第15話

「本当は素材そのままを用意したかったんだけどね、やっぱり内臓があると匂いがこんなもんじゃ済まないから。あと、このまま『はいどうぞ』っていうのも忍びないと思ってね、太ももの肉を拝借してシチューにしたんだ」

 その言葉に釣られ、反射的に視線が死体の太ももを追う。

 確かに太ももの一部がソフトボール大の範囲、抉り取られていた。

「うぷっ」

「吐いていいよ。その臭いも好きだから」

 龍太郎から許しを得たから、というわけでは決してないがわたしはバスルームの床に烈しく嘔吐した。

 自分が吐いた物の中にシチューの肉を見つけさらに胃液が逆流する。

「安心していい。君が食った肉はあそこまで腐ってない。あらかじめ切り取って冷蔵しておいたからね。食人嗜好がないことは知っていたけど、『死体愛好家』というのはすべからくしてそういうものだと思っていたから。苦手だったなら謝るよ」

 嘔吐の苦しみでうずくまる。吐くものももうないのに込み上げる吐き気で息ができない。咳とえづきを繰り返し、涙が止まらなかった。

 酸素が足りないから、だけでなく思考がまとまらない。あちこちに分散して、まともに考えられない。今、自分に一体なにが起こっているのかも理解できない。

 ふと視界に烈しく動くなにかが映った。

 朦朧としつつ、それを追いかけてみてわたしは言葉を失う。

「ああ、いいねえ。この臭い。最高じゃないか。内臓を抜いてるからそこまで強烈じゃないけど、それでも全然いい。イイ!」

 龍太郎は性器を露出し、勃起したそれをしごいて自慰に耽っていたのだ。

 反射的に横顔を確かめると、ゲームに夢中になりテレビにかじりついている子供のような、爛々とした目で笑っている。

 後にも先にも、龍太郎の笑っている姿を見たのはそれが初めてだった。

「ところで、君があんなに欲しがっていた死体が目の前にあって、吐いているってことは肉が気に入らなかっただけ? それとも死体の鮮度が悪いから? それともまさか……本当に『死体愛好家』じゃないとか」

 血が凍る。体が動かない。吐き気と眩暈で悪寒がまとわりついていた全身が、さらに冷えた。

 わたしとしてはさっきからそう言っているつもりだったが、龍太郎の理解ではそうじゃなかった。でも、ここにきて今さらそれに気付こうとしている。

 この死体は誰のものなのか。道上と松田? しかしそこは問題ではなく、龍太郎はわたしに裏切られたと知った瞬間、あの死体のようにわたしを殺そうとしているのではないか。

 脳が収縮し、凝縮した細胞が「なんと答えれば殺されずに済むか」という一点に集中する。だが時間は体感よりも早く、無常に過ぎてゆくだけだった。

「まあ、いい。許すよ。なぜなら僕も君にひとつ嘘を吐いていたから。実は君とのセックスで一度だって射精したことがない。勃たせるだけで精いっぱいだったからね。そんなことで『死体愛好家』との関係を断つのは僕としても不本意だったし」

「……え?」

 突然の告白に唖然となった。あれだけ何度も体を重ねたというのに、絶頂に至らなかったというのか。わたしは何度も、何度も果て、そして龍太郎も同じだけ絶頂に達していると思っていたのに。

 思い浮かべて見れば、龍太郎は行為後、すぐにコンドームをティッシュにくるんで捨てた。あれは……射精していないことを隠すためだったということなのか。

「じゃあ、最初からわたしのこと……」

「『死体愛好家』という変人だと思っていた。変人だから興味があった。それ以上でも以下でもない」

「そんな……」

 とめどなく涙が溢れる。裏切ったのはわたしの方かもしれない。けれど、本当の意味で裏切られたのはわたしだ。一切、わたしに特別な感情がなかったなんて。そんなこと、信じられない。

「でも、『死体愛好家』でもない普通の人なら、興味がないんだ。人の肉も食えないし、うさぎの肉も食えない。死体があったら吐くし。ゴミ以下なんだ。君は」

 龍太郎の言葉がなにも入ってこない。思考が急激に閉じてゆく。

 わたしの本能が「なにも受け止めるな」「なにも考えるな」と言っているのだと思う。

「あ~あ、また増えるのか。嬉しい悲鳴というやつだね、どうも」

 直後、龍太郎は「うっ!」と短く呻き、腐敗が始まっている死体に迸る精液をぶちまけた。

「最高だねどうも。最高だよ。最高だ」

 わたしの生涯が閉じる前に聞いたのは、最高だ、と連呼する本物の異常者の声だった。





龍太郎




 改札を出て家に向かうまで、千葉にいる母親のことを思った。

 僕がこうなってしまった最大の原因であるあの日から、僕のすべては狂ってしまったのだ。もっとも、他社と自分が違うという自覚を持ったのはそんなに前の話でもないのだが。

 正直なところ、まだピンと来ていない。本物の狂人だ。異常者だ。と騒ぎ立てられても腑に落ちない。かといって、「君はまともなのか」と面と向かって問われればどうだろう。それはそれで胸を張れないかもしれない。

 性癖や偏愛などというものは嗜好の範疇であって、それがどのようなものであっても……仮に死体愛や、死臭愛でも、なんら問題はないはずである。

 要はそれをオープンにするか否かで、臆することなく周りに「自分はこんな人間である」と胸を張れたならその開き直り具合でむしろ清々しく思われるかもしれない。

 しかし、これを中途半端にやってしまったらどうだろう。

 言いたかったことは口づてに回り、徐々に形を変換し、数人の口を経て出来上がったそれはもはや見知らぬ形のナニカだ。

 元の形がわからなくなるほど尾ひれはひれの付いた僕の嗜好は、「あいつは変人」「狂人」「異常者」「病気」などという不名誉なレッテルを貼られ、晴れて孤立することになるだろう。

 だから僕は「言わないこと」に徹底した。

 それでも漏れ出てしまうものは仕方がない。それをどうにか収拾つけるために、ガス抜きをする必要があった。それが僕のサークルだ。このサークルで定期的に「自分とはこういう人間である」というのを誰に恥じることなく発表することで自我を保ってきた。

 だがどうだ。今のこの状態は。僕の望んだものだろうか。

 平穏を望んだわけではない。だからといって居場所を失いたかったわけでもない。多くの望まない出来事が不幸に重なり、この状況を引き起こしている。

 そういえば龍太郎はもう家に帰っただろうか。今日がこんなに寒い夜になったことに僕は感謝せねばならない。風呂に入るのにこんなにも最高の日があるだろうか。早く温まってほしい。そして、受け取ってほしいものだ。

 母親は抜けていたが優しい女性だった。

 僕はひとりっ子だった。必然と男系家族となり、ずっと肩身は狭かったのかもしれない。

 というのも父親は昔ながらのステレオタイプで、「女は黙って家を守るもの」を地で行く典型だったからだ。当然、そんな父親だから家での母はさながらメイドのような扱いだった。

 僕の記憶の中では、一度たりとも父が母を名前で呼んだことがない。「おい」とか「お前」とかまるで物のような扱いだ。

 そんな父の母に対する態度が変わったのは、母が認知症と診断されたあとからだった。

 そっけなく、ぶっきらぼうな物言いは変わらないが母につきっきりで、母が求めるものは出来る限りに応えていた。これまでの日常とはまるで逆だった。

 母が認知症になったことへの責任の一端は、僕にもある。厳格で昭和思考の抜けない父と、マイペース故に四六時中父に叱責される母に挟まれた僕は、ひたすらに「無関心」を装ったのだ。そうすることで父と母の間に介入しないでいれる。

 無関心を続け過ぎたのが僕の功罪なのかもしれない。

 実家には猫が5匹、犬が2匹いた。全部、母が認知症になってから飼った。

 母はずっと犬や猫といったペットを欲しがっていた。子供の頃から動物好きで、母の実家では庭に鶏を飼い、番犬もいたという。野良猫も懐いており、虫もその辺にごろごろいたと言っていた。それ故、自分が嫁いだ後も当然のように動物を飼うものだと思っていたし、そうしたいと思っていたのだと、僕が子供の頃からずっと聞かされていた。

 だが動物嫌いの父が許さなかったのだ。

 僕は一度、母になぜそんな父と一緒になったのかを訊ねたことがる。

 母は笑いながら「そういう時代だったのよ」と答えた。その言い方から、母が好きで父と結婚したのではないと察した。だが母はすぐ後に「でもお父さんと結婚してよかった」と付け加えた。嘘を言っているようには見えなかった。

 僕は男女の間における恋愛関係というものがあまり理解できていない。

 むしろ、女性に興味そのものがない男性の方が好きだ。それは昨日今日の話ではなく、かなり早い段階で気付いていた。

 ある時、母にそれを悟られた。僕の前では見せなかったが相当烈しく悩んだようだ。

 一人息子が異性に興味がないのだ。気持ちはわからないでもない。

 ともかく、母の心労たるや慮(ルビ/おもんばか)ると若くして認知症を患うのも仕方のないことだったのかもしれない。

 だが、僕が「臭い」……いや、「死臭」に恋慕にも似た憧れを抱くようになったのはそれとは無関係だ。思えば、エンマ虫が視えるようになったのもあれからのように思う。

 そうだ。あの時、部屋に夥しい数の黒い斑点が壁に張り付いていた。一見すれば壁紙の柄のように思うあれは、よく見ればひとつひとつが蠢いている。あれだけ多くのエンマ虫を視たのは後にも先にも恐らくあれだけだろう。

 あの時に嗅いだ鼻をもぐような激臭と、万華鏡のように秒刻みで模様をかえるエンマ虫が美しいと思った。それが僕を目覚めさせたのだ。

 以来、僕のペニスは死臭やそれを思わせる臭いに強く反応するようになった。気付けばいつも臭いを探している。

 だが僕が求めている臭いはそう簡単に手に入れられなかった。夢遊病のように臭いを探す毎日が続く。

 そんな時に、カミオカと運命的な出会いをした。

 家が見えてきた。

 あそこでみんなが僕を待っている。早く行ってやろう。



 モニカがいなくなったのは、ヤベオカのイベントより数日経ったある夜のことだ。

 僕とモニカはふたりそろってカミオカを呼び出した。場所は都内のファミリーレストランで、カミオカはさきにテーブルについていた。

 カミオカはひとりサラダを食べていたが皿のほとんどが残っている。食欲がないのかと心配したがそんなことはないと笑った。

 本題は、モニカから切り出した。

「『Owl Night』を退会したいんです」

 その時点ではまだ、カミオカの顔には笑みが残っていた。

 理由を聞くカミオカに、モニカは正直に自分と周りのメンバーとの温度差を挙げた。そして、それに付いて行く気にはなれないとも。

 カミオカはうなずきながら、「そういうことなら仕方がないね」とあっさり理解を示した。

 話はすんなりとまとまろうとしていた。だがそれは次の会話で一変する。

「モニカがいなくなると寂しくなるな。そうだろ、龍太郎」

「僕も一緒に辞めようかと思っているんです」

 その瞬間、カミオカの顔から笑みが消えた。

「なぜだ? なぜ君が辞める必要がある。この女がいなくなるのは予定調和だが、君は違うだろう。今からでも遅くない。撤回しろ、龍太郎」

 態度も口調も迫力も突然、切り替わってしまったカミオカのこの発言に怒ったのは当然、モニカだった。

「なんなんですかその言い方! この女? 予定調和? それだけじゃない、撤回しろって、何様なんですか!」

 見下され無碍にされたモニカの怒りは瞬時に沸点に達した。彼女もまた普段見せない剣幕でカミオカに食い下がる。

 だがカミオカは、そんなモニカに一瞥もくれずひたすら僕だけを見つめ、言葉巧みに説得を試みた。

 僕の決心が今さらカミオカの言葉で揺らぐことはないが、その真剣さに不気味さも感じた。

 面白くないのは相手にされていないモニカだ。カミオカのその態度を前にさらに怒りを沸騰させた。

「無視しないで! わたしたちはふたりで退会しにきたんだから! 彼を辞めさせたくないみたいだけど無駄ですよ。わたしたちは恋人だから片方だけ残るなんてこと、絶対にない」

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