第13話 温かさを知る(1)

 朝、私は頬についた傷痕を見てため息をついた。軟膏がなかったため濡れタオルで冷やしてみたが、やはり赤い線がハッキリと残ってしまっていた。

 いつもより濃い目の化粧を施してみるが、消えるはずもなく。



「でも休むわけにはいかないわよね」

「ナディア……」



 私の頬よりも目元を真っ赤にしたパールちゃんの頭を優しく撫でる。

 するといくつもの光が突然目の前に表れ、光は妖精の姿へと変わった。見覚えのある緑の館の妖精たちだ。



「オハヨー」

「皆様おはようございます。どうしてこちらに?」

「ナディア、迎エニキタヨ」

「まぁ、もうそんな時間!?」



 化粧に時間をかけすぎてしまったようだ。慌てて身なりの最終確認をして研究棟を飛び出す。



「パールちゃん、留守番頼んだわ。行ってきます」

「イッテラッシャイ!」



 裏門へと駆ければ既に馬車が止まっており、アスラン卿が立って待っていた。



「おはようございます。遅くなり申し訳ございません」

「いいえ。僕たちがいつもより早く来ただけですから、お気になさらずに」



 扉が開けられ乗り込もうとして、中から差し出された手のひらを見てパチリと目を瞬いた。



「おはよう、ナディア嬢」

「クロヴィス殿下!?」



 アスラン卿が「僕たち」と言っていたのは妖精たちのことだと思っていたので、思わぬ人物の登場に私は目を丸くして驚いてしまった。

 彼はイタズラが成功したと言わんばかりに、右の口角だけを吊り上げた。



「ほら、手を出せ」

「は、はい」



 手を重ねれば、一回り大きい手が私の体を軽々と引き上げる。

 クロヴィス殿下は騎士のアスラン卿と比べたら細身で、女性顔負けの美しさを持っているけれど、やはり殿方なのだと再認識した。



「ありがとうございます」

「かまわない」



 導かれるように自然と隣に座らされる。肩が触れそうな距離にドキドキしてしまうのは、きっと人との距離に慣れていないせいだわ。馬車で誰かと乗るなんてあまり経験がないんだもの。

 赤くなりそうな顔を伏せようとするが、クロヴィス殿下の手が顎を掴み、私の顔は彼の方を向かされてしまった。



「この傷……」



 やはり化粧で誤魔化すには無理があったようだ。彼は眉間に皺を寄せ、苛立った様子だ。



「申し訳ありません。殿下のお気に触るような傷をお見せして。私の不注意で少し……」



 義母に叩かれたからとは言えない。告げ口などして義母の更なる怒りを買い、また折檻などされたら堪らない。

 そう思い口を噤む。



「不注意……か。気を付けてくれ。見ているこっちが痛くなる」



 ため息をつきながらクロヴィス殿下はジャケットのポケットから見覚えのある軟膏の小さな瓶を取り出した。私が昨日差し上げた物だった。

 彼は蓋を開け人差し指に軟膏を乗せると、そっと優しく頬の傷口の上に伸ばした。



「で、殿下……っ」

「これはどれくらい塗れば効く?」

「もう、十分でございます。ありがとうございます」



 なんとか礼を伝えたものの顔の近さに耐え切れず、思わず逃げるように俯いてしまった。

 せっかく殿下の手ずから手当てしてくださったというのに、なんて失礼なことをしてしまったのか。



 けれども彼は気分を害した様子もなく、「早く治ると良いな」と言って膝の上に置いてあった私の手の上に軟膏の瓶を乗せた。

 使えということなのだろう。軟膏が無くなっていたので正直助かった。クロヴィス殿下が軟膏を塗ってくれたお陰でヒリヒリとしていた傷の痛みはすでにやわらぎ、数日で痕もなく治るはずだ。



「また新しいものを作ったら、お返しいたします」

「気にするな。元々は君の物だ」

「ありがとうございます」



 相変わらず口調は不愛想だけれど、やはり優しさをしっかりと感じる。

 少し気恥ずかしい気持ちのまま緑の館まで馬車に揺られた。



 到着すれば当然のようにクロヴィス殿下がエスコートしてくれ、まるでお姫様のような優雅さで馬車を降りた。

 ここまで丁重に扱ってくれるのは、私が愛し子だからなのだろうか。

 今はどこか恥ずかしくてクロヴィス殿下の顔色を窺うことができない。

 代わりに戸惑うような視線をアスラン卿に向ければ、彼は満足そうに頷くのみ。



「帰ったぞ」

「まぁまぁ、お会いできて嬉しゅうございます」



 いつもは口数の少ない騎士しかいない館から、クロヴィス殿下の声に応える女性の快活な声がエントランスに響いた。

 柔らかい茶色の髪をギブソンロールでまとめ、琥珀色の目を細め朗らかに微笑む中年の女性がいた。彼女は私の姿を見て、優雅に腰を折った。



「ナディア嬢、彼女はレベッカ・アスラン子爵夫人だ」

「アスラン夫人と言うと……」

「俺の乳母で侍女、ニベルの母君だ」



 確かに髪色や瞳、柔らかい物腰はアスラン卿と似ている。



「マスカール伯爵家の長女ナディアでございます。体調が優れぬとお聞きしたのですか、お出になっても大丈夫なのですか?」

「あら、お優しいお嬢さんですこと。坊ちゃん、言い忘れておりますね?」



 坊ちゃんと呼ばれたことを咎める様子はなく、クロヴィス殿下がふいっと視線を逸らす。



「仕方ありませんね。ナディア様、わたくしは見ての通りですよ。ふふふ、本日から復帰させていただきますね」

「侍女試験をするための仮病でしたのね。元気なお姿のアスラン夫人とお会いできて嬉しいです。未熟者ですがどうかよろしくお願い致します」

「わたくしも一緒にお仕事したいのですけれど、坊ちゃんが許してくれるかしらねぇ?」



 アスラン夫人は苦笑し、クロヴィス殿下を見た。



「まずナディア嬢は妖精や愛し子について勉強するのが第一優先事項だ。息抜きにアスラン夫人を手伝う程度なら良いだろう」

「かしこまりました。アスラン夫人、許可が出ました。雑巾がけや力仕事は私にお申し付けくださいね」



 そう言うとアスラン夫人は次にギロリとクロヴィス殿下を睨んだ。

 彼は夫人には弱いようで、バツが悪そうに頭を掻いた。



「基本的に掃除はナディア嬢もアスラン夫人もしなくていいようになっている。妖精たちよ、見せてやってくれ」



 声に反応するように、たくさんの妖精たちが光を弾けさせて現れ出てきた。

 もふもふの髭をたくわえた妖精が「始メルノジャ」と号令をかけると、妖精たち全員が掃除道具を手にして掃除を始めた。

 妖精たちが雑巾をかけた階段の手すりは一度研いただけなのに、ワックスがかかったように光沢を帯びた。足元には風が走り、埃は一か所に集められていく。



「すごい……」

「だろう? こうやって掃除は妖精がしてくれる。侍女はそれ以外のことをすれば良い」

「と言っても坊ちゃんは基本的にひとりで何でもやってしまいますからね、時間が余ってしまうんですのよ。わたくしは妖精とはお話しできませんから、少し寂しくてね。息抜きの際は話し相手になってくれると嬉しいわ」



 アスラン夫人が私の両手を包み込んだ。とても温かい。



「こちらこそ喜んで」



 自然と心からの言葉が出ると、アスラン夫人が笑みを深めるものだから、優しさに慣れない私はまた泣いてしまいそうだ。

 鏡写しのように笑い、出てきそうな涙を追いやった。

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