第56話 穏やかな日々
私がサル村に戻ってからの数日間は、小さな村を大騒ぎにした。
ひっきりなしに村人達が家に押し掛けて来ては、私の話を聞きたがった。私はどこへ出掛けても注目の的になった。
そんな状況が落ち着いたのは一週間ほど経過した頃で、時が経つにつれて村のみんなも私自身も、落ち着きを取り戻すようになった。
私には村長の小さな雑貨屋の店番をする静かな日常が戻った。日中はあまり客の来ない店内の掃除や、たいして売れない箒や鍋を拭いたり、唯一品薄になり易い固形石鹸を補充したりして過ごす。それは実に退屈でけれど平和な日常だった。
サル村に帰って来てから日々が過ぎるのにつれて、遠い王都での出来事が、まるで夢でも見ていたのではないかと感じる瞬間さえあった。王都はそれくらい、今私がいる場所から遠かった。
夕暮れ時になると私は店を閉めて、歩いて二十分ほどの距離にある村長の家に帰るのだ。畑の中にポツンポツンと石造りの小さな家がたつ村の夕焼け色の道を歩いていると、かつて隣を歩いていた騎士の事が私の記憶に蘇る。特に意識せずに、私は胸元のネックレスに触れた。そこにはセルゲイから貰った銀の指輪が、細い銀色の卑金属製の鎖に通されてぶら下がっていた。いつまでも指にはめているのはおかしい、と思ったし、他の人にあれこれ詮索されたくなかったから、指からは外していた。
爽やかな笑顔と大きくあたたかい手は、ここには無かった。取り戻した平穏な生活とともに、そうした瞬間に、私は心の奥底に喪失感を抱く様になった。心臓が締め付けられる痛みに、いつまで耐えれば良いのだろう。これはいつまで続くのだろう。
サル村にも神殿はあった。
だが私は全く宗教には興味が無かったので、今までその小さな神殿には殆ど入ったことがなかった。ある時ふと懐かしさに駆られ、私は神殿に足を運んでみた。
サル村の神殿は小さな広間と祈りの間の二間しかなく、専属の神官は隣に立つ自宅に住んでいて、日頃は自宅の方にいる事が良くあった。案の定、私が神殿を訪れた時も無人だった。規模はまるで違えど、宗教施設特有の静謐な空気感があった。祈りの間の正面には大きな絵画が飾られており、私はその絵を目にした途端、息を呑んだ。
光がさす山の麓で、緋色の神官服を身にまとった一人の男が、両手を胸の前で組み、耳を傾けていた。以前見た時には全く気づかなかったが、それはおそらく天啓を受ける大神官の先祖の絵だった。
私はその絵画をいつまでも眺めていた。
ある日、店を閉めようと準備をしているとクリス兄さんが店までやって来た。
畑仕事の帰りなのか、クリス兄さんの服は土で汚れていた。クリス兄さんは、一緒に帰ろう、と私に言いながら店を閉めるのを手伝ってくれた。店の入り口を施錠したのを良く確認すると、私はクリス兄さんと連れ立って帰り道を歩き出した。私は他愛ない会話を始めた。
「今日の夕飯はなんだろうね。」
「母さんが朝、鶏を焼くとか言ってたぞ。」
私はパリパリに焼けた香ばしい鶏の皮を想像し、ゴクリと喉を鳴らした。
そのまま黙って歩くのも何なので、店番中に仕入れた村人のゴシップを披露しようかと思っていると、クリス兄さんが先に口を開いた。
「最近、リサは元気がないな。」
私は驚いて隣を歩くクリス兄さんの顔を見た。目が合うとクリス兄さんは控え目な笑顔を浮かべた。
「何か悩みがあるのなら、兄さんに話してくれ。少しは役に立つぞ、多分………。」
私は、そうだね、と苦笑しながら相槌を打った。
悩んでいる様に見えたのだろうか?
私はここ最近の自分を思い出して首を捻った。私にはそんなつもりはなかったのに。ただ、平和だな〜、と感じていただけだった。どうやら私はクリス兄さんに心配を掛けていたらしい。
冷たい風が私の身体をぶるっと震わせた。
冬が来ていた。
風に巻き上げられて茶色い枯葉がカサカサと乾いた音を立てながら、道の上を転がって行くのを、私はしんみりと眺めた。風流な人間なら、ここで一句、と言い出したくなる様な初冬の光景だった。
その夜私はパジャマ代わりに兄さんから貰った、ダブダブのシャツに着替えると、さあ寝よう、と布団に潜り込んでから、無意識に胸元に手をやった。
……ない。
思わず私は自分の胸元に目を向けた。ネックレスにして持ち歩いている指輪が無くなっていた。首回りを両手で確認すると、鎖も無くなっていた。
大丈夫、着替える時に落としただけだよ、と自分に言い聞かせながら、私は脱いだ服を振ってみたり、指輪が寝台の下に潜り込んでいやしないかと目を光らせた。
指輪はどこにも無かった。
徐々に私は焦り始めた。寝静まった家の中もあちこち探して回ったが、指輪は見つからなかった。散々探した後、私はついに諦める他無いと判断した。
なくし物に暗い気持ちになりながら布団に再び入った。
どうして。どこで落としたんだろう?鎖が切れたのかな……?
はあっ、と大きく溜め息をついて寝返りを打った。店番をしているときは、確かに首からぶら下がっていたはずだ。店の鍵を閉める為に屈んだ時に、胸に指輪が当たったのを覚えているから、あの時まではあった。ではやはり、帰り道に落としたのだろうか?
そう思うとじっとしていられなかった。
私は布団から出てランプを片手に、家の人達に気づかれない様にこっそり家を抜け出ると店までの夜道を歩いた。
ランプで砂利の地面を照らしながら、目を皿にして指輪を求めた。
どうか見つかって欲しい、と祈る様な気持ちで店までの道を丹念に調べた。
私の祈りも虚しく、指輪は見つからなかった。私は目を手の甲で擦った。
もう一度探そう。
今度は来た道を逆に歩き出した。さっきよりも速度を落とし、見逃さない様に気をつけながら。途中、砂利道と畑の境界付近に枯葉が集まり小山状になっている箇所があった。
私はその場にしゃがみ込んで、ランプを地面に置くと、両手で枯葉を掻き分けて指輪を探した。枯葉自体が水気を失い、硬いので触っただけでは指輪が隠れているか判断が難しく、私は夜の闇に目を凝らし、指輪が混ざっていないか必死に探した。
ない。そこにも無かった。
寄り道もせず帰宅したのだ。もう探すアテが無い。私はもう一度家から店まで歩き、やはりそれが徒労に終わると、最後の望みを託して再び枯葉の小山の中に手を入れた。
「無いよ……。なんで~?」
どうして、どこにいったの。
私は最早半狂乱になって枯葉を掻き分けていた。
セルゲイと二人で買った指輪をなくしてしまった。そう思うとどうしようもない焦燥感に襲われ、苦しくなる。今度は夜の闇では無く、目に溢れる涙で手元が滲んで見えなくなる。
私とセルゲイを繋いでいた唯一の物がこれで失われてしまった。まるで彼との出会いなど無かった様にさえ感じられてしまう。喉元から嗚咽がせり上がるのを抑える事が出来ない。
なんでこんなに悲しいの。心がバラバラになりそうだ。
もう一度家の中を探そう。
鼻水をすすりながら私は立ち上がろうとした。
「リサ……!そんな格好で何してるんだ!」
クリス兄さんがランプを持って私の方へ走って来ていた。ダボダボのシャツ一枚で夜道に座り込み、泣いている私はさぞ常軌を逸して見えただろう。何か言い訳をしなければ、と考えている内に、クリス兄さんは私のもとに辿り着くと、私を子どもの様に抱え上げた。大柄なクリス兄さんの農作業で鍛え上げられた太く力強い腕が私の膝裏に回され、私はクリス兄さんの腕の上に座る形で支えられた。クリス兄さんは絞り出す様に言った。
「こんなに冷え切って……。」
薄いシャツ越しに伝わるクリス兄さんの体温が非常に暖かく感じた。私はその温もりに縋り付くと、クリス兄さんの柔らかい茶髪に顔を埋めて咽び泣いた。
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