第18話

 自分で口に出して言ってみて、腑に落ちた気がした。これは死臭だ。

 猫なのか犬なのかわからないが、この家のどこかで死んでいる。父も気付いてはいるが、どこで死んでいるのが検討がつかず、体の不調も手伝って放置せざるを得ない状況になっているのだろう。

 ……気が滅入るが、仕方ない。死体探しを手伝ってやるしかないな。

「加藤さんがねえ、修ちゃんやお父さんにカチカチのごはんしかあげないのよ」

 母は、いつからか父のことを「加藤さん」と呼ぶようになった。加藤さんとは、昔近所に住んでいた高齢の男のことだ。僕が小さい頃は時々、遊んでもらったり、菜園の手伝いをしてもらったりした。20年前に死んだ。

 カチカチのごはんとはドッグフードやキャットフードのことを言っている。僕が帰る度に、母は父に聞こえないよう「修ちゃんとお父さんにはおいしいお肉を食べさせたいのに、ダメだったいうのよ。意地悪よね」と耳打ちしてくるのが恒例だった。

 母は僕の後ろに付いてきながら、ぶつぶつと「加藤さん」の文句を言った。そういえば加藤が元気だった時も母はあまり好きではない様子だったことを思い出す。

 ふと足元を横切っていく猫に違和感を覚えた。振り返って見るがランウェイを歩くモデルのようなしなやかさで、肛門を見せて歩いている。

 猫と追いかけっこをする気にはなれない。気を取り直し、父がいる居間へと進む。

「にゃあ」

 一匹の赤毛の猫が僕を見上げて鳴いた。珍しい毛の色だと思い、立ち止まって見下ろす。

 猫は、顔だけが赤毛でそこ以外の体毛は白と金柑色のまだら模様だった。

 違う。

 全身が総毛だつ。猛烈に厭な予感がする。

 その猫は、顔が赤毛ではない。顔が赤く染まっているのだ。

「最近は加藤さん、全然来なくなっちゃってねえ。そのおかげで、修ちゃんとお父さんに沢山、おいしいお肉を食べさせてあげれてるのよお」

 ばちん、ばちん、と今の引き戸になにかがしきりにぶつかっている音がする。

 周りをみると、無数のハエが飛び交っている。それは、居間に近づくにつれ多くなっていった。

「父さん!」

 勢いよく今の戸を開けると、夥しい量のハエの群れが僕の身体にぶつかりながら通り抜けた。顔がベトベトし、嫌悪感がこみ上げる。

 父は、いた。

 布団に横たわり、犬猫に囲まれて。

 近づくと刺すような強烈な激臭に、鼻だけでなく目も痛くなった。父の形はぐずぐずにくずれ、面影などどこにも残していなかった。

 黒く変色した肌と、目や鼻から湧き出す蛆が見た目のおぞましさを突きつけてくる。

 昔、見た映画『サンゲリア』に登場するゾンビよりももっと醜く、汚い。それに映像からは決して伝わらない腐臭。

 犬猫は父の死を悼んで集まっているのではない。父の屍肉を貪っているのだ。

「うがあっ!」

 一心不乱に父の腹をくちゃくちゃと咀嚼している犬の横腹を思いきり蹴り上げ、父が愛用していたガラス製の重い灰皿でめちゃくちゃに頭を殴りつけた。

「やめてえ! 私の息子はまだ子供なのよ! 修ちゃんに乱暴しないでえ!」

 おいおいと号泣しながら母は僕にすがりつき懇願する。

 だが母の細い腕は振り上げた僕の手を止めることなどできない。

 ぎゃんぎゃん、悲鳴をあげていた犬の顔は真っ赤に染まってゆく。口元のどろどろした血は、父の腐った血だ。それとは違う、犬自身の血。

「やめてえ! 修ちゃん、修ちゃんをいじめないでええ!」

 母が犬を僕の名で呼ぶたびに、殴る力がこもる。

 犬はやがて悲鳴を上げなくなり、ぐったりした。殴る感触がぐにゃぐにゃし、手応えがなくなるまで殴ったところでようやく我に返る。

「うう、修ちゃん……修ちゃああん……」

 僕に縋り、ぐちゃぐちゃになった犬を僕だと思い込んでいる母。傍らには妻に最後まで夫であると思い出してもらえないままひっそりと死んだ父。

 ふと犬を見下ろす。母が僕の名で呼んだ犬の顔面は完全に原型をとどめていない。飛び出した眼球は繰り返しの殴打でぺしゃんこに潰れ、牙はあちこちに散らばり、脳はこぼれた味噌汁の具のように散らかっている。

 ……これが、僕か。

 力が抜け、手元からガラスの灰皿が畳の上に落ちる。放心状態の僕が無意識に見つめた父の亡骸に黒い影があった。

 その影は虫だ。黒い、変わった形の甲虫。父の屍肉に引き寄せられたのかと思いきや、その虫は僕の目の前で蛆を喰らい始めた。

 僕はその虫を見つめていた。虫は段々と数を増してゆき、部屋中を覆ってゆく。

 心臓が高鳴っていくのがわかった。明らかに、それは高揚によるものだった。

 死と、その薫り。こんなにも死は近くにあり、生は意味を為さない。

 今を生きている母は家族を認識できなくなった。肉親を判別できない母など、僕や父からすれば動く死人と大差ない。だが父はどうだ。父は、仕事ばかりをし家族を顧みず、定年すれば母が壊れた。ようやく自分らしく生きる時間を得た途端に不幸が襲い、そして不幸のどん底でみじめに死んだ。

 では残された僕は?

 死んだ犬を見下ろす。その潰れた顔が僕の顔に重なる。

 ……ああ、そうか。僕も死んだんだ。

 僕は、死んだ。僕が、僕を殺したのだ。修ちゃんを、この手で、父の灰皿で。

「ひひひっ」

 これからは楽しく、生きよう。自分らしく。正直に。




 ひと目見ただけでは本当にそこがカミオカの住む家なのか疑った。

 なにしろ、この周辺でも特に築年数の古そうなボロボロのアパートだったからだ。

 そして、この家の存在は僕でも知っている。

 コーヒーとミルクの中にひっそりと現れたそれは、さながら遠野物語に登場する迷い家のようでもあった。

 二階建ての木造アパート。階段は傾斜が急で、利便性よりも省スペースを優先したのがわかる。二階を見上げると赤茶色い錆に覆われた手すりが目立った。触らずともざらざらとした食感が手のひらに伝わる。

 酒井から聞いたのは、この一階の角部屋だ。

 正直、近づきたくない。アパートを目前にして僕は躊躇った。

 生活感も、人の気配もしない。その証拠に電気がついている部屋はほぼないし、明らかに空室と思われる部屋の窓もヒビが入っていて、ガムテープで補強してある。そのガムテープも長い年月で赤く劣化し、端がめくれている。

 住民のものと思われる子供用のコマあり自転車は、タイヤがべこべこに潰れていて、ゴムが裂けていた。前かごに放り込まれたビールの空き缶からは濁った液体が垂れ、足元の地面を変色させている。

 なにが入っているのかわからない汚れたクーラーボックス。大量のチラシがパンパンに詰まった郵便受け。セールスお断りという文言だけが辛うじて読み取れる色あせたシール。分厚いブラウン管の壊れたテレビ。

 とても2017年とは思えないような、時間に置き去りにされた光景。

 僕が今まさに感じている怖気は、ここに得体の知れないなにかが潜んでいるという不安感からではない。むしろ真逆の、「人の息遣いを感じない、廃墟感」である。

 ここに近づく者、足を踏み入れる者は、容赦なく寿命を削られてしまうのではないか、と思うような圧倒的な虚無感を放っている。

 完全に人の気配を感じないのであれば、僕はここで引き返していただろう。

 だが僕の目は捉えていた。ここから見える一番奥の部屋。つまり角部屋だ。

 そこだけがぽつりと明かりが灯っていた。

 全室、すりガラスの引き戸の玄関。その横に小さな小窓と換気扇。

 確かにそこから光が漏れている。つまり、これだけ人の気配の感じないアパートに、今現在、誰かがいるのだ。

 しかもそれはカミオカである可能性が途方もなく高い。

 僕をこの場に留まらせているのは、モニカというかけがえのない存在。それを取り戻すこと。その一点だ。

 戻ることが許されないのであらば、前に進むしか選択肢はない。

 覚悟を決めなければいけない。

「……よし」

 誰にも聞こえない喝を自分自身に入れ、奥の角部屋へと歩きはじめた。

 途中、横切る部屋の表札を確認しながら進むが、どの部屋の表札も出ていない。やはり、どの部屋も空室の可能性が高かった。

 ……まさか、このアパートに住んでいるのはカミオカさんだけなのか?

 ふとよぎる可能性を一笑に付す。そんなはずがあるものか。いくら古いアパートだからといって、住民がひとりしかいないなんてことは考えられない。

 地方ならともかく、曲がりなりにもここは都内だ。

 そんな考え事をしているうちに、僕は唯一明かりの点いている角部屋の前に立った。

 生唾がごくりと喉を鳴らして落ちる。雪や季節のせいではない悪寒がじんわりと踵から上がってくる。

 玄関の横を見てもインターホンの類はなかった。ノックをして来訪を知らせるしかない。僕は覚悟を決めるため、目をつむった。

 数秒間、瞑想に時間を費やし再び目を開けると奥の方でぼんやりと人影が動いた。たった今肚を決めたはずの決心が揺らぐ。

 蠢く人影から無意識に目を逃がそうとした僕は、ふと玄関横の表札が目に入った。

 他の部屋とは違い、ここにはちゃんと名前がある。信じがたいが、やはりここにはカミオカだけが住んでいるようだ。

「……?」

 表札に書いてある名前を見て、僕はいささか混乱した。彼は、自らを「カミオカ」と名乗るくらいなのだから、名前にその由来があると勝手に思い込んでいた。

 だから、きっとカミオカの名前は「上村」だったり、「神田」という苗字なのだと漠然にイメージしていた。だが、目の前にある表札には「田原」と書いてあった。

 ……田原がカミオカさんの本当の名前? なんかイメージと違うな。

 もしかすると下の名がカミオカにちなんだものなのか。カミオカと田原に共通点はなさそうだ。

 もしかして部屋を間違えたのではないかとあとずさって、改めてアパートを眺めてみる。落ち着いて見れば見るほど、カミオカのイメージからはかけ離れた家だ。

 場所を間違えたのか、もしくは酒井に掴まされたのか。どちらかしかないのではないか。

 そうでないと、ここに住んでいる説明がつかない。

 つきかけた決心は次第に「ここはカミオカの家ではない」という結論に至ろうとしていた。その時、足元に田原宛のはがきが落ちているのに気付いた。

 はがきを拾ってみると、携帯電話メーカーからのおすすめ商品を案内したDMだった。裏返して宛名を見ると「田原修一」と書いてある。

 ……やっぱりここじゃない。こんなところにカミオカさんが住んでるなんてあり得ないだろ。

 普通に考えてみればわかることだった。普段から小ぎれいな恰好をしていたし、独身とは言えライターで生計を立てている人がこんなボロボロの今にも崩れそうなアパートに住んでいるとは思えない。

 外見のイメージに依存していると言われれば反論はできないが、僕だけでなくカミオカを知る誰もがそのようなイメージを持っているはずだ。

 それに僕は、「イメージと違う」ということを言い訳にしてこの場から離れたがっていることにも気付いていた。長く居てはいけないような、ぼんやりとした直感があったのだ。

 あとずさった靴の踵になにかがひっかかった。雪の道に横たわる蛇の死体――のような、マフラーだ。

「こ、これ……!」

 何度も頭の中で否定しようとした。だが否定している自分をさらに本能的な部分が否定する。そのたびに真実の度合いは増し、やがて確信になった。

 間違いない。これは、モニカのものだ。見間違えるはずも、たまたま同じもののはずもない。今さらそんな偶然がこの状況下で起きるはずがなかった。

 同時に、それはやはりあの角部屋がカミオカの家であり、あそこにモニカがいるという証左に他ならなかった。

 マフラーを握りしめ、唇を噛みしめる。もはやここでたじろいでいる場合ではない。僕はマフラーをカバンにしまいこむと、あとずさった分の距離を大股の歩幅で取り戻した。

 そして、すりガラスの引き戸を叩いた。

 ドン、ドン

 一度目。

 ドン、ドン

 二度目。

 ドン、ド――

 三度目のノックの途中で戸が開いた。

 出てきたのは、ほかでもない。カミオカ本人だった。

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