第24話

 カミオカが捕まり、ひとまずの脅威は去ったが、モニカの行方は今だわかっていない。

 もしかして殺したのだろうか。一旦はそう思ったが、頭に浮かんだその可能性を僕は振り払うようにかぶりを振った。そんなはずはない。

 もしもカミオカがモニカを手にかけたとすればあの部屋にモニカの死体がなければおかしい。死臭を愛する変態のカミオカだ。自分が殺した人間をそのまま放置するとは考えづらい。他の場所に隠している……というのもないだろう。

 わざわざ周囲に臭いが漏れない特別な部屋を作ってしまうくらいだ。あんな部屋が他にもあるとは思えない。希望的観測だと言われれば返す言葉もないが、モニカが生きているという可能性については最大限の希望を持ちたい。

 きっと、なんらかの事情で連絡がつかないだけだ。きっと近いうちに彼女から連絡があるはず。彼女を捜すことすらできない自分の無力さを、無理に前向きな思考でごまかす。モニカともう会えなくなるなんて、そんなことあるはずがない。そう思い込んでいないと、頭がおかしくなりそうだった。

 僕はというと、カミオカのアパートで気を失ってすぐに病院へ担ぎ込まれた。

 しかし、アイスピックで複数個所刺された太ももと横腹は、思っていたより重傷ではなかった。それでも全治4週間の大けがであることには変わりないが、入院の必要はないらしい。だが大事を取って、一週間は家からでないよう医師からは釘を刺された。

 解放されたのはつい1時間ほど前。怪我人だということも考慮され、事情聴取もそれほどの時間は取られなかった。僕自身もとてもじゃないが落ち着いて話をできるような状態でもない。

 少女の死体を含め、数々の事件にカミオカが深く関わっているというのは警察の見解も同じだ。

 田原修一の罪が明るみに出れば、もう二度と社会復帰することはない。

 そう思いながら僕は大きく溜め息を吐いた。

 もちろん、安堵の意味もある。だがそれ以上にこの数か月間……特に終盤にかけての出来事を思い出し、その疲れからくるものだった。

 おそらくは一生、僕の記憶にまとわりつくだろう事件。あの不快で吐き気のする嫌悪感の塊の臭い。大量の蛆。ハエ。ずるずるに腐り崩れた死体。擦りつけられた茶色いなにか。刺された太ももの痛み。傷。無理矢理カミオカにフェラチオされる屈辱。人を殴った感触。恐怖。緊張。悪寒。臭い。エンマ虫。

 次々と巡るトラウマに足る映像や感触の数々。不思議と身震いしなかったのは、まだ思い出になるには時間が早すぎるからだろう。

 汚物にまみれた服は捨てた。新しい服を着ているし、シャワーも浴びたはずだ。なのに、体があの臭いが取れない気がする。常に、死臭を纏っているような気がする。

 いつかこの臭いは無くなるのだろうか。そんな日が来るのだろうか。

 とにかく今は、モニカに会いたい。今頃どこにいるのだろうか。警察にもモニカの捜索を訴えたが、すぐに動いてくれるだろうか。

 僕の味わった悪夢をすべて洗い落とすには彼女の力が必要だ。

 モニカ、君は今どこにいる。


 僕の部屋のあるマンションに戻った。

 松葉杖は初めてなので、歩くのに手間がかかる。思うように歩けずイラつくが、足一本自由にならないだけでどんな体たらくだ、と自戒する。

 五体満足の時には気付かない幸福。自分は恵まれているということを知らない。なにかが人より違うというだけで社会は生きづらい。

 自分が違うのだと自覚してから、色々なものが歪んで視えるのだろうか。もし、僕の足が一生このままだとしたら、この先、ずっと幸福を感じずに生きるのだろうか。

 きっと、生涯、昨夜のカミオカとの出来事のせいにして過ごすに違いない。そのたびに、僕のペニスを美味そうに咥えながら笑うカミオカの顔を思い出し続ける。

 他人に話せば、その滑稽にも思える映像に笑われるだろう。だが彼らは知らない。誰もが笑うような出来事に、ごくわずかに笑わずに真顔でいる人間がいることを。

 それがカミオカであり、僕だ。僕はもはや普通の人ではなくなってしまったのかもしれない。

 ふと視界の端から黒いなにかが現れ、壁を這ってどこかへ向かってゆく。

 その虫を目で追いかけてゆくと虫はとある部屋の窓から中に入って行ってしまった。

「あ……」

 それは、僕の部屋だ。

 見ると部屋の前では他の部屋の住人が数人出てきて中をうかがっている。

「こんにちは……」

 素通りするのものなんなので当たり障りのない挨拶をすると、彼らは軽く会釈をして散った。

「…………?」

 僕の部屋でなにかがあったのか?

 怪訝に思いつつも、松葉杖を持ちながらもたつく手で鍵を開けた。

「ん、いい臭いだな」

 部屋に入ると甘ったるいような、脂っぽいような香りが鼻先をくすぐる。

 誰もいないはずの部屋に充満する香りに鼻をひくつかせながら思考を巡らせる。

 ……わかった! モニカだ! モニカが僕を驚かせるために料理を作ってくれているに違いない!

 僕は彼女に先月、付き合った記念に花を贈った。そして、フラワーカードに部屋の鍵を忍ばせて置いたのだ。『いつでも使っていいよ』というメッセージを添えて。

 それで彼女はその鍵を使用したのだろう。ニクい演出じゃないか。

「ただいまぁ!」

 奥にいる彼女に聞こえるよう、大きく声をかけた。

 だが僕が期待した返事は返ってこない。

 薄暗いままの部屋だが、確かに人の気配はする。その証拠に暖房が効いていた。

「仕方がないなー」

 奥の部屋に彼女はいるのだろう。僕の声が聞こえていないはずはないが、大方驚かそうと思って黙っているに違いない。

 よし、それなら彼女の術中にはまってやろうじゃないか。

 もたもたと靴を脱ぎ、松葉杖を三和土の壁に立てかけると、壁にもたれながら部屋へ向かう。

「ただいま、モニカ!」

 僕の予想に反し、彼女はいなかった。

 それどころか、僕が最後に部屋を後にした時の光景となんら変わっていない。

 エアコンを消し忘れたか?

 エアコンを見てみるが電源は点いてない。では部屋のこの温度はなんだ。

 ふと、妙に湿度が高いのに気が付いた。

 ……風呂だ。バスルームから熱気と湿気が漏れているんだ。

 血の気が引く。もしかして僕は追い炊きしたまま出かけてしまったのだろうか。

 それならばこの湿気も熱気も説明がつく。いや、それしか考えられない。

 急いでいるのに思うように進まない足を呪いながら、バスルームのドアの前まで来ると室内灯のスイッチのところにメモが貼ってあるのに気付いた。

『プレゼント』

 ……プレゼント? やっぱり、モニカが来たのか?

 不思議に思いながらバスルームのドアを開けた。

 その瞬間、ミストサウナのような湿気と熱気が僕の身体を抜けてゆく。同時に、得も言われぬ幸福感に包まれる。その正体がなんなのか考えたが、答えは瞬時にでた。

 香りだ。このなんともいえない、甘ったるく脂ののった香り。これがたまらなく僕は好きなのだとわかった。

 バスルームの壁中にエンマ虫がわさわさと歩き回っている。一匹や二匹ではない。数十匹はいるだろうか。

 今の僕はこの期に及んで虫なんかに驚いたりはしない。そんなものより怖ろしいものをたくさん見てきたのだ。

 バスルームに入り、ケンケン跳びで進む。

 一体、なにがこの香りを生んでいるのだろう。僕は胸を高鳴らせバスタブを覗いた。

 ごぽごぽと時折水泡を弾かせながら、


 モニカが煮込まれていた。





参考文献

『事件現場清掃人が行く』 高江洲敦 著(幻冬舎アウトロー文庫)

『葬儀屋と納棺師が語る不謹慎な話』 おがたちえ 著(竹書房)

『葬儀屋と納棺師と特殊清掃員が語る不謹慎な話』 おがたちえ 著(竹書房)

『葬儀屋と納棺師と遺品整理人が語る不謹慎な話』 おがたちえ 著(竹書房)

『事故物件サイト・大島てるの絶対に借りてはいけない物件』 (主婦の友社)

『訳あり物件の見抜き方 (ポプラ新書)』 南野 真宏 著(ポプラ社)

『大島てるが案内人 事故物件めぐりをしてきました』 菅野 久美子 著(彩図社)


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閻魔蟲 巨海えるな @comi_L-7

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