第17話

「しつこいですよ。同じ問答を何度も繰り返している暇はありません」

 今まで以上に眼に力を込め、睨みつけてやる。酒井は口角を引きつらせた。

 カバンから折り畳み傘を出し、広げる猫背の男はやれやれ、と言わんばかりに首を横に振るとこちらに背を向けた。

「おい、どこに行くつもりだ! まだカミオカさんの住所を聞いてない!」

「教えない、と言っているのがまだわからないんですかあ。それで納得できないのなら、言い方を変えましょう。カミオカさんの住所なんて知らない」

「ふざけるな!」

 頭に血が昇り、一瞬、訳がわからなくなった。力の加減が出来ず、酒井の胸ぐらを掴んだ際にYシャツのボタンがはじけ飛ぶ。

「乱暴はやめてくださいよお! 通報しますよ」

「……あんた、『ヤベオカ』だろ」

 ひゅっ、と短く息を呑む。途端に酒井は目を泳がせた。

「な、なんですか『ヤベオカ』って! 誰と間違えているのか知りませんけどねえ、いいがかりはよしてください!」

「いいがかりなんかじゃない。この間の『Owl Night』のイベントにも来ていただろう。『ヤベオカ』として。声に聞き覚えがあると思っていたんだ。ずっと考えていた。それでようやく思い出したんだ。あれは……あの声はあんたの声だよ。いま改めて聞いて確信した」

 イベントの時、壇上で喋っていたスケキヨマスクのヤベオカ。猫背の佇まい、声、間違いなく酒井だ。

「あの時、あそこにいたのはあんただ。でも、本当にヤベオカなのか? それともあの場だけヤベオカを装ったのか」

「さあ。わたしにはさっぱり」

「しらばっくれるな、殺すぞ!」

「こ、今度は恫喝ですか。知りたいことを聞けばなんでも喋るとお思いのようですが、そんなに御世間様はちょろいものではありませんよ。知りたいことは自分で確かめなくちゃあ」

 酒井の左頬に拳がめり込んだ。酒井はよろけると2,3歩後ずさり、ぺたりとしりもちをつく。殴り慣れていない拳はジンジンと痺れ、焼き付けたように拳が解けない。

「ひどい人だあ。いきなり殴るなんてあんまりじゃないですか。大体、わたしが『ヤベオカ』であろうが、なかろうがあなたには関係がない。それを知ったところでどうだというのです」

「あるさ。あんたが本物かどうかは確かにどうだっていい話だ。けれど、どちらにせよカミオカと親密でなければあんな舞台に上がって話をしたりしないだろう。普段から内見ツアーでカミオカから金を受け取っていたあんたは知っていたはずだ。あの人はそこまで左団扇じゃない。それなのにそれを承知で付き合っている。そこにはなにかあんたらしか知らない密約めいたなにかがあったんだろ」

「想像でそこまで話せれば大したものです。しかし、それと暴力とは別じゃあありませんか」

 金を受け取るなんてとんでもない、聞こえるか聞こえないかすれすれの声で酒井は囀った。

 酒井は頑としてカミオカについて話そうとはしない。僕はこのままでは埒が明かないと観念した。

 殴った拍子に酒井が落とした傘を拾い、傘の部分を引き千切ると骨だけにする。

 それを持ち、酒井の喉元に突き付けてやる。

「本当に死なないとわからないみたいだな」

「しょ、正気の沙汰じゃない……! なにをそこまで必死になっているんですかあ!」

「言え。どこだ」

 喉輪で首を圧迫しながら、傘骨の先端を鼻先数センチまで突きつけ、ドスを効かせると酒井は声を裏返して叫んだ。

「わかった! わかったからやめろ!」

「早く言え!」

「カミオカの家は――」

 今年初めての雪は思いのほか本降りだった。へたり込む酒井に構わずその場を後にする頃には、アスファルトや家の屋根を綿あめのように薄く積もり始めていた。

 冗談のような事実を前に、僕は呆然としていた。



 かなり前から、カミオカの僕に対する態度はおかしかった。

 他のメンバーと比べて僕だけ特別扱いをしているような気はずっとしていたし、それを気のせいだと思い込むことでなんとか無視を決め込むことができた。

 やけに目が合うというのも向こうが僕のことばかりを見るからだろう。

 だからといって、それが恋愛感情だと考えることができるだろうか。同性愛に偏見はないが、それでも普通、そうは思わない。

 髭を蓄えた、ワイルドな風貌だからこそ余計に。

 酒井から聞き出した住所に僕はまだ疑いを持っていた。そんなところにカミオカが? 考えられない。

 歩むたび、雪足は強まる。まるで僕が向かっているのを拒んでいるようだ。

 この先に一体なにが待っているのだろうか。予測できない、得体の知れない不安に蝕まれそうだ。

 思えばいつからカミオカの見る目が変わったのだろうか。向かい風でバチバチと音を立ててぶつかる雪に向かいながら記憶を手繰り寄せる。

 ……だめだ。いくら考えても決定的な出来事は思い出せない。そもそもキッカケなんてあったのか?

 今ごろ後悔しても仕方がないが、やはりサークルになんか入るべきじゃなかった。

 モニカとの出会いこそ感謝はしているが、それ以外で特段よかったことなんてほとんどない。僕のような「にわか」が踏み入れてはいけない領域だった。

 遠くの、自分に危機が迫らない程度の距離を取り、眺めているくらいの距離感が分相応だったというのに、わざわざ危機圏まで足を踏み入れてしまった。

 本物の中にそんな半端者が放り込まれれば淘汰されるのも仕方がない。だからこそそうなる前に、僕は『Owl Night』から抜けようと思ったのだ。モニカという大事な存在を連れて! 今さら諦められるわけがない。

 湿気を含んだ雪はべちょべちょとして、顔に当たるたびにまとわりつく。何度も顔を拭いながら、住宅地を進んだ。

 次第に周りの景色が変わってきたのがわかる。

 階層の低いワンルームマンションや、見るからに築年数の古そうなアパートが目に入る。進んでいくにつれ、そういった建物がちらほらと目立ってきた。

 夜の闇に降り注ぐ雪の空を見上げると、コーヒーに粉ミルクを振りかけているようだな、と思った。見慣れた風景もこうなるともはや別世界だ。

 不思議とこの風景に風情を感じず、ただ頬や額にまとわりつく雪が不快だった。

 そんな不快さを纏った気持ちのまま、目指す場所に辿り着いた。

 カミオカの家だ。



 久しぶりに実家に帰ったのは、母親がおかしくなって3度目の春のことだ。

 父からの「母さんが会いたがっている」という素っ気ない一行だけのメール。気難しい父らしい、つまりは「母さんの面倒で困っているから一度帰ってきて様子を見にこい」を『行間で読め』ということだ。

 子供の頃から父のこういう一面は好きではなかった。なにを言うにも言葉が足りない。幼心に、父がなにか言うたびにその裏に隠された意味を読み解こうとするのに必死だった。

 大人になってから、父は言葉に意味を含ませているのではなく単純に口下手なのだと気付いた。重ねて人と話すのも苦手だ。

 だが僕にとっては口下手だろうが、意図的だろうが変わらない。結局、口で言っている言葉以上に言いたいことがある、というのは同じだ。

 なのに、1年前に「具合が悪くてな」という言葉から父が重い病気にかかっていることを読み解けなかった。結局、人付き合いが苦手なのは僕にも遺伝していたということだ。父とのコミュニケーションすらうまくいかなかった。


 千葉の片田舎。東京から電車を乗り継いで1時間40分の無人駅の改札を抜け、タクシーに乗った。父からメールを受けてから二週間が経っていた。

 認知症になった母に会うのは精神力を使う。家から少し離れたところで降りると、僕は歩いて向かった。散歩がてら心の準備をするためだった。

 東京とは違い、僕が生まれ育った家は隣の家からは離れていないが、二軒隣りになると10分は歩かねばならないような、よく言えばのどかなところにあった。

 住宅が密集していない分、過ごしやすくはあるが年老いた両親には不安のある場所だった。近所同士が離れているため、孤立してしまうからだ。

 実際、母が認知症になってからは世間体を気にしてか父は母を外に出さなかった。

 その代わり、欲しがっていた犬や猫を飼ってやった。

 父も生活に必要なものを買いに出かける時しか家を出ず、ますます孤独を増していた。そんな状況を知っていたから、呼ばれているとわかった時はできるだけ出向くことにしている。

 僕も家電工事の仕事に就いてまだ間もない。夏になれば必然的に暇もなくなるし、行ける時に行っておく必要があった。

 実家の敷地に入ると、妙な臭いがした。

 これまでに経験したことのない、複雑で不快な臭い。近づくにつれその臭いは増し、嫌悪感が顔に出る。

 だが特別おかしなことだとその時の僕は思わなかった。

 実家は、この辺にはよくある作りの庭付き一軒家。都内で購入しようものなら目玉が飛び出るような値段を突きつけられるような広さがあった。

 庭にはコンパクトな菜園があり、夏にはナスやトマトが生る。きっとそれの肥料の臭いだ。

 しばらく帰ってなかったのでその強烈な臭いに辟易するが、これはそういうものだと鼻を覆いながら玄関を開ける。

「ただいま」

 引き戸を開けると、むわん、とした熱気に眉をひそめた。心なしか臭いがさらに強くなった気がする。鼻がバカになっていたのかもしれない。

 にゃあにゃあ、わんわん、と犬猫の興奮した鳴き声。昔は犬を飼うのに憧れたものだ。だが自分が出て行った後とはいえ、夢に見た犬の臭いは思いのほか獣の臭いがする。猫も同様だ。

 僕の中で、このひどい臭いは肥料だけのものではないと感じた。この犬猫の臭いでもあるのだ。

「あらあら、いらっしゃいませえ。みどりちゃん、大きくなったのねえ」

「母さん、修一だよ」

「修ちゃん? いるわよお、修ちゃん、こっちおいで。みどりちゃんが遊びに来てくれたわよ」

 出迎えてくれた母は僕のことを息子だとわかっていない。彼女は犬猫を僕だと思っている。僕だけではない。父のこともだ。

 時々、ふと正気に戻ったように僕のことや父のことがわかる時もあるが、それもほんの一瞬。すぐにまたこうなってしまう。

 母にとっては、今が正気なのだ。

「上がるよ。父さんは?」

「お父さん? お父さんはねえ、今日は珍しく早く帰ってきたのよ。ねえ、お父さん」

 母は廊下で丸まって寝ている耳の茶色い犬に話しかけた。今日はあれが父らしい。

 元々母はおっとりしているが優しい性格で人当たりもよかった。そのせいで友人も多かったが、こうなってからは父が母を隠すように生活しているため誰も訪ねてこなくなった。

 三和土から上がり、母の隣に立つとふと異変に気付く。

 母の髪はひと目見てわかるほど、フケだらけだった。ギョッとして改めて母を見るとそれだけではない。

 髪は何日も洗っていないのか脂でテカテカに光っている。顔も同様で、目じりに大きな目ヤニが目立った。屋内中漂う悪臭のせいで気が付かなかったが、母も相当に臭っている。

「母さん、風呂入ってるか」

「いいですよお、お風呂先に入ってらして。女はね、最後でいいの。だから気を使わなくていいのよ」

 ダメだ。会話にならない。

 しばらく帰ってなかったが、母の症状は深刻を増している。見るからに父ひとりでは手に余っているだろう。

 それが母のこの不潔さに表れている。きっと父はなにもかもが厭になったに違いない。だから母の面倒を見ず、放置するようになったのだ。

「それにしても、また増えたんじゃないのか。猫の数」

 前に帰った時よりも明らかに家の中をうろついている猫の数が増えている。犬は変わりないが、子猫でも生まれたのか。鳴き声がうるさい。

 このあり得ないほどの悪臭は閉め切った部屋での獣臭も一因なのかもしれない。

 いや、むしろこれは生きている動物から発する臭いではない気がする。そうなれば考えられるのはひとつだ。

「どこかで猫が死んでるんじゃないのか」

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