第32話 黒い森

 船室の窓の外は川岸に茂る鬱蒼とした木々をただ累々と映していた。絶えず夜風に煽られるその大きな黒い影は、千の触手を揺らす不気味な化け物にも見える。時折月の淡い光を受けてチラチラと視界にはいる水面だけが、明るさを持っていた。

 クリストファー・ラングの部屋には多数の武器や怪しげな薬があった。

 アレンがセルゲイに報告した事が、私の気持ちをどこまでも鬱々とした気分にさせた。紗のとばりが頭の中にかかり、同じところを迷走する様に塞ぎ込んだ。素敵な紳士だと思ったのに。ひと時、交流を楽しんだのに。

 私は騙されていたのだろうか?

 あの笑顔は全部作り物だったのだろうか。

 一体私の何がいけないんだろう。大神官の伴侶選考人という特殊な立場?

 なぜ私の周りにはマトモな人が集まらないんだろう。


 急激に周囲を信用出来なくなってきた私は、重苦しく深い溜息を吐きながら眠りについた。





 五日ぶりに降り立つ地上は、足裏に硬く頑丈に感じた。荷物を持ち、岸辺の街を見上げると、思わず口元が綻んだ。

 うわあ…。なんて可愛い街だろう!

 赤や黄、水色の色とりどりの家が愛らしく並び、街中には緑がたくさんあった。各家の窓からはプランターに植えられた鮮やかな花々が顔を覗かせている。雲一つ無い青空も手伝い、どこか心を浮き立たせた。船着場には船を待ち侘びた出迎えの人々が押し寄せ、降り立つ乗客達に手を振ったり、歓声を上げて駆け寄ったりしていた。

 クリストファーは別れ際、にこやかに手を差し伸べながら、機会があればまたデフレー神殿でお会いしましょう、と言って去って行った。また会う機会があるのだろうか。一体彼は何者だったのだろう。

 終点の小さな街からは借りた馬車を走らせて南下し、一泊した後、更に南に行くとその背後には大きな森が広がっていた。


「あれが名高い黒い森だ。陽が沈む前に抜けなくてはならん。」


 セルゲイは馬車の窓から首を出して言った。

 黒い森は幹の太い木々が太陽を遮る如く葉を広げ、土の色もどこか黒みを帯びてその名の通り、全体的に黒く見える森だった。森の中には獰猛な肉食獣だけでなく、盗賊紛いの輩も出現するという噂があり森の中で夜を越えるのは厳禁、とまことしやかに囁かれていた。

 王都と南の最大の街・デフレーを繋ぐ要所であるのにもかかわらず、この様に不気味な森が整備されていないのは、古くからこの森が持つ伝説が大きな要因だった。かつてアリュース王国建国の際に敵側となり、森に逃げ延びた武将がこの森の中で農民に討ち取られた、とか森の中には城があり、非業な死を遂げた有名な美姫が住んでいた、とか面白おかしくもありがたくも無いお話の種が其処彼処に散らばっており、その怨霊を恐れて地元民達は森を切り開こうとはしないのだという。夜な夜な霊達が跋扈する森には長居したくない。

 私達は森の中に入ると馬車を急がせた。時たますれ違う馬車も、狭い道だというのに大層な速度で走っていた。抜ける様な快晴の朝の筈が、森の中は夕刻ばりに薄暗かった。馬車の車輪が枯れ枝や落ち葉を踏みしだく音に遮られて聞こえないが、細い一本道だけを残す手付かずの森は、小動物の鳴き声や虫の音がうるさいほど聞こえそうでそれでいて陰鬱な雰囲気があり、私は一歩だって馬車を降りたくなかった。


 ああ……。トイレどうしよう。

 森の中に忽然と公衆トイレがたつ非現実的な願望は抱かない方が身の為だ。私は極力水を控える様にした。

 水分はしっかり摂りましょう!と何かの健康テレビ番組で、脂ぎった顔のオジサンが力説していたのが私の遠い記憶に蘇った。

 オジサン、私今それどころじゃないの。


「リサ、朝から全然水を飲んでないじゃないか。水筒を忘れたのか?」


 目敏く指摘してきたセルゲイに対して、私は持参した水筒を振って心配御無用、と満タンの水音を鳴らしてみせた。だがセルゲイの心配顔は改善されない。


「水分はちゃんと摂らなきゃ体に良くないぞ。是非定期的に飲んでくれ。」


 お前はオジサンの回し者か。

 乙女のトイレ事情を理解しない男性陣に私は一抹の不安を抱いた。

 それでも持参した昼食は馬車を止めて、道に布を敷いて急いで食べた。流石に水筒に手を伸ばした私は、仕方なく森の中で用を足そうと、一言言ってから馬車から離れた。

 少し木々の中に入りその場にしゃがむ。

 ホーウ、ホーウとどこかでフクロウみたいな鳥が鳴く声がする。足に視線を落とすと見た事もない巨大蜘蛛が、甲を這い上がっていた。

 叫びたくても叫べなかった。お尻丸出しのこの姿を断じてあの二人に見られる訳にはいかないからだ。そんな死ぬほどの恥をかくなら、一人で蜘蛛くらい退治出来る筈だ。私は無言で足を振り回し、黒い塊を追い払うと泣きそうになりながらどうにか用を済ませた。

 二度と嫌だ……。

 黒い森なんて大嫌いだ。


 森の枝葉は狭い道にも手を広げて繁り、馬車の窓をバシバシと叩いた。

 これでは御者が大変だろう、そう思った矢先。

 ギャーっ、と叫び声が上がり馬車がガクンと急に右へ動いた。眼前に迫る木々に息を呑んだ瞬間、私の体にがっしりとした何かが巻き付き、私は窓に向かって突っ込む様に吹っ飛んだ。

 一瞬何が起きたのかまるで分からなかった。気が付くと私は重いものにのし掛かられて、馬車の中で横たわっていた。

 私の髪と一緒に顔に巻き付いているのは大きな人の手だ。目を瞬きながらその手を退けると、耳元でセルゲイの声がした。


「大丈夫か?」


 顔を起こすと、私はセルゲイの腕の中にいた。私達は馬車の側面に横たわっていて、足の上に転がる荷物をアレンが退けてくれた。顔のすぐ横からは割れた窓を突き破り、木の枝が馬車に入り込んでいた。それが顔に当たっていたら、と思うとゾッとした。まさか……。セルゲイの手に視線を走らせると、傷一つなかった。良かった。私を庇ってくれたせいで、怪我でもされたら堪らない。

 馬車は森に突っ込む形で、ほぼ横転していた。


「皆さん、怪我は無いですか?」


 私が震える声で尋ねると、御者の声が外からした。


「馬が、馬が一頭やられた!くそっ!」


 馬車は二頭の馬で引かれていた。

 アレンがその声を聞いて頭上の窓を破り、驚異的な身体能力を発揮して馬車の外に飛び出した。大神殿騎士達は日頃、一体どんな訓練をしているのだろう。私は無意識にセルゲイの無傷の手の甲を見た。それとも実は彼等は神力の補助を使っているのだろうか?ガラスが散らばるこの車内の惨状で、誰一人傷を負っていないのは単なる不幸中の幸いなのか?


「セルゲイさんとアレンさんって、神力が使えるんですか?」


 セルゲイはアレンが消えた馬車の窓に顔を向けたまま答えた。


「ああ。大神殿騎士達はある程度の神力が入団条件になるからな。」


 そうなのか。

 おかしいと思っていた。

 キム先生の病院に行った時のセルゲイは、どう考えても超人的過ぎた。いくらセルゲイが鍛えた体格をしていても、ボディビルダーの様に筋骨隆々なわけではない。私を抱えてあれ程の速さで階段を上がるのは普通なら不可能だろう。


「おい、何してるっ!?」


 アレンの緊迫した声が外から聞こえた。

 どうしたのだろう、と耳をそば立てていると、二人が何事かもめる声がして、続けて馬のいななきと蹄の音がし、それは遠ざかって行った。

 待て、と叫ぶアレンの声。


「アレン、どうしたんだ!?」


 セルゲイが外に向かって叫ぶと、アレンは信じ難い事を言った。


「御者に逃げられました。」


 私達は半壊した馬車と、最早動かない馬一頭とで黒い森のど真ん中に置き去りにされた。

 二人の手を借りて外へ這い出て、荷物を出すと、私は一縷の望みをかけて横倒しに転がる馬に近づいた。

 気絶しているだけかもしれない…。


「リサ様。お気をつけて。蛇がいます。御者は木から飛び出た蛇に驚いて手元を狂わせたのでしょう。」


 私は硬直した。

 サル村ではトカゲみたいな爬虫類しか見かける事がなかった。ここには蛇もいるらしい。

 どうしよう?

 どうしよう!

 現状が恐ろし過ぎて頭の中がパニックになりそうになる。まだ森を出るまでは馬車を飛ばして数時間はかかる筈だった。

 でも、どうしようもない。

 冷静になれ、私。

 引き返すより進む方が距離は短いのだ。先を行くしか無い。つまり、歩くしか無いのだ。

 彼等は私の護衛だ。

 そこに首を傾げたくなる点は多々あったが、一応護衛だ。

 大神殿秘書の立場である私がこんな時に狼狽えてはならない。訳のわからない使命感に駆られ、私は二人を叱咤した。


「い、行きましょう……!」


 盛大に震える私の声をよそに、二人は至極落ち着いていた。私の分の荷物まで担ぐと、さっさと歩き始めた。焦燥感に駆られて不自然な呼吸をする私とは対象的に、二人は冷静沈着そのものだった。


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