第16話
その時カミオカが、はじめてモニカの言葉に反応し、目を剥いた。
「恋人? ……おまえ、本当かそれ。本当にあんな淫売と付き合っているのか。セックスは? セックスはしたのか、龍太郎」
「セッ……って、なんでそんな」
「どうなんだ。もうしたのか」
「そんなこと聞いてどうするんですか、変態じゃないですか! 他人の恋愛事情に首突っ込まないでください」
モニカが声を荒らげる。彼女の言うことももっともだ。
こういう下世話な話は、男同士の酒の席ならともかく、こんなな状況でするべきじゃない。まして、モニカの前でなんて。
それにカミオカの質問に答えたくない理由もあった。
「そうか。まだか」
図星だった。
僕とモニカは交際にこそ発展していたが、お互い異性慣れしていないせいもあってまだ手をつなぐ程度しか進展していない。
『だからお前はダメなんだ』と暗に言われている気になり、陰鬱な気分になる。
それを見抜いているようにカミオカは僕を見つめて不敵に笑った。その顔は普段の穏やかな風貌とはかけ離れた、なにを考えているのか見えない不気味なものだった。
「勝手に決めないでください! わたしも龍太郎も子供じゃないんです。これだけ言えばわかりますよね。カミオカさんも大人ですし」
精一杯の皮肉を込めたモニカの言葉だったが、カミオカはまるで効いていない。それどころか、はじめから彼女がこの場にいなかったかのような、完全に視界から外している振舞いだった。
「じゃあ、君はまだ汚れてないのか。だったらいい。でもな、退会は認められない」
「認められないって、どうしてですか」
「趣味の社会人サークルで認められないもなにもないですよ! ほとんどの人が黙ってフェードアウトする中、わざわざ言いに来ただけありがたいと思うべきです! 一体、あなたは龍太郎のなんなんですか!」
カミオカは徹底的にモニカの声を耳に入れていなかった。それどころか、正面に座っている僕の手をおもむろに握ってまっすぐ見つめてきた。
突然の出来事に思わず固まってしまった僕の代わりに、拒絶反応を見せたのはモニカだった。
「なにやってんのよ!」
ばちん、とカミオカの手を弾き、汚れたものを払うように僕の手を引いた。
「待て!」
「しつこい!」
カミオカは弾かれた手を咄嗟にまた掴もうとした。
モニカがテーブルの上のグラスを掴み、カミオカの顔に水をかける。
「なにをする貴様!」
「行こう、龍太郎!」
そうして僕たちは、逃げるようにして店を後にした。カミオカが追ってくるかと心配したが、その気配はなく、晴れてサークル『Owl Night』を退会したのだった。
モニカと連絡がつかなくなったのはそのすぐ後だ。
あの時、勇気を出して家に誘っておけば……。本当はひとりでいたくない、と言うことができれば、モニカは今も僕と一緒にいたかもしれない。
あの夜に別れたすぐ後、スマホで送ったメッセージに返信がつかなかったことをもっと不審に思うべきだった。家に帰った後、寝るまで連絡が来なかったことをもっと気にするべきだったのだ。
翌日、そしてそのまた翌日、とモニカと一切の連絡が取れなくなった。3日目で異変に対する疑念が確信に変わる。しかし、僕はモニカの家を知らなかった。
テレビで騒ぎ立てる少女失踪事件のニュースが過熱を増し、消えた少女とモニカが重なる。
他のサークルのメンバーにモニカのことを聞くが、情報は一切手に入らなかった。この時、まだ僕はモニカの失踪にカミオカが関係しているとは微塵も考えていない。
モニカ失踪にカミオカが関わっていると考えたのは、『ストレンジャー』との会話だった。
「モニカもいなくなったって?」
「え……モニカもって、どういうことですか」
「いやあ、ここんとかカミオカさんとも連絡がつかなくてね。年明け一発目の月例会の日にち決まってなかったじゃん。それどうするのか聞こうと思ってるんだけど、全くダメで。それにあの人、このご時世にスマホ持ってないじゃん。連絡手段が電話だけなんで難儀してんだよね」
同じ時期に、モニカと同じくカミオカとも音信不通になった。
これで関連を疑うな、というほうが無理だ。
「でもあの子って全然『モニカ』っぽくないね」
「っぽくない? 名前負けしてるってことですか」
「そうなんだけど、ほら。『モニカ』って言ったら代表曲だろ?」
「モニカが代表曲? わからないです。どういうことですか」
「あれ? 知らなかった? うちのサークルメンバーはみんなあの人にニックネームを付けられるだろう? 俺は『ストレンジャー』、あの子は『モニカ』。それに『キス』、『デイト』、『ポラロイド』……。これってぜんぶ、吉川晃司の曲名からとってるんだ。そうか、世代的に龍太郎はピンとこないかなぁ」
「吉川晃司……」
当然、その名前も顔も知っている。だが僕にとっての吉川晃司は歌手としてのイメージよりもドラマや映画に出ている印象のほうが強い。正直、ストレンジャーに曲名を言われてもわからなかった。
「こんなの絶対意図してないと命名しないでしょ。だけど、変なんだよね。カミオカさんってさ、自分が付けたニックネームが吉川晃司の曲名だってわかってないように見えるんだよ。そんなのあり得ないことなんだけどなあ」
「ちょっと待ってください! じゃあ、僕のニックネームも曲名なんですか」
「そうなんだよ。そこだけが妙だなぁ、ってみんなとも話してたんだ。俺らサークルメンバーの中で、唯一龍太郎だけが吉川晃司となんの関係もない。一時期俺らで考察するのがブームになったこともあって、色々考えたけどやっぱり全く関係がなさそうだった。でもさ、よくよく考えてみるとカミオカさんだって吉川と全然関係ないんだよね。それで最終的に、『カミオカさんにとって特別な存在だから』ってことで落ち着いた。ふたりでひとつ、みたいな」
ふたりでひとつ? どういうことだ。これまでのカミオカさんの気味が悪い態度を振り返ると、特別な存在という言葉のニュアンスに寒気が走る。
考え込むとろくなことにならないと思った僕は、名前についての考察を切った。
『ストレンジャー』になにかわかったら連絡をくれるように、とメッセージアプリのIDを交換して通話を切った。
烈しい後悔はやがて、カミオカに対する猛烈な怒りに変わっていった。そして、僕が求める情報も、「モニカと連絡とりたい」から、「カミオカはどこだ」に変わった。
カミオカがモニカをどこかに監禁か、もしくは自由を奪うなんらかの行為をしているに違いない。
しかし僕は警察に届けようという気にはならなかった。そういうものに頼れば、それをなにかの拍子にカミオカが知った時、モニカになにをするかわからないと思ったからだ。
怒りを向けている相手ではありつつ、乱暴をするようなタイプではないカミオカの良心もどこかで信用していたのかもしれない。
だが、ふたりと連絡が取れなくなって一週間が経った。
当初はすぐに突き止められると思っていたカミオカの住む家は、まったく手がかりがない。そんなことがあるのか、と僕は彼を取り巻くあらゆるものを疑った。
それでもカミオカの家はわからない。知っているものがそもそもいないし、実は『Owl Night』サークルの開設も、最近の話だったという。つまり、僕が入会した時点ではまだサークルができて一年も経っていなかったということだ。
……そんなに若いサークルだったんだ。
人当たりがよく、親切で、それでいてサークルを束ねるカリスマ性もあり、イベントを行ったり成功させる行動力やバイタリティーもある。
一見、完璧に見えるカミオカだが、その実態は誰も知らない。それに、一週間前に会った時のあの潤んだ目と唐突に握った手。あれは僕の知っているカミオカではなかった。
だがもしもその「僕が知らないカミオカ」こそが、彼の本質であるとしたら――。
背筋が粟立つ。直後、震えが足元からつむじに向かって走った。
「僕が知らないカミオカ」とはすなわち、「誰も知らないカミオカ」と同義だ。
住んでいるところも知らない。仕事も自称ライターであり、ペンネームを誰も知らない。出自もわからない。交友関係も不明。唯一わかっているのは、事故物件とそれにまつわる変死の知識、特に死体が腐っていく過程や臭いについて並々ならぬ執着があるということだけだ。
「……それじゃあ、まるで『異常な性癖をもつ得体の知れない男』じゃないか」
口に出して言ったことを後悔した。
頭で思った字面よりも何倍も、音で聞く響きが怖ろしかったからだ。
回りくどい喩えになってしまったが、簡単にまとめると『正体不明』ということだ。
正体不明の男がモニカを攫ったとするなら、それほど怖ろしいことはない。
最悪の場合、生死にかかわることだってあるかもしれない。
理屈では「大げさだ」とわかっているのに、頭のどこかで常に「もしかして」という不安が引っかかっていた。
サークルの面々にはあらかた聞いたが、カミオカの情報はほとんど手に入らなかった。
早くも八方ふさがりになり、焦っていたところに酒井のことを思い出したのだ。
酒井について思い出したのはそれだけではない。ヤベオカがゲストに訪れたあのイベントのこともだ。
……そこを突けば、口を割るかもしれないな。
酒井とは内見ツアーの時、名刺をもらっていたからどこに勤めているのかはわかる。もはや唯一残されたカミオカへの手がかりを持っているのは酒井しかいない。
これしかないのだから、手段は選んでいられない。必ず、カミオカの居場所を突き止めてやる。僕はそう強く思うと、仕事帰りに酒井を待ち伏せようと思いたった。
外は雪がちらつきはじめ、カミソリのような冷気に身を縮めた。
駅を降りて10分ほど歩いたところにある不動産店からひとりの男が出てきた。
丸い背中と枯れ木のように細い体つき。確認せずともひと目でわかった。
「酒井さん」
肩をびくん、と震わせ、酒井は驚いた表情をこちらに向けた。
「誰かと思えばあなたですか」
僕の顔を認めると、胸を撫でおろして息を吐く。
その姿は、まるでなにかに怯えているかのようにも見えた。
「こんなところでなにをしてるんですかあ。偶然にしてはタイミングが良すぎる気がしますがあ……」
「お察しの通り、酒井さんを待っていたんです」
「わたしを? そりゃあ、どういったご用件で」
「カミオカさんのことを、聞きたいんです」
酒井の目が一瞬、焦点を失ったのがわかった。明らかにカミオカの名前に反応している。
「カミオカさんのこと、ねえ……。なんでまたわたしなんですか? あなたたちは彼のサークルのメンバーでしょうに」
「そのサークルの管理人であるカミオカさんと連絡が取れなくて。僕も他のメンバーに聞けばすぐにわかると思っていたんですが、驚いたことに誰もカミオカさんの家を知らないんです」
「電話をすればいいでしょう。今のご時世、メールもアプリも連絡の手段ならいっぱいある」
「そのどれもが不通なので『連絡が取れない』と言ってるんです」
そうですかあ、と酒井は肩をすくめた。
歳末に差し迫った東京の夜は、白い雪がちらつき始めている。細身の酒井には堪える寒さなのは見ていてわかった。
「こんなところで長話する気はないので、教えてくれればすぐに帰ります」
「なにを教えてほしいんですかあ」
「どこにいるか……はっきりいうと住所が知りたいんです」
「個人情報という言葉をご存じで?」
「あなたがそれを言いますか」
酒井は笑ったが、僕は笑わなかった。
「出し抜けに他人様の住所を教えてくれっていうのも充分非常識かと思いますがあ……、それ以上にそんなおっかない顔されてたら教えるものも教えられませんよ」
揶揄うように酒井は言う。
自分でも表情が強張っているのがわかる。確かにこんな顔をした男に住所を教えろと言われたら、なにをされるかわからないと思うだろう。
しかし、そんなことに気を使っている余裕などなかった。僕は住所(ルビ/いばしょ)を突き止めなければならない。
「えらくお急ぎのようで。どうかしたんですかあ」
「……会って話がしたい。それだけです」
「話だけで済むようには見えませんがねえ」
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