酔いそうだ。
彼は私の顔を見て意地悪な笑みを浮かべた。
「その感じで本当に明日大丈夫か?」
「……キスをなさらなければ大丈夫です」
「さぁ、どうするかな。警戒してよく俺を見ておけよ」
「――!」
クロヴィス殿下の言う通り「人前でキスされるかも」と警戒していれば、周囲の視線に気を取られている場合ではない。それに背の高い彼を見ていれば、視線は下がることはない。
本当に敵わない。やっぱり優しい。
心の中で「ありがとうございます」と告げ、私は明日へのやる気を燃やした。
◇◇◇
デビュタント当日、私は緑の館へは出仕せず研究棟で過ごしていた。ドレスの着替えや化粧は王宮ですることになっており、王宮からの馬車が迎えに来る予定だ。
王宮の馬車は正門に停まることになっているけれど、家族と顔を合わせたくないので時間ギリギリまで引きこもる予定だ。
けれども家族は私を放っておいてくれないらしい。
「ナディア様、王宮の使者をお待たせするわけには参りませんので、本邸に待機するお部屋をご用意しております。そちらにお移り下さい。昼食もご用意しております」
迎えが来る二時間前に使用人が研究棟を訪れ、そう告げた。
「分かりました」
過去の嫌がらせから昼食は何を入れられるか分からないため、「もう食べたので」と断りを入れる。
案内されたのは複数ある応接室のひとつだった。来客用のアロマが焚かれ、時間を潰すためのティーセットと本まで用意されており少し不気味だ。
「ジゼルの良い子アピール? やはり殿下に伝えて欲しいという無言の圧力なのかしら」
先日彼女が意味深に「私、優しいでしょ?」と言ったことを思い出した。
もう手遅れだけれど。
下手に部屋から出て家族と顔を合わすようなことはしたくないので、お茶には手を付けずに本を読み始めた。
すると体に異変を感じ、手を止めた。
「あ……れ?」
本を読み始めて数分もしないうちに急な眠気が襲ってきたのだ。今日のためにたくさん寝たため、この眠気は異常だ。
「ナディア!?」
「大丈夫? ドウシタノ?」
姿を消していた妖精が顕現し、心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「た、助けて……クロヴィス殿下に、そう……伝え……っ」
なんとか声を絞り出して伝えるが、意識はどんどん遠のいて既に立ち上がることも出来なくなっていた。
耐えきれず、私の体は勝手にソファに沈んだ。
警戒して食事もお茶も口を付けなかった。どうして――と重くなっていく瞼の隙間から見えたのは、ろうそくの火が灯るアロマランプだ。
私はその揺れる火を見ながら、意識を手放した。
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