第23話

 龍太郎は黙ってしまった。きっと龍太郎なりに色々なことを想像しているのだろう。それでいい。

 カミオカさんとモニカを持ち上げると、龍太郎に近づく。

 龍太郎は僕の気配に気付くと肩を震わせた。麻痺していた正気が戻ってきている証拠だ。思っていたよりも短かった。

「紹介するよ、これは僕の最愛の人。小林さん……通称カミオカさんだ」

「え?」

「カミオカさんは僕の憧れの人でね。ラジオの人に声がそっくりなんだ。それに事故物件以外にもいろんなことに博識で、人からも人気があって。龍太郎がいなくなったから仕方なく僕が代わりになった。だって、カミオカさんのいない世界なんて退屈じゃないか」

「カミオカ……龍太郎……って、上岡龍太郎?」

「は? なに言ってる。カミオカはカミオカだ。龍太郎はあの時の内閣総理大臣、橋本龍太郎からだ。カミオカさんが付けた特別な名前にケチをつけるな」

 蓋を開けると、炭酸飲料のように小さくぷしゅっと空気が抜ける音がした。瓶に充満していたガスだ。

「不本意なんだけど、長く固形を保つのに少しだけ薬品を使ってる。素材そのままってわけじゃないけど、君にもカミオカさんがどれだけ素敵な人だったかを知ってもらいたくてね」

 龍太郎の顔の上で、瓶を逆さにする。茶色くどろどろとしたカミオカさんが龍太郎の顔にびちゃりと音を立てて落ちた。

「臭っ! う、うおえぇ!」

 顔に落ちたカミオカさんをばたばたと手で払う。だがほぼ液状化したカミオカさんは龍太郎の顔の至る所に居座っている。

「ほら、次はモニカ」

「ち、違う……名前が」

「ああ、そっちのモニカじゃない。こっちのモニカだ」

 うずくまりえづいている龍太郎の頭に、今度はモニカをかけてやる。こっちももう冷凍庫にストックがない。これで最後だ。

「ぅおぇええっ……! げえっ! がはっ」

 吐くものなんてもうないのに、龍太郎は胃液ばかりを咳と一緒に吐いている。その微笑ましい姿と、色々な人間の肉と汚物の混じりあった臭いがビリビリと全身に刺激を与える。

「僕はカミオカさんと恋愛がしたかったんだ。だけどそれは叶わぬ願いだった。尊敬していたんだけど、僕の能力でお金儲けしようとしていたらしい。それについてはそこまでショックじゃなかったけど、そういう目でしか見ていなかったんだってのは結構ショックだったんだ。わかるかな? 僕はちゃんと性の対象としてカミオカさんに見てもらいたかったんだよ。

 カミオカさんがいなくなって、僕が新しいカミオカさんになって、新しいサークルや、カミオカさんの意思を継いで事故物件サイトなんかやったりしたけど……。

 やっぱりカミオカさんと恋愛をしたかった。だから、龍太郎。君を見つけた時はときめいたよ。カミオカさんになる前の僕とそっくりだったんだから。それに声がヤベにそっくりだ」

 しきりにおえおえと言っている龍太郎を押し倒し、強引にキスをする。ねじこんだ舌で味わう、酸っぱい胃液の味がする。下腹部に熱い血流が集中してゆくのがわかる。

 龍太郎は苦しそうにし、必死に僕を引き剥がそうとするがその力は弱弱しかった。

「僕がカミオカさんで、君があの頃の僕なら、『できなかった恋愛』を今やり直せばいい! だから龍太郎、君が加入した時は運命だと思ったよ。あとは君にエンマ虫が視えるようになれば完璧だ!」

 唇を離し、肩をゆすりながら熱弁を振るう。口だけでなく、本気で運命だと思った。

 龍太郎の存在は、僕にとっては奇跡だ。

「だがどうだ。また僕と君との間に邪魔が入った。奇しくもまたあいつだ。またあいつが僕を……違う、僕の恋人をそそのかそうとしている」

 モニカの姿が瞼に浮かぶ。なにが死体愛好家だ。そんなに死体に憧れているのかと、死体をプレゼントしてやったのに泡を噴いて失神するとは。あの時の僕がどれほど愕然としたのか。こいつにはわからないのだ。

 龍太郎の頭に乗ったままの茶色いモニカを見て、沸々と怒りが沸き起こる。手づかみでモニカを握り、龍太郎の頭皮に刷り込んだ。

「やめっ、やめて! やめてください!」

「モニカ、モニカって! うるさいんだよ! なあ!」

 唇を歪ませ、ほとんど白目を剥いて痙攣している龍太郎はそれでもかわいかった。

 自分という人間を、客観的に見るだけでこうも愛しく映るのか。ならばこの恋は成就させてやらねばならない。

「さっきの続きをしよう」

 僕たちが心身ともにひとつになるには、今しかない。今しか互いの気持ちを全身で受け止められない。本能的にそう判断した。龍太郎と僕はひとつだ。カミオカと僕がひとつなように。

「これまではあの頃の再現だった。だがここからは僕の望む未来だ」

 龍太郎のズボンに飛びつき、ベルトに手をかける。龍太郎にもこの気持ちが伝わったのか、抵抗しなかった。

 ベルトの金具を外すのに夢中になっている時、キラリと顔の近くでなにかが光った。

 そんなものを気にしていられない。欲しい。臭い、臭いアレが欲しい。鼻を突きさすような、刺激的な臭い。死体のそばで! 死臭にまみれながら、エンマ虫に囲まれて僕は!

 部屋中の壁を黒々しく無数のエンマ虫が這っている。みんな、その時を待っているのだ。

 ……父さん。父さんの臭いがする。懐かしい臭いだ。

 ズボンのファスナーに手をかけた瞬間、ぶっつりと視界が途切れた。

 突然の暗闇。遠くで龍太郎の……僕の声が聞こえる。

「このゴミ野郎!」

 ゴミ……? ゴミのなにがいけないんだ。ゴミの臭いは、口臭に似ているぞ。




夜半過ぎ、龍太郎はサイレンの尖った音で眠りから引きずり戻された。

 まどろむ目で重たい頭を持ち上げると、冷たい水の感触が頬に残る。目を落とし合点がいった。頬の水は自分のよだれだ。

 サイレンの音はいつのまにか止まっていた。聞こえるのは点けっぱなしのテレビの音声だけだ。観ていた番組は終わっていた。

 頬に付いたよだれを拭いながら、番組の途中で眠ってしまった自分を呪う。カリスマ霊能者、宙(ルビ/そら)マチ代が久しぶりにテレビにでるということで楽しみにしていたのに。彼女が登場する前に落ちてしまったようだ。

 興味のないスポーツニュースを垂れ流すテレビを消し、点滅する赤い光に近づいた。

 窓越しに光が漏れ入ってきていたのだ。

「なにかあったのか」

 ひとりごち、龍太郎は外へ出た。

 パトカーが2台と救急車が停まっている。そして、深夜にもかかわらずやじ馬でごった返していた。

 なんの騒ぎかと近づくと、黄色いテープが張られた向こう側で警官らが物々しい雰囲気で行き来している。なにか事件があったらしいことは一目瞭然だった。

「殺人かもね」

 爪先を立てて現場をのぞき見している龍太郎のそばで突然、知らない男に話しかけられた。

「殺人、ですか」

 知らない男よりも「殺人」という言葉に思わず声がうわずった。まわりの野次馬仲間数人から注目を浴びる。

「しっ。声が大きいよ。殺人というのは俺の予想さ。だが間違いない」

 ひょろりとした痩せた髭面の男がいた。

「どうしてそう言い切れるんですか」

「簡単さ。昔もこの辺で殺人があった」

 そんなことは初耳だった。殺人事件? 嘘だろ。

「調べればすぐにヒットするさ。知らないか? 『99番目のお隣さん』」

「なんですか、それ」

「事故物件公示サイトだ。都内だけでもごまんとヒットする」

 龍太郎は初めて聞くサイトの存在と、近くで人殺しがあったことへの驚きで少しの間言葉を失った。

 男はそんな龍太郎を見て、髭をさすりながら笑うと「こういうのは重なるもんなのさ。だからあれはきっと殺人だ」と、龍太郎のマンションを指さした。

「あそこのグレーのマンションあるだろ。あそこは最近建ったんだが……建て直す前のマンションでひどい事件があってね。その時は緑色のフレッシュな感じだった。だがさすがに入居者が減ったらしい。数年して更地になったよ。やっと買い手がついたのか、今は綺麗になってちゃんと町に溶け込む色になった」

「ひどい事件……」

「気になるかい」

「いえ……でも」

「じゃあ一度遊びに来るといい。歓迎するよ」

 そう言って男は龍太郎に名刺を手渡す。

『事故物件サークルOwl Night』

「事故物件サークル?」

「今、絶賛メンバー募集中だ。実は『99番目のお隣さん』の管理人とも知り合いなんだ。いずれサークルに呼ぶこともあるだろう。サイトを見て、面白そうだと思ったら是非」

 その時は空返事で返したが、後日龍太郎は考えを改めた。

『99番目のお隣さん』に、龍太郎のマンションが掲載されていたのだ。



 赤く明滅する光で我に返った。

 ハッと足元を見るとカミオカの頭。慌ててそこから離れる。血を流して倒れているが、いつ起き上がって来るかわからない。

 あの時、咄嗟に拾ったガラスの破片でカミオカの首を斬りつけた。無我夢中で、その後は覚えていないが僕は助かったようだ。

 ……カミオカは、死んだのか――。

 ここからでは生死の判別がつかない。かといって近づいて確かめる勇気もなかった。

 うわん、うわん、とやかましいサイレンが段階を経て状況を理解させる。あれはパトカーの音だ。

 放射線を描くように近づくサイレンの音。ひとつ、ふたつ、みっつ……最低でも三台のパトカーが駆けつけたようだ。

「あ……」

 あの時のスマホ。カミオカが僕のモノにむしゃぶりついている時、僕が連絡したのは『ストレンジャー』だった。状況を説明している余裕などなかったので、僕が住む町と、警察に電話してくれという内容しか送信できなかった。正直、意味が通じたかどうかわからないくらいに支離滅裂な内容だったと思う。

 届いていたとしても、ストレンジャーが警察に電話してくれるかは微妙だったし、それだけで警察がここに来てくれるかどうかは期待薄だった。

 僕は運がよかったのだ。

「た、助かった……」

 ドーパミンでも出ているのか、今は太ももと腹の傷の痛みは感じない。ジンジンと痺れているだけだ。だがパンパンに腫れた足は動かないし、腹の傷に触れると熱い。

 やはりどう落ち着いてみても僕の置かれている状況は夢でないらしい。

 階段を慌ただしく上る足音。外から呼びかける声。それらは遠く薄く聞こえる。血を流しすぎたのか、それともただ疲れただけなのか、意識がゆっくりと遠のいていく。それはぬるい湯に浸かっていくような、心地よい感覚だった。



 それから後のことは、警察の人に聞いた。

 部屋で腐敗していた子供らしき複数の死体の身元は確認中であること。瓶詰にされていた茶色いなにかも同じく調べているところだという。

 カミオカはやはり、「田原修一」だった。

 田原修一は首に大けがを負ったが一命をとりとめ、現在治療中だそうだ。回復を待ってから傷害で立件するという。僕は被害者ということでカミオカを怪我させたことに関しては、正当防衛が適用されるだろうと言われた。事実、カミオカのアパートから死体が見つかっている。そして、話によればあそこにあった死体はあれだけではない疑いがあるという。

 カミオカは定期的にあそこで死体を腐らせては臭いを楽しんでいたのだろうか。ともすれば、その素材……つまり死体はどこから手に入れたのだろうか。自分で手にかけたのだろうか。

 考えても答えが出るわけでもない。無駄な時間を過ごすだけである。それにもっと肝心なことがわかっていないのに僕は気をもんだ。

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