第22話

 思った通り、部屋に明かりが灯る。ドアを押しながら部屋を眺めてみると、そこは沢山の棚に囲まれていて、倉庫として使っているようだった。

 窓があるはずの壁際にも薬品棚らしき棚がもたれかかっており、考えた通り窓は塞がれている。

「もしかして……」

 カミオカの気配に警戒しながら、窓側の棚の背後を覗き見る。遮光カーテンがかかっているが、特別板張りなどがされているふうではない。

 ……あの棚さえどければ、窓から逃げられる!

 だがそんなことをしている余裕があるだろうか。僕の背丈よりも頭一つ分ほど高い棚は、中は相応に収納されているはず。そこそこの重みはあるということだ。

 それをこんな足を引きずって素早くどけることなどできるだろうか。

 僕は窓以外にもここから脱出できそうな要素を探す。――が、他は完全な密室と化している。考え付く唯一の方法はやはり窓しかなさそうだ。

「……くそ!」

 声が出ないよう歯を食いしばりながら呻く。絶望的状況だが、わずかな可能性に賭け棚をどけるしかない。短い間にいくつものシミュレーションを重ねるが、どのパターンも死に直結し、助かるビジョンが浮かばない。それでもやるしかなかった。

 改めて中をうかがう。足音はしない。

 それを確認したのと同時に、棚まで近寄ると両端を掴んだ。

 幸いだったのは、棚の幅が両手を開いて余る程度の長さだったことだ。手が届かない幅だったことを考えるとまだ希望が持てた。

 もうひとつ、幸運があった。それは思っていたよりも棚の中身が少なかったことだ。

 パンパンに収納されていれば、その分重さも増す。今の僕には致命的な事態になりかねない。

 とにかく、ドアから離れた以上、カミオカに経過する意味を失った。あのドアが開けばその時点でジエンドだ。

「ん、くぅ……!」

 腫れた太ももから血が噴き出す。痛みに叫び散らしたくなるのを堪える。それでも気が遠くなりそうになったので、ネクタイを噛んだ。

 ズズ

 ……動いた!

 足は気絶しそうに痛いが、棚は十分動かせることがわかり光明が差す。音を立てないよう、それでいて素早く動かさなければ。

 さらに力を込め、棚を斜めにずらしてゆく。心の中で「来るな」と呪文のように唱えながら。

 ガタッ!

 その瞬間、息が止まる。ガラスがぶつかり合う音が室内に跳ね返るように響いた。

 不覚にもその音の犯人は僕だ。急いで棚を動かそうとするあまり、棚が傾いていたことに気付かなかった。

 傾斜の付いた棚の中で、瓶が棚のガラス戸に当たったのだ。

 そのままの体勢で他の音は一切出すまいと息を止め、様子をうかがう。今のはアウトではないか。アイスピックで全身を穴だらけにされて死ぬイメージが霧のように脳みそを覆った。

 あの生暖かい部屋のものなのか、冷蔵庫のモーター音のような音だけが微かに鳴っているだけで、それ以外は物音ひとつしない静寂の間。

 カミオカが入ってくる気配はない。

 僕は胸を撫でおろした。慎重に棚のガラス戸を開くと音を立てた瓶を抜いてしまおうと手を伸ばす。

「小……林……?」

 茶色いぐずぐずとした液体か固体か判別のつかないなにかが入ってる手のひら大の瓶。一見すれば、長い間付け込まれた梅干しのようにも見える。その瓶にはラベルが貼ってあり、「1996年 小林泰二」と書いてあった。ふとよぎる「カミオカ」の名。

 僕の知るカミオカは、「田原修一」なのか。それとも田原の部屋に住んでいるだけで、小林という名前なのか。

 だとすれば、自分の名を記したこの瓶はなんなのだろう。そこで立ち止まるようなものでもないと知りつつも、「カミオカ=小林」という考えが拭えない。

「こんなことしてられない」

 気を取り直し、もうひとつあった瓶を取った。何気なくそれのラベルも見てみるとそれには「1996年 野上涼子」とあった。こちらも中身は茶色い梅干しのようななにかだ。

 知らない女性の名前だ。少なくとも、モニカのことではない。モニカの本名は「三ツ谷柚希」だからだ。

 音を立てないようふたつの瓶を邪魔にならないところに置いた。

 再び棚を動かす作業に戻る。もうずいぶん前から指先どころか手首から先の間隔が寒さで麻痺している。この部屋は外とほとんど気温が変わらない。こんなにも寒いのに、太ももの傷だけは時間が経つほど熱を帯びてきた。

 この窓から飛び降りることが出来ても、自力で逃げ切るのは不可能だろう。あれから時間も経っているし、誰かが来ることを期待できない。

 幸せそうな表情で僕のペニスをフェラチオするカミオカの顔がよぎる。気温とは無関係の悪寒が、こもった力を奪いそうになった。

 必死で悪夢のような映像をかき消しつつ、やっとの思いで人ひとり分の隙間を作ることができた。ドアを振り返るが開く様子はない。

 とにかく、逃げ切ることはこの部屋から脱出できてから考えることにした。大声で喚き散らすのもいい。とにかく外に出ることだ。

 こんな異常な場所に一秒もいたくない。

 そう思いながら、黒い遮光カーテンを開いた。

「手間取ったようだな、龍太郎」

「わあああっ!」

 カーテンを開くと窓の手すりに張り付き、ガラスに顔を付けているカミオカが現れた。

 想定していなかった戦慄の光景を前に、僕は腰を抜かしてしまった。飛び退いた拍子に背中がぶつかり、棚が烈しい音を立てて倒れる。その上に腰かけるような体勢で窓に張り付くカミオカを見上げた。

 カミオカは手に持ったハンマーでいとも簡単に窓を割り、力任せに枠を引き外した。

「サプライズは成功させると、なんとも言えないカタルシスを味わえるよね」

 カミオカはあのドアからしか現れないと思い込んでいただけに、僕は絶望を味わった。

 足音や気配を感じなかったのは当然だ。なにせカミオカはこれがしたいがためにあそこにいなかったのだから。

 もしも僕がバカみたいに棚を動かさず、カミオカの気配がしないことを不審に思った時点で中の様子を見ていたら――。

 単純に玄関から逃げられたのだ。だが、カミオカは僕がとる行動を読んでいた。

 窓に張り付いて待ち構えるリスクは、カミオカにとっては「必ず訪れる未来」だったのだ。だから疑いもせず、ずっとここで待っていた。

 驚く僕の顔を見たいがために。

 とても理解できない。なぜ僕なんだ。なぜ僕にだけそこまで執着するんだ。

 自分の人生の終わりを予感し、体中の力が緩む。涙がとめどなく溢れ、鼻水やよだれもみっともなくだらだらと垂れ、下半身では失禁していた。

 埃をかぶったように髪の毛に雪を乗せたカミオカが、僕の股間を見て「ひひひっ」と笑った。奴がなにを考えているのか分かる。わかるからこそなにもかも厭になった。

 邪悪なような、純粋なような、複雑で単純な、僕がこれまで見たことのない種類の顔。

 一体、これはなんだ。この生き物は、なんなんだ。なんのために、存在しているのか。

「カミオカさん……あんた、一体誰なんだ」



 見るからに仕上がっているではないか。

 龍太郎は小便で濡らした股を開き、すべてを諦めたような顔をしていた。

 血と小便が混ざり、間近で嗅ぐと興奮しそうだ。あちこちにエンマ虫が壁を這っていて、シチュエーションとしても最高だった。

 別に龍太郎を絶望させたかったわけではない。単に驚かせたかった。喜んでもらいたかったのだ。そのついでに死ねばいい、と思っていただけで。

 だからすべてを諦めきったこの顔は、これはこれでいいのだが望んだものではない。死がメインになってはいけないのだ。沢山、怖がって、驚いて、泣いて、そして最後には希望に満ちた顔を見せてほしいと思った。

 僕は龍太郎を見下ろしながらこの次の行動に迷っていた。このままつまらなくなるくらいな幕引きにしたほうがいいのか、それとももう少し遊ぶべきか。

 ここで終わらすのは勿体ない気もするが引き際も肝心だ。どこで幕を引くかで傑作も忽ちゴミ以下の駄作になってしまう。自分に美学というものがあるとは思わないが、そういうところは多少こだわりを持っているのかもしれない。

 ……ああ、でも龍太郎にはあれを見てもらわないといけないからなあ。

 龍太郎に送る最高のプレゼントがあることを思い出し、ここで死なすのはやめた。でももっと龍太郎の臭いは楽しみたい。だからもう少し遊ぼう。僕はとりあえず、そのように決めた。

「カミオカさん……あんた、一体誰なんだ」

 放心状態の龍太郎が突然、そんなことを聞いてきた。

「あんたは、田原修一か、小林泰二か」

「表札……、郵便物か」

 龍太郎がどこで僕の「昔の名前」を知ったのか。思いつくのはひとつだ。

「田原修一、小林泰二、ヤベオカ。色々名前はあるけどね。でも君には『カミオカ』と呼んでほしいな。そうでないと再現ができない」

「ヤベオカ! ヤベオカは酒井じゃなかったのか」

 案の定龍太郎は誤解していた。

 21年前、カミオカは酒井を利用し、事故物件本の出版を図ったが協力者の酒井はひとくせもふたくせもある男だ。簡単に情報を垂れ流すとは思えない。

 そこで内見ツアーを企画し、酒井にギャラを支払うことで恩を作る策にでた。

 時間はかかるがそうして関係を作ろうとしたのだ。

 だがそんな時、エンマ虫が視える僕と知り合った。カミオカは僕の力を利用し、目的の加速化を図った。僕の力があれば、酒井にわざわざ事故物件を紹介してもらわなくとも、いくらでも裏どりができる。

「僕は『カミオカ』さ。小林でも田原でもない」

 そう、カミオカは僕だ。

 数年前、カミオカとなった僕は酒井に自分が何者かを打ち明け、協力させた。本の計画は時代とともにインターネットのサイトに姿を変えた。99番目のお隣さんの管理者として。

 ヤベオカを名乗ったのはその頃からだ。

 酒井はおとなしく言うことを聞くようになった。

 皮肉な話だ。奴の方が死体に憧れがあったというのだから。『死体愛好家(ルビ/ネクロフィリア)』はモニカではなく酒井だったのだ。あくまで「憧れ」止まりだが。

 よくよく考えてみれば、カミオカと面識があったのはそういう趣味のつながりからかもしれない。

「名前はなんだっていい……何者なんだ。なんで僕やモニカを……」

「似てるんだ。君は僕……いや、龍太郎に。それにあの女」

 三ツ谷柚希――。あの嘘つき女の野上涼子と同じだ。

 大体、死体愛好家を自称しておきながら僕とのセックスに溺れている時点で気が付くべきだった。……だが仕方ない。僕もあの時は初心者だったから。

「僕があんたに似ている? やめてくれ」

 龍太郎の口調はいつもと違い、遠慮のないものになっている。死を予感し始めてやさぐれているのだろうか。だがそのくらいのほうがますますあの頃の僕に近い。いいぞ、その調子だ。あともうひと仕上げできっと。

 ぐったりとし、抵抗も諦めたという様子の龍太郎を横切り「カミオカさん」を探した。

 ガラス戸のガラスが割れ、さながら飛び降り死体のようになっている棚のすぐそばに瓶はあった。

 なにか理由があって龍太郎がここに置いたのだろう。うまく棚を避けていて無傷だった。この分が無くなってしまったらちょうど冷凍庫の分もない。これが最後の「カミオカさん」だった。だから、このようにして「カミオカさん」が助かったことに僕は運命を感じてしまう。

 隣にモニカがいることも僕を嬉しくさせた。死んでいなかった頃のモニカは死体愛好家だと無理のある嘘を吐く淫売だったが、死んでからは大人しいし臭いだけならカミオカさんよりも臭いから気に入っている。誰もみな、死ねば一緒だ。ただの肉。

「敗血症の死体が欲しいんだ」

「……え」

「敗血症。敗血症の人間が死ぬと、死体が傷みが早くて臭いもすごいんだ。なかなかお目に罹れないし、手に入らない」

 龍太郎は不思議そうな顔をしている。諦めているとはいえ、いざ会話をすると少しずつ正気に戻ってくるのだろう。純粋に僕が言っている意味がわからない、といった様子だ。

「そこの保管室で子供の死体見たろ。あそこは僕が自家製で作った死体保管庫だよ。いつでも温度と湿度を一定に保って、死体をゆっくりと腐らせる。そして長く楽しむんだ」

「楽しむ?」

「臭いだよ。せっかく死体を手に入れても、臭いが外に出て騒ぎになったら勿体ないだろう。すぐに持って行かれてしまう。だから、臭いの漏れない部屋を作った昔の仕事がずいぶん役に立ったね」

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