第30話 衝突
船は定刻通りに航行し、快適で順調だった。
広い船内には娯楽がたくさんあった。
乗客を飽きさせない様に、ホールの舞台では常時様々な演目が用意されていたし、女性向けには手芸の講座もあり、私は移動中の暇を持て余してそこに参加し、やたら装飾的なカードや絵皿作り、ガラス玉を使った花の模型制作をしたりもした。
やはりデッキから眺める光景は格別で、風光明媚な街や何百年も前に捨てられた古城、珍しい鳥の群れ等の側を航行する都度、乗組員が滑らかな口調でそれらを説明してくれた。
船は何度か途中の街で停泊し、乗客を降ろした。その僅かの時間に街に降りて買い物をする乗客もいたが、船は定刻になると乗客が例え揃っていなくても、必ず出航することになっていたので、私は時間に間に合わずに置いていかれる事が怖くて、街には降りない様にしていた。
船内にあるいくつかのレストランは、夜にはバーに姿を変え、乗客が集った。
カウンター席であれば一人で飲んでいても気後れする事はないし、実際一人客も少なくなかったので、私は部屋にいることに飽きると夜はバーに来た。
一人グラスを傾けながら、自分のこれまでのやるせない人生について再考した。店員は無駄に話し掛けてこなかったし、カウンターの他の客達も、私と同じ様に静かに飲酒しながら物思いに耽っているようだった。薄暗い灯りと、焦げ茶の木造の店内が軽く酔った頭に気持ち良い。
私はグラスの中の茶色い酒に浮く氷に視線を落としながら考えた。大神官はマドレーヌを必ず連れ帰れ、と言った。私の選考を通すまでも無く、強大な神力の持ち主なのだろうし、最有力候補だからこそ、大神官も自分の目で判断したいのだろう。
今回、私が行く意味は実質的には無く、選考人であるという体裁だけを繕う為に行くようなものだ。
あの大神官が結婚するというのが、どうも想像出来ない。誰かと並び立ち、家庭を築く姿が私の貧弱な想像力ではまるで描けない。でもそれをやってのけてくれなければ、私の仕事に終わりが無いのだ。
カラン、とグラスの中の透明な氷が動いた。
誰かが私の隣の席についたのが、視界の端に映った。
「こんばんは。随分度数の高い酒を飲まれてますね。お強いんですね。」
「こんばんはクリストファー。」
彼は手にしていた一冊の本を私に差し出した。黄色人種の男が困惑した表情をこちらに向けているイラストが描かれた、分厚い本だった。
「先日パーティでお話した私の本ですよ。リサに差し上げます。」
私が礼を言いながら本の表紙を感慨深く眺めていると、彼は言った。
「異世界にご興味が?本に書かれている事以外にも、まだ色々と私が知っている事であればお話ししますよ。」
「本当に?教えて下さい!」
彼によれば、この世界は第一界と呼ばれていた。第二界は最も文明の進歩が先を行っていて、宙に浮く街や、空飛ぶ箱が行き交う、超絶ハイテクな世界らしかった。第三界はこの世界に最も似ているらしい。第四界は科学技術の進歩や産業の革命といったものが一際遅れた世界なのだという。とは言え、第五界以外の情報自体が古いものなので、実際には現在どうなっているかは誰にも分からない。
そんな話を聞いて私が感心していると、クリストファーが顎先で私の後方を示した。
「リサの隣の部屋の方がいらしてますね。」
振り返ると、店の奥の立ち飲み用の丸く高いテーブルにセルゲイが寄り掛かり、グラス片手に私を見ていた。私と目が合うと、ふい、とそれは逸らされ、周りにいた女性客に向かった。予想を裏切らない男だ。
二人の若い女性と共に、木の実のローストをつついている。
「目立つ男性ですね。先ほどから私達の様子を窺うかの様にこちらを見てきますよ。何故なんでしょう?」
私は焦って話題を変えた。
「あの、クリストファーは独身ですかっ?」
聞いてから猛烈に後悔した。
私は何を質問しているんだ。
クリストファーは一瞬驚いて目を見開いた後、豪快に笑った。
私は恥ずかしさのあまり、グラスをあおいで残りの酒を一気に喉に流し込んだ。喉に焼ける様な熱さが広がる。
「独身ですよ。残念ながら交際している女性もいません。リサは?」
なぜか私は視線を店の奥のセルゲイへと走らせていた。ああもう、なんでセルゲイがこんなに気になるんだろう。最近、気がつくとセルゲイを目で追っている。そんな自分が嫌だ………。
一人の女性がセルゲイの腕に手を掛け、もたれる様にしな垂れていた。ギュッと心臓を掴まれた様な痛みが走る。
そのまま女性がセルゲイの方に顔を上げて、彼の白い頬にその紅い唇を寄せていくのが見えた。………やだ。
酷く見たく無い気持ちになりながら、それでも目を動かせないというジレンマの中、彼等に見入ってしまった。
女性の唇がセルゲイの頬に触れそうになった瞬間、セルゲイはふい、と何気無い仕草で上体を反らして腕を絡ませる女性をそっと押し退けた。
その時私と再び目が合い、薄闇の中でも光る青いそれは咄嗟にバツが悪そうに瞬きをし、逸らされた。
「私も、彼氏募集中です。」
クリストファーに向き直ると彼はくつくつと笑い、赤と黄の可愛らしい層の飲料が入ったグラスを私に寄越した。彼の手には青と緑の層の飲み物があった。
「それをリサに。女性客に人気らしいですよ。」
グラスを手に持ち、まずはその綺麗なコントラストを目で楽しんだ。
「ありがとうございます!……あの、クリストファーはどうして異世界にそんなに詳しいのですか?」
私はサル村から王都への道中、もっと自分と同じ境遇の人達について知りたくて、エルンデ達に様々な質問をぶつけたのだ。しかし、守秘義務の名の下、彼等は殆ど何も教えてはくれなかった。それなのに、クリストファーは何故こんなに情報通なのだろう。特に他の界について知っている、というのは通常では考えられない気がした。
「………ここだけの話ですが、かの偉大な大神殿にも、色んな情報を流してくれる人がいますからね。それも、信頼厚い地位にいる…」
ドン!
と背中に衝撃が走り、勢い良く前のめりにさせられた私は空いていた片方の手をカウンターについて体を支えた。手の中の飲料はほぼこぼれ、私の胸元をビショビショにしていた。何事かと動転して背後を確認すると、剣呑な眼差しをこちらに向けるセルゲイが立っていた。
「な、な、な…」
何をするんだ、と怒鳴りつけてやりたいのに、あまりな理不尽に怒りを通り越して頭が真っ白になってしまい、言葉が上手く紡げない。
「失礼。服を弁償させて下さい。」
心にも思っていなそうな台詞を吐き、セルゲイは私の腕を掴むとひったてる様に席から立ち上がらせた。もう片方の手で札束を乱雑にカウンターに置くと、彼は出口の方へ猛然と私を引っ張って行く。
「ま、待って下さい…!あんなに私、飲んでません。お釣りが…」
「釣りなんて要らない!」
要らないなら私にくれないか。
そう提案する間も無く私は店の外に出ていた。どこまで引っ張る気か、と腕を振り回してセルゲイに尋ねたが、セルゲイは黙ってそのまま私をずんずんと部屋まで連れて行った。
部屋に入るとアレンが寝ていた。
就寝が早過ぎないか。
いや、そんな事はどうでも良い。
ようやく離された腕を擦りながら、セルゲイを睨みつけた。
「どういうつもりですか!さっき、わざとぶつかりましたね!?」
「忠告を無視しただろう。あの男、お前に渡した酒に何か入れていた。」
「嘘…。」
「本当だ。」
私は自分の服が酒で濡れそぼっているのも忘れて棒立ちになった。確かにクリストファーがあの二色の飲み物をくれる直前、セルゲイを見ていたので、クリストファーと酒を見ていなかった。嘘だとは切り捨てられない。
でも。
その時はセルゲイだってクリストファーを視界に捉えていなかった筈だ。なぜなら。
「セルゲイさんは、あの時女性にキスを迫られていたじゃないですか。クリストファーが何かするところなんて見ようがないでしょう。」
傲然としていたセルゲイの表情が気まずそうに揺れ、私は勝った様な気分になった。
「怪しい動きをすれば、視界の端にいても分かる。お前こそ、随分俺の方を見ていた様じゃないか。……さてはヤキモチかな?」
「ヤキモチなんか……」
やいていない、そう言おうとした。
………あれ。
でも。本当に?
違うとしたら、逆に何なのだろう。自分がセルゲイに感じたあれらの気持ちは、どう考えてもヤキモチと呼ぶに相応しかった。
それを自覚するのはあまりにショックだった。こんな筈じゃない。セルゲイは私の一番苦手とするタイプの男だったじゃないか。
私を見るセルゲイの瞳に焦れた様な強い光を見出した。時折私はセルゲイの奥に、違った顔を見た。笑顔の眩しい親切な表面に隠れて、ふとした拍子にそれは姿を表した。この船に乗ってから、とりわけそういう違った一面を見る機会が増えた気がする。
セルゲイは掴みどころが無い。私が見ている彼はごく一部であって、彼は私が捉えていないその本質をどこかにしまっている、という気がした。私の本能が、彼に惹かれる事を押し留めようと踏ん張っていた。
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