第12話

 東京を眺望するガラスの前に近づき、にぎわう観光客の隙間に立つととある一帯を指差した。あの辺かな、と龍太郎はつぶやく。

「板橋区にある団地でね。マニアの間じゃ有名な物件さ。72年の入居開始以降、10年間で100人以上の自殺者が出た。当時の集合住宅としては結構な高層建造物だったからね。今みたいにセキュリティなんて皆無だから、バンバン飛び降りた」

「本当の話? 団地の住民が次から次へ飛び降り自殺するなんて信じられない」

「住人じゃない。部外者だ。入居者ではなく、団地とは全く関係のない自殺志願者がわざわざここを死に場所にしたんだ」

 屋上や高層階に誰でも侵入できるのが災いし、その後、屋上に上がる階段が封鎖されたり、非常階段にフェンスを設置したりして自殺者(部外者)が侵入を禁止する処置がなされた。

「だが自殺者は減らなかった」

「どうして? 屋上や高層階へ部外者が勝手に行けなくなったんでしょ」

「そうさ。けど、死に場所を求めてやってきた自殺志願者どもは違う。ここまで来て生きて帰ろうとは思わなかった。たとえ飛び降りという選択肢がなくなったとしても。

 連中はね、団地にやってきて飛び降りができないとわかると、フェンスや階段の手すりを使って首を吊ったんだ。他の方法で死んだ者もいる」

「そんなバカな話」

「漫画か、安いホラー映画みたいな話だろう。だが事実だ。わかる? 死は死を呼ぶ。そしてそれは連鎖し、大きなひとつのシミになるんだ。そのシミに触れたものは死に魅入られる」

「穢れ……ってやつ」

「そう呼べばそうなるんじゃないかな。呪い、祟り、いわく、残留思念、呼び方なんてなんでもいい。連中も一緒さ。手段は問題じゃない。そこで死ぬことが重要なんだ」

 そう言いながら、龍太郎は何度も鼻をひくつかせていた。

 T団地で死んだ者たちに思いを馳せながら、死者の臭いを連想しているに違いない。ズボンのポケットに深く入れた手をもぞもぞ蠢かせている。生理的な怖気が走る。

「君もいつか死体と遊べる日が来る。思い続けていれば、僕のように」

「僕のように?」

 聞き返した言葉を無視して、龍太郎は白目を剥きながら大きく痙攣した。この場からすぐに離れたい衝動に駆られるが、なんとか堪える。

 この男に「同類だ」と思わせなければ。

「ちょっ、なにやってるの!」

 突然、龍太郎がガラスの床にへばりつくようにしてうつ伏せになった。まるで車に轢かれた蛙のようだ。

 虚を突かれたわたしは慌てて龍太郎を起こそうと脇に手を入れるが、びくともしない。

「あーー! 誰か堕ちないかなーー!」

「やめて! 怖いよ!」

 本当なら、「他の人の迷惑だよ」と言うべきだった。だが思わず本音が口に出てしまったのだ。

「……怖い? 僕が?」

「え? 違う……あの」

 狼狽するわたしを余所に龍太郎は数秒間そのまま床にへばりつき、無言で起き上がった。

 展望階中の客の視線を浴びながら、なにもなかったかのように平然と歩く。

「待って!」

「飽きた。帰ろう」

 彼が向かっていたのは地上へ降りるエレベーター。わたしは自分自身が口走った「怖い」という言葉の言い訳を必死で考えながら追いかけた。

「僕が死んだら、僕の死体をプレゼントするよ」

 うなずくだけで限界だった。うまく笑えている自信もない。だが龍太郎は満足げな顔で、エレベーターの階数ランプを見上げた。


「あれぇ、涼子!」

 神谷町駅までの道の途中、ファストフード店の前で呼び止められた。

 思わず渋い顔になる。咄嗟に表情を作るが、しっかりと龍太郎に目撃されたのがわかる。

「道上さんじゃないですか」

 会社の同僚で先輩の道上と、松田がいた。

 どちらも表面上、会社では仲良くしている。それだけに龍太郎の前では会社での自分を見せるのが厭だった。

「もしかして彼氏さん? ええっ、そんなのいるって聞いたことないよー」

 言っていないのだから聞いたことがなくて当然だ。

「あ……いえ、まあ」

 わかりやすくしどろもどろになってしまう。

 こんなとき、どうやって切り抜ければいいのだろう。

「どうも~涼子の会社の同僚で道上です! 涼子っていい子ですよ。真面目だし、動物とかすごい好きで優しいんです」

「動物?」

「あの、道上さん! すみませんちょっともう行かなくちゃ――」

「動物が好きって? 聞いたことないな」

 なぜそこが気になるのかわからなかったが、そんなことよりもこの場を切り抜けることの方が先決だ。龍太郎の手を引いて離れようとした。

「――!」

 しかし龍太郎はわたしの手に引かれず、その場から動こうとしない。それどころか道上に再度「動物が好きってどんな?」と訊いている。

「あれ~? 知らないんですか。涼子は小動物が好きで家でもうさぎを買ってるんだよね」

「ええ、まあ……」

「うさぎ……。へえ、初耳だな」

 やめろ。刺激するな。

「トイ・ストーリーとかも好きだよね」

「そうそう! 結構かわいいとこあるでしょぉ?」

「や、やめてください!」

 道上が言っていることが事実だけにわたしは焦った。

 今のわたしは『死体愛好家で事故物件マニアの変人・モニカ』であって、『普通の会社で働くOL・野上涼子』じゃない。

 龍太郎にだけは、素の自分を知られるのだけは避けたかった。もし知られれば――。

「ところでどんな会社に働いているんですか」

 龍太郎は表情をそのままに、道上に訊ねた。背中から汗が噴き出す。

「そんなことも言ってないの? あ~、もしかして付き合いたてですかぁ」

 それ以上余計なことを言うな。

 道上を睨みつけた。だがわたしのまなざしを、冗談だと誤解した道上はますます饒舌になる。

「文具メーカーで、彼女とわたしは営業総務なんですよ。もう4年目くらいだったっけ? 最近まで新人だって思ってたんですけど、あっという間にデキる女になって」

 にこやかにそう話しながら、じろじろと盗み見するように龍太郎を見ていた。ふたりして値踏みしているに違いない。

 青い顔をしている自分を見ているようだ。血の気が引いてゆく。

「へえ」

 龍太郎の声は冷たかった。普段となにも変わらない、死体のような。感情のこもらない昆虫のような、いつも通りの声だった。

 その普段通りの声音が、余計にわたしを追い詰める。

「あの……違くて……っ」

 なにかを喋ろうとするけれど、動揺してなにも言葉が浮かばない。なんという無力。

 この瞬間、わたしは「モニカ」ではなく、平凡で凡庸ななんの取り柄も、個性もない野上涼子に成り下がっていた。つまり、龍太郎とは違う種類の人間。

「涼子が全然喋ってくれないから、聞いてもいいですかぁ? 涼子とどこで知り合ったんですか? わたし、彼氏いなくて」

 ジョークのつもりで言っているのだろうか。松田の間延びした口の利き方が神経を逆なでする。

「知り合ったのは事故物件マニアが集まるサークルで、僕と彼女は付き合っていない」

「事故物件? なんですかそれ」

「付き合ってないんですか? なぁんだ、早とちりかぁ」

 龍太郎の返答に余計頭と感情がパニックになる。

「僕と涼子はセックスをするだけの関係です。交際はしていない」

 ぶつり、と音を立ててなにかが途絶えた。そこからはあまり覚えていない。



 2週間後、Xデーは来た。

 ヤベオカがゲストで登場する『99番目のお隣さん』との合同イベントだ。

 すし詰めでも100人は入らない小さなライブスペースで、ひとり2000円の入場料は、ヤベオカのネームバリューから考えると破格の価格設定だろう。

 結局、この日が来るまでにわたしは龍太郎を許していた。

 そのおかげで龍太郎との関係が深まったとも言える。

 しばらく顔を合わせていないカミオカが姿を見せた。

 最後に会った時から、目立って変わったと感じるものはない。やはり、病気やケガなどではなく、単純に私用で忙しかっただけなのだろう。

 とすると、このイベントが終わってしまえば、また龍太郎のもとに連絡するようになるのだろうか。

 客席からステージ上のカミオカを眺めながら、退会を急ぐべきだとふたたび心に決めた。

「さあ、今日という日を心待ちにしていた方も多いんではないでしょうか。僕なんかの話を聴きたい人なんてこの会場には誰もいないですよね。というわけで、さっそくお呼びしましょう! 

 今日(ルビ/こんにち)のオカルト界をけん引するプレイヤー。『99番目のお隣さん』管理人にして、事故物件ウォッチャーのパイオニア……ヤベオカさんの登場です!」

 大きな拍手でライブスペースが沸きあがる。小さなステージの袖から、不気味なマスクをしたスーツ姿の男が現れる。

「あれ、スケキヨのマスクだ」

 隣で龍太郎が興奮して言った。

「スケキヨ?」

「横溝正史の犬神家の一族の登場人物だよ。戦争で顔に傷を負ったからゴムのマスクで顔を隠していた。物語の中でも異彩を放ったキワモノキャラだ」

「へえ……詳しいんだね」

「昔から映画が好きで、結構見てきたからね。ヤベオカさんの被っているあのマスクがそのスケキヨマスクなんだ。有名なマスクだよ」

 龍太郎の意外な一面を垣間見た。そういえば、趣味の話などしたことがない。

「どうも。マスク姿ですみませんねえ。顔を晒しちゃうと、私生活に支障が出ちゃうんで、これで許してください。『99番目のお隣さん』管理人のヤベオカです」

 会場にもう一度拍手が沸き上がり、ヤベオカは客席に手を振る。

「これはまたヤベオカさんらしい、不気味なマスクですね」

「ええ、顔を隠せればなんでもよかったんですが、せっかくなのでスケキヨくんマスクで登場したら盛り上がるかな、と」

 マイクで喋りながらヤベオカはしゃくりあげた。それに釣られて観客も笑う。

 龍太郎が言った通り、ヤベオカが被っているマスクは有名なようだ。

「スケキヨ?」

「そうです。あ、もしかしてカミオカさん、知らないですかあ?」

「すみません。アニメはとんと疎くて」

「アニメじゃありませんよ。石坂版犬神家の一族で登場したスケキヨという人物が被っていたマスクなんです。ねえ、みなさん」

 ヤベオカが客席に同意を求めると、観客は声援で答えた。

「そうなんですか、すみません。ええ、では早速ですがヤベオカさんの簡単なプロフィールをご紹介しましょう。ヤベオカさんはみなさんご存じ、『99番目のお隣さん』の管理人で、出自や年齢は非公開。顔も出さない、いわゆる『存在そのものが都市伝説』に近い人であります」

「否定はできませんねえ」

「まず、2008年に『99番目のお隣さん』を開設。聞いたんですが、この時は事故物件に特化したサイトじゃなかったそうで」

「そうですね。当時、わたしは埼玉から都内の職場に通っていたんですがあ、さすがにストレスでして。それで時間の短縮もかねて東京で暮らそうと思ったんです。ですが、やはりそこは東京。部屋をみつけるのも一筋縄ではいきませんでした」

「確かに、値段の条件もありますしね。こっちは高いですし」

「はい。それで部屋が決まるまでの間、結構な数の物件を見まして。その中に時々あるんですよお。飛びついてしまいそうになる、値段と部屋のクオリティが比例しない物件が」

 と、いうと? カミオカが合いの手を入れるとヤベオカは待ってましたと言わんばかりに答えを溜める。

「不動産屋さんの社員の方はとても真摯に色々と教えてくれましたし、何件も部屋を見ては断るわたしに怒るようなこともなく付き合ってくれました。まあ、お仕事ですし。そこはあまり過大に評価すべきではないと思いますが。この時も、僕の方から気付いたんです。なんだか、なにかがあったっぽいなこの部屋……と」

「なるほどぉ……! それがはじめて事故物件に触れた一件だったんですね」

「ええ、ご想像の通りです。あとはなんの捻りもありません。興味を持って、事故物件について調べ始めたんです。その時にねぇ、人との出会いがありまして」

「出会い?」

「ええ。その人物とは共通の知り合いを通じて出会ったのですがねぇ。なんでも『人が死んだ部屋に虫が視える』って言うんです」

「虫? それは興味深い。エンマ虫かもしれませんね」

「その人物の助力もあってねぇ、『99番目のお隣さん』のヒントになったんですよぉ。

 そもそも『事故物件』という言葉は不動産業界での隠語なんですよ。本来は『瑕疵物件』といって、その中でも『心理的瑕疵』に当たるという意味です。事故、という表現の仕方なんかは実に日本ぽいというか、香港では変死のあった物件を『凶宅』というストレートな呼び方をしますよ」

 ヤベオカは意外に落ち着いた声色をしていた。年齢不詳なため、世代はわからないが想像していたより年を食っているのかもしれない。

 それにさすが『99番目のお隣さん』の管理人だけあって、不動産についても詳しそうだ。

 スケキヨマスクで表情が全く読めないせいもあって、そのなんでもない声や喋り方が不気味に思える。

「わたしのサイトにはほぼ毎日、事故物件の情報が寄せられます。とてもじゃないですが、一件一件対応するのは無理なほど膨大な物件数になっているのが現状ですね。うちのサイトの場合は、他にも運営に携わってくれている人がいるので対応できていますが、ひとりでやっていたころに比べるとそれはもうすごいですよ。細かな数は把握できていませんが、都内だけでも一万件を超える事故物件が報告されています」

「そんなに多く?」

「ええ。ですが、考え方によってはそんなに珍しいことでもないかな、と。毎日どこかで人は死んでいるわけですし、今生きている人間よりもこれまで死んだ人間の方が圧倒的に数が多いんですよねえ。それにたまたまわたしがこういうサイトをやっているから、事故物件にばかり注目しているだけで、その辺の幹線道路や線路、駅、公園、学校……とどこでだって人の死とかかわっている。そっち方面の話も興味深いものは多いですよ」

「ほほう、例えばどういうものがありますか」

「そうですねぇ、例えば……東京駅にある『7号室』はご存じですか?」

 ヤベオカがカミオカに問うとカミオカは小さく首を横に振った。

 次に会場を見渡し、反応がないのを確かめるとヤベオカは続ける。

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