第36話 デフレー神殿にて
けもの道を抜けて馬車の轍が幾重にも刻まれた小道に出ると、デフレー神殿からの迎えの馬車と落ち合う事ができた。
「秘書様!」
馬車から飛び出て来たのは、髪を振り乱して私に駆け寄るマドレーヌだった。蒼白な彼女の滑らかな頬には掠り傷が数本走っていた。攫われそうになった時についたものだろう。
最有力候補の顔に傷をつけてしまった。大神官付秘書として情けない。カリスマ大神官からお叱りを受けかねない。だがマドレーヌは私の前まで来ると、両手を組み胸にあて、膝を折った。
「秘書様。わたくしと間違われて賊に攫われたと伺いました。わたくしのせいで、申し訳ありません!」
「あ、えーと、だ、大丈夫ですよ?怪我もありませんし。それにマドレーヌさんのせいなんかじゃありませんから。」
厳密に言えば間違われたのではない。あの男達ははなからマドレーヌではなく、大神官付秘書の私を狙っていたのだろう。はっきりとそう言ったのだから。最有力候補というのは誤報が混ざったのだろう。今冷静に考えれば、地元で有名なマドレーヌと、容姿が全く異なる私を間違えるとは考えにくい。だが内容が内容なだけに今それを話したくはなかった。
「マドレーヌさんこそお怪我はありませんか?」
「ありません。大神殿騎士様のお二人に、直ぐに助けて頂きましたので。」
アレンが私とセルゲイにだけ聞こえる小さな声で耳打ちした。
「マドレーヌ様と神殿長を誘拐しようとした男達は、皆捕らえて街の自警団に引き渡しました。」
自警団とはこちらの国にある街ごとの警察みたいなものである。
「リサを攫った奴等は全員殺した。すまん。」
アレンが一度軽く目を見開いてから、呆れた様に溜め息をついた。
「遺体はどうなさったのです?」
「森の中に捨てた。武器以外は何も持っていなかった。」
「それでは背後関係や目的が分かりませんね。マドレーヌ様達を襲った男達とグルならば話は速いですが。神殿長がきつく取り調べをさせると言っていましたから、早晩明らかになるでしょう。」
私を攫ったあの男達が皆殺されたと聞いても、私は同情など欠片も抱かなかったし、むしろセルゲイに感謝したいくらいだ。しかし黒幕が野放しになるのは絶対に嫌だ。
セルゲイは少し考えこむ仕草をした。
「どうかな。………自警団はそれほど信頼に足る組織じゃない。」
ゆっくりと馬車を降りる人物がいた。
神殿長だ。
彼は私を不思議な顔で見た。軽い驚きを含んだ様な、困惑が滲み出ている様な。
私が誘拐された事に動揺しているのだろう。
小刻みに歩を進めて私の正面に来ると神殿長は言った。
「ご無事で何よりです。この地に不埒な輩がおりました事、デフレーの神殿の長として深くお詫び申し上げます。」
神妙な面持ちで神殿長は頭を下げた。
デフレーは聞きしに勝る大きな街だった。
規模や雰囲気は王都に非常によく似ていた。南の王都と呼ばれているのも大いに納得できる。
街の中心に位置する広場も広く、賑わいを見せており、買い物客で溢れていた。赤茶色の石畳を敷き詰めた広場の奥に堂々とそびえる大きな建物が神殿だった。
灰色の塔がぐるりと周囲を囲み、その上部に白い長方形の建物が乗った様な、不思議な形をした神殿だった。
中に入るとあちこちに観葉植物が茂り、やたらマイナスイオンを感じられる神殿だった。壁には所々タペストリーが掛けられ、通された応接室らしき部屋にも大きな絵画が飾られ、なんだか神殿というよりも城の様だった。
私は座った革張りのソファを撫でた。肘掛けの先の方は細かな彫刻のされた光沢ある木でできていて、セットになっている机も象眼細工らしきものがされていて、実に高級そうだった。南の神殿は随分と羽振りが良いらしい。
「迎えの馬車もかなり立派な物だったな。」
私と同じ事を考えたのか、セルゲイが呟いた。
扉が開かれ、神殿の職員が入って来た。
私達三人の目はほぼ同時にその若い女子職員が持つ銀色のトレイに注がれた。どうやら初々しくも緊張しているらしく、トレイに乗ったカップがカチャカチャと音を立てて揺れている。中身が零れていないとしたら奇跡だろう。私達を接待する役目を担っている事が嬉しくて仕方が無い、という様なはち切れんばかりの笑顔を見せている。その職員が恭しく私達に提供してくれたのはお茶とクラッカーみたいなお菓子だった。お茶は見事にソーサーに零れていた。
私達は目に見えて落胆した。カップが持ち手まで濡れていたからでは無い。
身に余る贅沢は慣れるものらしい。毎回神殿で豪勢な食事と酒で歓待してもらっていた為に、つい同じレベルの物を無意識に期待してしまっていたのだ。私達はこの時点でかなり空腹を感じていた。
それにしてもなぜにクラッカー。
もっと気の利いた茶菓子は無かったのか。例えばクッキーとかケーキとか。黒い森でのキャンプで携帯用クラッカーを二食連続で食した私達には、毒の効いた冗談にしか思えない。
「リサ、クラッカーに穴が空くぞ。」
笑いまじりにセルゲイに注意され、私ははっと目をクラッカーから離した。それを見た若い職員は軽やかに笑って言った。
「どうぞ、ご遠慮なさらずお召し上がり下さい!つまらないものですが。」
本当につまらない物だ。ぜひ遠慮したい。
私達がカップに残った茶をチビチビとすすっていると、神殿長と数人の神官達がマドレーヌを連れてやって来た。彼等は浮かべていた愛想笑いを瞬時に消失させてビショビショのカップとソーサーを暫時凝視していた。まさか私達が飲み散らかしたとは思っていないと信じたい。
逆に私はマドレーヌが先ほどとは違う、青いドレスを着ている事に驚いた。とてもよく似合っている。サラリとしたシンプルなデザインが、彼女のスタイルの良さを良く引き出している。
「大神官付秘書様、大神殿騎士様。お待たせ致しました。……デフレー神殿へようこそおいで下さいました。まずはこの偉大な歴史を持つ神殿の中をご案内致しましょう!」
そう言うなりデフレー神殿の歴史について嬉々として語り始めた神殿長を、マドレーヌがやんわりと制止した。彼女は私達を見つめてから神殿長に提案した。
「まずは皆様にお食事を召し上がって頂いては…?秘書様はとりわけ入浴をされたいのではありませんか?」
なんて気が利く女性だろう!
私は是非ともお願いしますと頷いて神殿の浴場を借りる事にした。
私達はマドレーヌに率いられて神殿の奥にある宿泊棟へ向かい、一旦荷物を案内された部屋に置いた。その後浴場へ向かうと、森でかいた汗を気持ちよく流す事ができた。
生きかえる……。
汚れを洗い流して白い大理石調のバスタブに浸かっていると、浴場に誰かが入って来た。
こんな日中の時間に他に客が来るとは思っていなかったので、驚いて出入口を見ると、ドレスを着たままマドレーヌがこちらへやって来た。
まさか背中を流しに来たのだろうか。
特異な現況に言葉を失っていると、マドレーヌはバスタブに浸かる私の近くに屈むと、囁く様に言った。
「秘書様。お手伝い致します。」
て、手伝う!?
「な、何をでしょうか………!」
「お体と御髪を洗わせて下さい。」
私の頭の中は真っ白になったが、マドレーヌはあくまでも真剣な顔をしていた。これは私に対するゴマスリの一種なんだろうか。それとも南では客の体を洗う風習があるのだろうか。
「どちらも洗い終えましたので、お手伝いいただかなくとも結構です。」
「洗わせて下さい。」
断ったにもかかわらず、凛とした表情のままマドレーヌは手桶にバスタブの湯を汲み、豪快な音を立ててタイルの床にまいた。再び湯を汲み床にまきながら、マドレーヌは私の耳元に顔を近づけると囁く様に言った。
「秘書様。部屋には必ず鍵をかけて下さいね。」
なんの事か、と聞き返そうとする口をもう片方の手で塞ぐ仕草をされたので、私は黙った。またマドレーヌは汲んだ湯を床にまきながら口を開いた。
「この南の地は秘書様にとってあまり安全ではありません。」
私はこの時点でやっと気づいた。マドレーヌは他の人に聞こえない様に湯をまいていた。彼女が今話しているのはこんな方法を使ってまで、私と二人きりになり緊急に伝えたい何かなのだ。
落とされた湯がバシャバシャとタイルの上を跳ね、薄っすらと湯気を立てていく。
「この神殿は腐敗が進んでいます。幹部の人間は私腹を肥やす事しか頭にありません。」
私は目を見開いた。腐敗。そんな単語を神殿で聞くとは思わなかった。ましてやこの神殿の出す候補である女性神官の口から。
「この神殿を良くご覧になって、現状を遠い大神殿にお伝え下さい。」
バスタブの湯を殆ど床にまき終えるとマドレーヌは一礼して浴場から退出した。
私はすっかり浅くなった湯の中で暫し考えた。マドレーヌはこれまでの候補者達とは全く違う女性だった。自分を推す神殿を告発するなんて。
マドレーヌが言った事は本当なのだろうか。
私はふと嫌な胸騒ぎがして、バスタブを飛び出した。
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