第46話 瓦解

「セルゲイさん、……セルゲイさん!」


 彼の名を呼びながら、私は低木の上に乗る様にして必死に身を乗り出し、震える手を伸ばしてセルゲイの手に触れた。

 うつ伏せたセルゲイの横顔が僅かにこちらから見える。瞳は閉じられ、薄く開いた口からは赤い血が一筋流れ、彼の白い顎を汚していた。


「セルゲイさん!どうしよう、私、ごめんなさい…」


 私が神力の矛先を間違えたりしたから、セルゲイの身体を飛ばしたりしたから。

 だからこんな事になったのだ。

 私がセルゲイの手を強く握りしめると、セルゲイの瞳が薄く開いた。青い瞳は弱々しく少し彷徨ってから、私に注がれた。


「リサ……。お前が、好きだ…」


「私もっ、私も好きだから、待ってて下さい。今誰か人を…」


 早く手当てをして貰わなければ。でないと、でないと……。辺りを見回し、身体を離しかけた私の手を、セルゲイがぎゅっと握ってきた。


「どこにもいかないでくれ。ここに……俺の側にいて欲しい。」


 そう呟きながらセルゲイの瞳は、とばりがおりていく様にゆっくりと閉じられていった。

 私は泣きながら叫んだ。


「行かない!どこにも行かないし、ずっと側にいるから、だから置いていかないで!!」


 セルゲイの瞳が遂に閉じた。

 絶望に胸を塞がれ、彼の身体にしがみつきそうになった矢先。唐突に背後から声がした。


「セルゲイ様。小芝居はそのくらいになさって下さい。」


 ぎょっとして振り返るとアレンがいた。

 セルゲイの最期を私が看取っているかもしれないこの場面なのに、アレンは腰に両手を当てて私達を見下ろし、その表情は相変わらず冷めていた。

 ………小芝居?

 視線をセルゲイに戻すと、なんと彼は軽やかに上体を起こした。ゆさゆさと低木が揺れ、その重みで枝がパキパキと下の方で折れる音がした。

 クリストファーの剣を受けたはずのセルゲイの胸には、血のシミどころか服にも傷ひとつない。

 私は彼の胸元を食い入る様に見つめた。確かに、クリストファーの剣が深々と刺さるのを、この目で見たのに。どうなっているのだ。

 目を丸くし言葉を失う私の前で、セルゲイは服に着いた葉を払い落とした。同時に彼の胸の辺りから、銀色の細かな砂みたいな物がサラサラと落ちる。


「身体に当たった剣の部分は神力で砕いたんだ。」


 一瞬ばつが悪そうな顔をしてから、セルゲイはどこか楽しげに報告してきた。彼は傍の枝葉の中に沈み込んでいたクリストファーの剣を拾い上げた。剣は真ん中から先が折れでもしたみたいに、消失していた。


 何?

 何ともなかったの!?そんな事って……。


「俺は大丈夫だよ。この通り。……ずっと側にいたい、か……。」


 私は空気を食べているみたいにパクパクと口を動かした。

 セルゲイの瞳は純粋無垢な少年のそれみたいに、キラキラと輝いていた。なんでセルゲイはこんなに嬉しそうなんだ。私は怒って良いのか、喜んで良いのか分からない。


「騙したなんて、酷いです!どんだけ心配したかと…」


「いや、剣から加えられた熱量は全部胸で受け止めたんだぞ。物凄い痛みと熱で、正直気を失うかと思ったくらいだ。思わず口の中を噛んでしまったよ。……それとも男の勲章として、剣の傷の一つくらいある方が良かったか?アレンは凄いぞ?」


 何が凄いんだ。

 私は腹が立ち、手を伸ばすと渾身の力を込めてセルゲイを突き飛ばした。

 セルゲイは引っくり返って、うわ、と呟きながら三たび低木の上に沈んで行った。


「手を貸してくれ。謝るから。リサ、すまなかった。ちょっと調子に乗り過ぎた。」


「ちょっと?」


「いや、だいぶ、調子に乗り過ぎた。お前があんまり心配してくれるから、つい……。」


 私は仕方なくセルゲイの腕を掴み、彼が埋れていた低木から抜け出すのを手伝った。私達が花壇から降りると、男性二人が落ちた衝撃で、ツツジまがいの花々は見るも無惨に散っていた。

 セルゲイがしっかりと立ち、自分の剣を鞘に収め直すと、私は安堵のあまり無意識を口に出していた。


「良かった……。本当に、死んだのかと…」


「いや、本当に死ぬところだったぞ?」


 苦笑混じりにそう言いながらセルゲイは視線を後ろに投げた。そこには、アレンに後ろ手に縛り上げられた格好で、芝の上を引きずられてこちらに連れて来られるクリストファーがいた。クリストファーは骨折でもしているのだろう。歩けずに苦しそうに呻いていたが、アレンは容赦なく彼を引いていた。

 落下地点が花壇でなければ、あの状態になっていたのはセルゲイかもしれなかった。

 今度は私がセルゲイに謝罪する番だった。私は慌てて深く頭を下げ、ごめんなさい、と詫びた。そもそも私のせいでセルゲイは胸に剣を受けたのだ。

 セルゲイは私の頭を黙って撫でた。


「セルゲイ様。他の者達は皆、神殿の正面入口前に集合しております。後はご随意に。」


「ご苦労だったな。膿はサッサと掃除してやろう。」


「リサ様。この茶髪ーーー殺し屋を今から神殿長に突き出します。」


「私も行きます!あの妖怪を問い詰めてやります!」


 アレンは我が意を得たり、といった風情で深く頷いた。


「大神官付秘書と騎士を亡き者にしようとした不届き者は我々が厳正に処罰しましょう。」


 アレンは応接室までの道のりを、まるで芋の入った麻袋でも引きずる様に、クリストファーを引いてスタスタと歩いた。

 味方ながら私は確信した。

 アレンにとって、大神官の奥方候補達にバケツの水をかける事など、朝飯前だったに違いない。


 隠し扉を開けて応接室に戻ると、そこには神殿長が立っていた。広間の客の接待は放棄してきたらしい。いても立ってもいられなかったのだろう。

 彼は青白い顔で私達三人を見て、棒立ちになっていた。ようやく紡がれた言葉は不自然に震えていた。


「そ、その作家殿をどうなさったのです。」


「白々しい事を言わないで下さい。クリストファーは、……っていうか本名は分かりませんけど、彼を雇って私を殺そうとしたのは貴方なんでしょう?」


「なんと。その男はそんな戯言を申したのですか。」


「貴方は大神殿の文書係長を内通者に仕立てましたね?調べれば分かりますよ。」


 するとアレンが口を挟んだ。


「この男の身柄は我々が押さえます。捜査の為に王都まで連行しますので。」


 神殿長は今度こそ血相を変えた。


「デフレーで起きた犯罪は、デフレー自警団が解決いたします!捜査権はこちらにあります。ましてや、この神殿内で起きた事は…」


「事件を揉み消すつもりでしょう?黒い森で私を襲わせた時みたいに。」


 神殿長は目を見開いた。

 どうやら黒幕が自分である事を隠し通せると思っていたらしい。

 彼は驚愕の表情を徐々に戻すと、次には不敵な笑みを見せた。


「若いのに、秘書だかなんだか知らんが、態度に気をつけるのだな。ここは、デフレーですぞ。私はこの神殿の、神殿長ぞ。」


 私は権力に溺れて驕り高ぶる中年男の異様な威圧感に気圧されそうになりながら、自分を奮い立たせた。


「貴方の様な自分の事しか考えられない人間は、神殿長どころか神官としてすら相応しくありません。神の御前で自分がしてきた事を包まず述べなさい!」


 その時だった。

 廊下に繋がる応接室の扉が乱暴に開き、神殿の職員が転がり込んできた。


「し、神殿長、大変です!神殿の正面に、大神殿騎士団の大軍が押し寄せています!」


「なんだと!?」


 神殿長は戸口に立つ職員を突き飛ばす勢いで廊下に飛び出て、神殿の入口へ走って行った。私も急いでその後ろ姿を追う。

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