第12話 緑の館の秘密(5)
ナディア嬢は規格外の令嬢だった。
妖精たちが「今回ノ女ノ子、面白イヨ」、「クロヴィスモ見テ」と、あまりにもせがむ様にいうから様子を見に行けば、自分の目を疑った。
掃除を真面目にするだけでも驚いたというのに、脚立に平気でのぼるわ、スカートをたくしあげて素足を晒して洗濯するわ、歯を食いしばりながらバケツは運ぶわ、あれほど体を張るとは予想していなかった。
視線も関心も奪われ、気付けば勝手に体が動いていた。自分でナディア嬢に掃除を命じておいて、彼女を助けてあげたいと思ってしまった。
すみれ色の瞳から怯えが消えていくのを見て、不覚にも喜びを感じた。
まさに自作自演の救済劇。酷いマッチポンプだと我ながら思う。
念のためスパイかどうか確認するために執務室の掃除を任せれば、不審な行動はひとつもなかった。
成果を褒めれば涙するほどの純粋さも気に入った。
問題は妖精の存在をナディア嬢がどう思うか。知らせなければ良いと思ったときもあったが、愛し子であり守護者でいる俺の側にいれば存在を隠しきれない。
可能ならば彼女には気味悪がられたくない。表に出れば誰にでも噛みつくような狂犬と呼ばれる俺が、嫌われることを恐れていたのだ。
そうだ。褒めただけで泣くような娘だ。とびっきり甘やかして、妄信するくらいに惚れさせれば良いんだ。そうすれば離れていかない。
浅はかな下心で好感度を高めようと偽りの傷を消し、母上と妹姫が絶賛する素顔を晒すことにした。
だがナディア嬢は俺の顔に見惚れることなく、偽っていたことを怒るでもなく、傷が偽物であることに安堵したのだ。後遺症を心配し、薬まで用意して……。
なんて美しい人だ――と、そのあまりの清純な優しさに陥落したのは俺だった。
しかも彼女も愛し子。気味悪がるどころか笑顔で妖精の存在を受け入れた。俺の最大の理解者となりうる愛しい存在。
絶対に彼女の全てを手に入れてやる――乾いていた心に油が落とされ、かつてない情炎を身の内に感じた。
「ニベル、至急ナディア嬢を妃に迎え入れる準備を進める。父上が寄越してくれた資料以外のナディア嬢とマスカール伯爵家の過去の情報を集めてくれ。家庭環境に洗礼式の記録、使用人を買収するために俺の私財を自由に使ってかまわない」
「かしこまりました。やはりクロヴィス殿下も伯爵家に気になるところが?」
「お前もか。侍女候補としてくるはずだったのは、元は義妹のジゼル嬢だった。果たして引きこもりだったナディア嬢が国王の希望を遮ってまで、良い噂のない俺の侍女として自ら名乗り出るのだろうか。そして伯爵たちはどうして傷心から回復したばかりの令嬢を、狂犬の前に差し出したのか疑問だ」
マスカール伯爵は過ちを悔いて家族を大切にし、オルガ夫人とジゼル嬢は血の繋がらないナディア嬢にも気を配る優しい人物だと社交界では言われているが……笑わせる。
不倫をし、正妻と子をそれまで蔑ろにしておいて、母親が亡くなれば優しい家族気取り。全て伯爵側の主観から語られたもので、ナディア嬢からみた真実はどうか気になるところだ。
「そういえば、迎えに行った際も誰も見送りに来たことはありませんでしたね。伯爵や夫人、義妹殿はおろか使用人の誰も……」
「そうか。一応知られぬよう姿を消した妖精を何人かナディア嬢につけた。明日あいつらから現状を聞けるはずだ」
今すぐにでも求婚したいところだが、王族の中でも特殊な立場上そう簡単に許されないのが歯がゆい。ナディア嬢を見送ってさほど時間が経っていないというのに、既に会いたい自分がいた。
控えめな性格に、たおやかな微笑みは素朴だけれど、芯の強さは荒野に咲く強い一輪の花のよう。いつまでも見ていたい美しい花だ。
「クロヴィス殿下に良き人が現れて、僕は嬉しく思います」
ニベルがクスリと笑った。
どうやら俺は随分と緩んだ顔をしていたらしい。事実、これほどまで浮かれた気分になったのは久々だ。
あとはどうやってナディア嬢の心を手に入れるかだ。主君として敬愛を抱いてくれているが、物足りない。彼女が最も求める男になりたかった。
昼間出来なかった公務の書類を片付けつつ、未来計画を練っているとナディア嬢に付けていた妖精たちが執務室に飛び込んできた。
「ナディア、ブタレタ!」
「嫌ナ女ガ、ナディア苛メテタ!」
怒りの形相で報告してきた妖精の光は怒りのあまり熱くなり、近くにあった書類を焦がした。冷静さを失った彼らの話は散らかり、まともに会話ができない。
「落ち着け。まずは見たこと全部教えろ」
意識した以上に不機嫌で低い声が口から出てきた。
お陰で妖精は我に返り、ナディア嬢のことを報告し始めた。
「脅して物を奪っただけでなく、ナディア嬢の頬に傷をつけただと?」
話を聞いた俺はかつてない怒りを感じていた。
はらわたは煮えくりかえって熱くなるのに反して、頭は凍てつくように冷えていく。
義母の傲慢なふるまいや言動、屋敷からその光景を見てほくそ笑んでいた義妹の様子を聞けば、マスカール伯爵のナディア嬢に対する扱いもわかるもの。
今すぐにでも義母に仕返しをするのだと、苛烈なイタズラをするために飛び出しそうとする妖精を止める。
「ドウシテ止メルノ?」
「女王の制約でイタズラの範囲は決められている。そのイタズラ程度では愚かな人間は自分の罪に気付かず反省すらしない。中途半端に刺激しては再びナディア嬢を傷付けるだろう……少々時間はかかるが、正当な手段で俺が手を下す。協力してくれるな?」
「モチロン、ナディア助ケル!」
「帰ってきたときに褒美を用意しておく。頼りにしているからな」
伯爵家の観察を徹底的にするよう命じ、妖精を再びマスカール伯爵家に送る。
右手で頬杖をつき、左手の人差し指で机をトン、トンとゆっくりと叩く。こうすると獲物をどう狩るかイメージが広がりやすく、すっかり癖になっている。
すると手慣れたようにニベルが紅茶ではなく、コーヒーを俺の前に置いた。
「今夜は遅くなりそうですね」
「そうだな。こんなにも噛みつきたい獲物が現れたのは久々だ。しっかり牙を磨いておかないとな」
そう言うと、ニベルは珍しく緊張した面持ちでゴクリと息を飲む音を鳴らした。
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