第17話 それぞれの恋と愛
神殿に戻ると私は例によって、通過儀礼をしなければいけなかった。
バケツに水を汲んで、お二人に掛けてくれませんか?
にこやかに、なけなしの愛想を総動員させて私は神殿職員にお願いしてみた。しかしワイヤーの職員達は世にも奇妙な物体を眼前に置かれた様な顔で、そんな事は出来ない、と言って来た。私は試しにフェリシテにならい、小首を傾けて出来る限り可愛らしい声を作り、再度お願いしてみた。
しかし、職員は言った。
「大事な候補になっているお二人に、そんな真似がどうしてできましょうか。秘書様、無理を仰らないで下さい。」
どうやらニコニコ笑っていれば全て上手くいくのは、美少女限定らしい。私は作戦を変更し、大神殿の権威を振りかざす事にした。自分の目を座らせて背筋をピンと伸ばし、一転して威厳がありそうな顔つきに変えてみた。鏡が無くて幸いだ。自分の顔が見えないので、自分は今、大神官付秘書に相応しい立派な人物に見えると信じられる。
「必要な作業なのです。皆さん、今までそうして下さっていますよ。」
だが職員は首を縦に振らない。なかなか話の分からない奴だ。それとも、みんなそうしている、と言えば従うのは日本人だけなのか。
「私は大神官様から奥方選びを一任されているのです。」
やんわりと脅迫を滲ませてみたが、案の定効果は無かった。この職員は鈍いのか。それとも私の地位か人間としての重みのどちらかに不足が有るのか。
私は仕方なくバケツだけを借りて、自分で水を汲みに行くしかなかった。水をなみなみと溜めたバケツは重く、それを運ぶ気分はまるで学校でお仕置きをされている子供だった。その上中の水は歩く振動で振られ、気をつけてても少しずつこぼれてしまう。私はヘンゼルとグレーテルの様に道すがら点々と水溜りという目印を落としながら神殿の廊下を進んで行った。
「そなた何をしている。」
声に気づいて顔を上げると正面に大神官とアレンがいた。大神官はフェリシテとさっきまで一緒にいたのにいつのまに。
「これを二人に頭からかけて怒らせるのです。怒らせないと神力が見えないので。」
「……なんと野蛮な…」
野蛮とはなんだ。私は顔を白くさせて非難がましく私を見下ろす大神官に反感を抱いた。誰の為にやっていると思っているんだ。
「シュゼの前例がありますから、確実に怒らせたいんです。私だってこんな事はしたく無いですよ。」
「では私がいたしますよ。私は彼女達にどう思われ様と構いませんから。」
アレン!!
氷崖なんて言ってごめんなさい。なんて親切なんだ。
良識ある大人として、形ばかりの遠慮を一度しておくべきが悩んだが、アレンに遠慮を本気にされたら困る。図々しいかもしれないが、私はお言葉に甘えてさっさとバケツをアレンに差し出した。その時、後方から可愛らしい声がした。
「皆さん、宴会の準備が整いました。広間へお越し下さい。」
振り返ると、丁度廊下の先からフェリシテとパウラがやって来るところだった。まさに絶妙のタイミングだ。私が素早くアレンに目配せすると、彼は分かっている、と小さく頷いた。
「今夜はこちらに宿泊なさるのでしょ?」
フェリシテが視線は大神官に投げたまま私に聞いてきた。私は二人の後ろに静かに回り込んだアレンに目を固定したまま答えた。
「はい。明日の朝出発するので。」
ザバッ!!
アレンは見事に彼女達の頭から水を降らせ、
そのあまりの勢いに正面にいた私もかなりの
被害をこうむったが、職務に専念していた私は冷たさを全く感じなかった。フェリシテは瑞々しく良く熟れた果物を彷彿とさせる薄桃色の炎を、パウラは大地の様な暖かい茶色い炎を見せてくれた。特にフェリシテのそれは期待以上に大きく、年齢を考えればこれからが楽しみだ。
………もう、フェリシテを大神官にゴリ押ししたい。彼女は大神官の狭量な条件を全てクリアしていた。年の割には出るところも出ている。五年ほど経てばきっとキャロンヌに負けず劣らない体型になっているだろう。実に楽しみだ。人の全精力を奪えるカリスマ大神官の神々しさを物ともせず、楽しそうに話している点も、相性の良さを表している。
広間では宴会の準備がされていた。
私は一旦濡れた服を着替えて、広間に向かおうとした矢先に、パウラに呼び止められた。
彼女はどこか神妙な顔つきで、話がある、と言ってきた。
「私の両親が営む食堂が、ここの近くに有るんです。少しお時間を頂けませんか?そこで聞いて頂きたい話があるのです。」
食堂に付き合えば宴会に遅れそうだが、パウラの真剣な目つきから、私は彼女が何か大事な話をしたがっているのだと思った。それに私は個人的には彼女にとても好意を持っていた。子供がいるという事情から、私に話しておきたい事があってもおかしくはない。
宴会を主催してくれている神殿には申し訳ないが、私はパウラについて行く事にした。
神殿からワイヤーの街の中心にある広場を横切り、小さな店がひしめく小道に入った所にパウラの両親の食堂はあった。あまり目立たないこじんまりした店で、ちりん、と鳴る鈴がついた木の扉を開けると、カウンターの中にいた中年の夫婦がいらっしゃいませ、と声をあげてから、パウラを見て笑った。
「あら、パウラだったの!お帰り。お友達?」
私はパウラが両親と思しき二人に、私の正体を明かす前に、代わりに返事をした。
「そうです。リサと言います。こんばんは。」
パウラは何かを言いかけたが、私の顔を見てからやめ、ふっと親しみのある笑顔を浮かべて、手近な席に着いた。するとカウンターの更に奥からパタパタと小さな足音がして、小さな子供がペンギンの様にヨチヨチとこちらへ歩いて来た。なぜか片手を上げている。
「ままー。」
パウラがその子を抱き上げた。抱き上げられると子供は不思議そうな顔で私を見た。ビー玉の様な瞳をパチパチとさせ、愛くるしい。
「私の子供です。一歳半なんです。いつもここに預かって貰っているんです。」
私は聞きにくいけれど、彼女の事情は知っておくべきだと感じて敢えて質問した。
「あの、ご結婚はどうしてしなかったのですか…?」
「……この子の父親は結婚しようとしていた矢先に事故で亡くなってしまったんです。」
「そうだったんですか…。あの、お辛い事を言わせてしまってすみません。」
「いえ、その事を含めて私の方こそお話があったので、お気になさらないで下さい……。」
パウラのお母さんが紅茶を持って来てくれた。柑橘系の爽やかな香りがするお茶だった。神殿に戻れば宴会が待っているので、私達は食べ物は注文しなかった。
パウラのお母さんは私と目が合うと目尻を下げてにっこりと笑ってくれた。私はその暖かい表情に村長の奥さんやーーーもう会うことを諦めた自分の母親を思い出した。蓋をした感情が僅かに顔を出し、胸が締め付けられる様に痛んだ。
パウラの子供はテーブルに置かれた紅茶にいたずらしようと必死にその小さな手を伸ばしていた。
「私は神力には恵まれていたので、この子を育てる為に神職に入ったんです。……お恥ずかしい話ですが、ここはあまり客が入らなくて経済的にゆとりも無くて。」
なるほど、確かに私達以外の客がいない。立地も良いし、夕食時なのにこの状態だとすれば、素人でも食堂の経営状態に危機感を抱いた。
「半年前に大神官様の奥方候補を推薦する様に、中央神殿から御達しが来た時は、女達は皆興奮して、もしや自分が選ばれるのではないかと色めき立ったんですよ。大神殿の中に入る事ができる機会なんてほぼありませんし、………それに、大神官様は大変お美しい方だと有名ですからね。」
そうだったのか。確かに女性にとってはシンデレラストーリーみたいなものなのかも知れない。
「確かに大神官様は見目麗しい方ですけど…」
「やっぱりそうなんですか!?……拝見したかったですわ。」
流石に、パウラさんももう何度も見てますよ、とは言えなかった。
「私、ですから候補に選ばれた時は単純に嬉しかったんです。……それに……もし運良く大神官様の奥方になれたら、家族を楽させられると思って…。」
私は頭を急に冷やされた気分だった。
そんな理由で大神殿に上がりたがる人もいるという事に今まで気づいていなかったのだ。
でもどうしてパウラはわざわざそれを私に話してくれたのだろう。動機が不純で私の心象が悪くなり、選考には明らかに不利になるとは思わないのだろうか。尤も大神官の趣味も褒められたものではないが。
「この子の為に、何とか出世したかったんです。私が大神官様の奥方になれたら、この子にも最高の教育を施せます。」
そう言って彼女は子供のフワフワとした柔らかな髪のそよぐ頭をそっと撫でた。子供はパッと笑顔になり、私まで口元が緩んだ。
紅茶を一口頂いてから私は口を開いた。
「でももし、大神官様と結婚する事になれば、もうここへは戻れませんよ…?お子さんの同行が認められるかも私には分かりません。」
それともパウラは男児を生んだら実家に帰る算段なのだろうか。……それは大神官が許さないだろう。彼は自分の両親の結婚生活と同じ結果を迎える事を恐れているのだから。
パウラは子供をギュッ抱きしめると言った。
「候補を辞退させて下さい。」
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