第49話 逃走

「だ、大神官様、考え直しましょうよ!というか、良く考えて下さい!ほら、イライザさんの歌、素晴らしかったですよね?キャロンヌさんなんてそれは魅惑的な体型だし!フェリシテなんて、奥様にしたら毎日あの妖精を愛でられるんですよ!」


「愛する女から、他の女をすすめられる辛さが分からぬか?」


 いや、そんな事を言われても。だってそれが私の仕事だったではないか!その仕事をこんな形で終わらせるつもりなど、私には無かった。


「大神官様、あの、色んな意味で本当にムリなんで…」


「大神官などと私を呼ぶな。私の名を呼ばぬか!」


 そんなのムリだ。そもそも大神官の名前を知らない。

 私が困っていると、大神官は私の耳に、唇を押し付けながら吐息と共に囁いてきた。

 アレクシス、と。

 私の耳から凄まじい熱が全身に巡り、腰のあたりが異常にムズムズした。顔から火がふきそうだ。


「アレクシス様、放して下さい。」


 名前を呼べば許して貰えるかと思ってかいがいしく呼んではみたものの、逆効果だったらしい。大神官は感激に胸震わせて、何を思ったのか私の額に熱烈に口付け始めた。

 大神官様ってば、見かけによらず肉食系!

 私の脳内では激しく星が散っていた。


 ーーーもう、死にそう………。


 大神官の両手が私の肩に掛かったかと思うと、そこに力がこめられ、あれよあれよという間に私は後ろに押し倒された。頭が床にぶつかるゴンッという音と同時に後頭部に痛みを感じる。衝突の直後は自分の頭が割れたかと心配になった。私は次々我が身を襲う展開に、目を丸くした。

 あれっ……嘘、嘘。この位置関係はヤバく無い?

 あろう事か大神官は仰向けに倒れた私の上に、のしかかってきた。金糸の様に黄金色に輝く長く柔らかな髪が、私の身体の上に流れ落ちる。そのまま大神官の人間離れした秀麗な顔が至近距離に迫ったかと思うと、その柔らかな唇が私の唇に降ってきた。私は何をされているのか暫くの間本気で理解できなかった。というよりむしろ、失神寸前だった。

 ………そんなはずがない。

 私の勘違いかもしれない。この大神官が私に求婚をして、キスをしたりする訳が無い。

 私はあり得ない現実をあり得ない方向に無理矢理否定しようと、踏ん張っていた。


 嫌だとか、若しくは嬉しいとか、そんな感情は僅かも生じなかった。

 あってはならない、という信じ難い気持ちと、美貌の至高の宗教指導者に対する畏怖から、身体が動かなかった。

 大神官は私からゆっくり顔を放し、私の髪を撫でつけた。優しく髪に触れられるその感覚に背中の辺りがぞわぞわとした。

 私を見つめる大神官の顔の距離が近過ぎて、焦点が定まらない。でも焦点が定まったらその瞬間に天に召されそうな気がする。


「抵抗せぬのか。少しは私にそなたの気持ちがあると考えて良いのか?」


 無いです。

 一ミリも。

 潔く首を左右に振り、否定の意を明瞭に示したかったが、私を組み敷いて見下ろす金茶の双眸は狂おしいまでの色気と熱を含んでいて、怖くて指先一つ動かせない。

 大神官の手が私の頬に触れた。


「私はいつか、そなたが私を憎むだろう、と言ったな。きっとそなたは明日になれば私を嫌うだろう。その前に、私はこの思いを伝えたかったのだ。そなたを愛していると。」


 大神官は私の肩に手を掛けると、私を起こした。そうしてただじっと私の顔を覗き込んだ。私の思考は限界値を越え、この段階で完全にフリーズ状態にあった。


「驚かせたようだな。だが謝罪はせぬ。」


 そう言い捨てると大神官は急に立ち上がり、困惑して床に座り込んだままの私を一瞥すると、神官服をはためかせて、幾重にも落ちるカーテンの中に消えて行った。

 出て行ってしまった。

 私は自分の唇を無意識に触った。

 なんだったんだ。人を煽るだけ煽って、去り際が唐突過ぎやしないか。ここで放置される身にもなってくれ。……いや、相手をされ続けてもそれはそれで困るけど。

 ………本当に、カリスマ大神官が私を好きに?そんなことがあるなど、夢にも思わなかった。私はふいに自分に向けられていた妖艶な眼差しを思い出し、思わず身震いした。

 明日になれば憎む……?というより、明日まで私はここにいて良いのだろうか?

 ――だめだ、だめだ!

 明日になれば何が起きるのか分かったもんじゃない。分かるまでいてはならない。何はともあれ、私は弁済の代わりの職務は完遂したのだ。借金苦の生活は終わったのだ。選ばれた候補者がどうなろうが、大神官が有力候補にトンズラされようが、そこまでは知った事じゃない。これで晴れて私は堂々とお天道様の下を歩ける身なのだ。後ろめたい事は何も無い。


 逃げよう。


 私は大神殿から逃げる事にした。

 超特急で部屋に戻ると荷物をまとめ始めた。こちらで借りていた服や文具類を置いていくと、荷物はたいした量にはならなかった。サル村から持参したちょっと古風なワンピースを着ると、どうにか荷を一つの鞄にまとめ、その布製の鞄を肩に担いで部屋を出ると、なるべく人に見つからない様に廊下を走った。

 途中で何人かの職員や、神官とすれ違ったが、彼等は日頃から私に話しかけて来る事などまずなかったので、急いでいる私を不思議そうな顔でコソコソ見てくるだけだった。

 せめてレストラ高神官には一言挨拶をしてから去りたかったが、直ぐには見つからず、また引きとめられそうな気がしたので、断腸の思いで諦めた。

 夜にはセルゲイが私を訪ねて来る予定だった。

 大神殿を出て行く前にセルゲイには会わなければ。彼に、何があったのか打ち明けよう。何か助けになってくれるかもしれない。

 私は神殿の裏口から出て、建物の外をぐるぐると周り始めた。いつもなら大神殿騎士達がこの辺りを警備しているからだ。

 だがセルゲイはいなかった。


「何をなさっているのです?」


 突然背後から声を掛けられて、私は心臓が止まるかと思った。慌てて振り返ると私の後ろにはアレンがいた。

 彼は私の荷物をちらりと見ると、物言いたげに私を見つめた。


「セルゲイさんは、今どこにいますか?」


「申し訳ありません。私にも分かりません。」


 アレンでもセルゲイについて知らない事があるのか!これには驚かされた。


「あの……アレンさんには大変お世話になりました。今日をもちまして秘書ではなくなりましたので、大神殿を出ていく事に致しました。」


「リサ様は夜逃げならぬ夕刻逃げの最中でしたか。お邪魔して申し訳ありません。」


 ばれていたか。私は恥じ入りながらアレンにお願いを一つすることにした。


「あの、セルゲイさんと夜に会う約束をしていたんですけど、私は今夜は街中の宿に泊まると思うので、七時頃に広場で待っている、と伝えていただけませんか?」


 アレンは私の頼みを一つ返事で引き受けてくれた。私はセルゲイとの約束を守れる事に胸を撫で下ろした。

 アレンはそんな私を見て、口の端を歪めて小さく笑った。


「逃げても無駄だと思いますけどね。」


 えっ、と聞き返す私に向かってアレンはヒラヒラと手を振った。


「私もリサ様と旅をするのは楽しかったですよ。ではお気をつけて。」


 とりあえず早く大神殿を出たかった。

 アレンに別れを告げて敷地を出ると、王都の広場へと続く石畳の坂道を下りた。速足で只管道を下り、一度振り返って大神殿を仰ぎ見た。

 坂道をのぼった先の小高い丘の上の、白く輝く荘厳な大神殿。

 そこに背を向けると私は丘の麓まで下り、中央神殿の前庭に入った。もう一人、会っておかなければならない人がいた。

 アイギル小神官である。

 デフレーへと旅立った日に、私は彼と夕食の約束をしておきながら、すっぽかしてしまったのだ。そのお詫びをしなければならない。それに何より、彼にはサル村から来る時に、とても良くして貰ったのだ。無断で大神殿を出るのはいただけない。


 入り口にいた職員は私の顔を知っていたらしく、私がアイギルさんに会いたい、と言うと直ぐにとりつぎに走ってくれた。

 私は重い鞄を床に下ろし、職員のいなくなったカウンターに寄り掛かって彼が戻るのを待った。

 入り口からのびる廊下の先に目をやれば、デフレー盗賊団の取り調べがまだ行われているのか、中央神殿の中を大神殿騎士達がウロウロしているのが見える。セルゲイがいないか、その姿を目で探したが、やはりいなかった。


「リサ!どうしたのだ。」


 職員に連れられて小走りでアイギル小神官が私目がけてけて走ってきた。息が完全に上がっていた。結構な距離を走ってくれたのだろう。

 私も彼に駆け寄る。


「この間は約束の場所にいけなくてごめんなさい。」


 するとアイギル小神官は首を振った。


「デフレーへ行っていたのだろう?後で叔父上に聞いたのだ。詫びる事は無いぞ。しかしお陰で中央神殿は今この騒ぎだ。……それにしても、その荷物は何だ?」


 私はデフレーで起きた事、そして晴れて債務が無くなったので大神殿を出て行く事を話した。アイギル小神官は目を丸くした。周囲を気にする素振りをみせてから、私にこっそり尋ねてきた。


「リサは大神官様の奥方の選考をお手伝いしていたのだろう?では、大神官様の奥方が決定したのか?」


 驚きつつも、それはめでたい、と顔を綻ばせながら彼は微笑した。私はあやふやに頷き、自分が大神官に所望された事は黙っていた。

 私はとりあえず街中に今夜は泊まり、サル村にいつ帰るかはまだ決めていない、とも言った。


「そうか。帰る日が決まったら教えなさい。私も色々力になろう。サル村の人々もさぞお前の事を心配しているだろう。早く帰って、安心させてあげなさい。……路銀はあるのか?」


 私は苦笑しながら、はい、と頷いた。

 するとアイギル小神官は安堵に表情を緩めて、感慨深めに言った。


「正直、リサが大神殿に連れていかれた時は、どうなるかと思ったが……。無事にお許しを頂けて良かったな。」




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