第11話

「死臭。それは……ちょっと気になるかな」

 その時、わたしは唐突に理解した。

 龍太郎が求めているのは死臭だ。それを「死への憧れ」だと位置づけていたが違う。龍太郎が求めているのは「死の臭い」であって、日常の中で無意識にその臭いを探しているのだ。

 だからより臭いものに反応し、近づいてしまう。それが事故物件での龍太郎の不審な行動に繋がっているのだ。

「知ってるかな。腐敗が始まった死体はね、内臓疾患を患った人間の口臭と似た臭いがするんだって」

「口臭? そんなもんじゃないでしょ。そんなの」

「程度の話じゃない。種類の話だ。僕は実際嗅いだことがあるから知っているんだ」

「実際? 本物の死体をってこと?」

「ひひひっ」

 突然、耳を通り抜けた不気味な奇声。肩を強張らせて周りを見た。

「なに? 今の声!」

「……あ、ごめん。僕だ」

 わたしの中で、今の奇声が龍太郎から発せられたものだという可能性は一切考えれらなかった。驚いて振り向くと龍太郎はわたしの方を向いて裂かれたのかと思うほど口角をあげ、笑っていた。初めて見た、龍太郎の「表情」だった。

 こっちを向いているのに、龍太郎の目はわたしに向いていない。虚ろで焦点が合っていない、どこを見ているのかわからない目だった。

 あまりの光景に言葉が詰まる。龍太郎は笑っているのにどこか無表情に感じる顔のまま、口をパクパクさせている。

 音の出ないテレビで、人形劇を見ているような気分になった。

「な、なに? なにしてるのよ」

「いやあ、思い出すとつい楽しくなっちゃって。生きてた時はさ、すっごい元気なんだけど死んじゃうとすぐに硬くなって、青くなって、黒くなって。でも、正直不満はある。子供ってすぐに持って行ける気軽さがあるからいいんだけど、本当は大人のが欲しい。贅沢な悩みだけど、そろそろひとりくらいいいのかなって」

「言ってる意味が……」

 喋っている最中で、違和感を感じた。だがなにに違和感を感じているのか自分でもよくわからない。

 注意深く観察してみたところでわかった。

 シーツを被っている下腹部が盛り上がっている。考えるまでもなく、それは龍太郎自身だ。

 死臭を思い出し、性的興奮を覚えているらしかった。

「ごめんね。思い出すといつもこうなっちゃうんだ」

 この時、龍太郎の異常性の核に触れた気がした。だがそれは思い込みだった。

 わたしがこの時触れたのは、龍太郎の異常性のほんの先端だったのだ。



 龍太郎はマフラーをプレゼントしてくれた。誕生日を覚えていてくれたのだ。

「えっ、『Owl Night』を辞めたい?」

「うん」

 マフラーを首に巻いて喜んでいると龍太郎は急に告白した。

 わたしは思わず声を大きくして、なぜなのかを訊いた。

 こんなにも考えていることのタイミングが合うのかと、少し怖くなった。

「他のサークルメンバーの人たちと温度差があるなって。軽い気持ちで入会したんだけど、みんなほどガチでハマれる気もしないし」

 これはやっぱり運命なのだと強く思った。まさか、龍太郎もわたしと同じことを思っていたなんて。無性に嬉しさがこみ上げ、わたしは龍太郎の手を掴んだ。

「ほんと? わたしも実は辞めようって思ってたの! もともと好きで入ったサークルじゃなかったし……。でも龍太郎が入会したから我慢しようって思ってたんだ」

 龍太郎は言葉を失い、目を剥いてわたしを見つめた。

 予想外の言葉だったようだ。

「僕の巻き添えになることない」

「巻き添えとかじゃないよ。本当に辞めたかったから。でも、辞めるならせめてヤベオカさんが来るイベントの後にしない? せっかくだし、最後の思い出ってことで」

 辞めたいというのも本心だが、ヤベオカに会いたいというのも同じく本心だった。

 イベントまであと2週間もない。これを間近にしてなにも今抜けることはない。

 龍太郎はそれでも「それは都合がよすぎるって思われないか」と心配していたが、そんなことはないとなだめた。

 年会費を払っていたり、契約書があるわけでもない。

 誰でもウェルカムで、人数も少ないサークルだ。退会する時も気軽な気持ちでいいはず。

 一度顔見知りになった手前、わたしは退会するタイミングを逃していたが、これこそが絶好のチャンスであるに違いない。

 そのことを説明してやると、龍太郎はようやく納得した様子を見せた。

「最近カミオカさんから連絡ないよね」

「そうなんだ。一時期は毎日のように連絡があったのに。前の月例会の時以降、全然連絡がないんだ。身体でも壊しているのかな」

「単純に忙しいだけでしょ。気にすることないよ。むしろこれまでが連絡してきすぎだったんだって」

 カミオカは異常なほど龍太郎に連絡してきた。内容は大体いつも同じで、用があるんだかないんだか、よくわからない話だった。

 内見ツアーのことや、月例会のこと。最初はあたかも用件があるように話を切り出しておいて、最終的には龍太郎とふたりで会う約束をとりつけようとする。

 何度か食事に行ったことがあるらしいが、ほとんどの場合断っていた。

 わたしの目から見ても、カミオカの龍太郎に対する執着は異常だと思った。

 まるで片思いの女性を口説き落とそうとしているような、気持ち悪さ。

 わたしもカミオカが苦手だった。前まではそんなことはなかったが、龍太郎が入会した後くらいから妙にわたしと目が合うことが増えたのだ。

 目が合うだけなら気にすることもないが、なんだか睨まれているような気がする。敵意を持ってわたしを見ている気がしてならないのだ。

 ともかく、カミオカが急に龍太郎に連絡をよこさなくなったことは気になる。けれどそれ以上に、清々していたのも事実だ。

「ヤベオカさんのイベントももうすぐなのに」

「それまでにはさすがに戻ってくるよ。心配しすぎだと思うけどな」

 いくらなんでも『Owl Night』きっての大きなイベントに現れないはずがない。むしろ、イベントが間近になり準備に追われているのだろう。

 わたしの考えを話すと、龍太郎は納得した様子だった。



 東京のランドマーク。日本で一番高い電波塔にわたしたちはいた。

 珍しく龍太郎が行きたいというので大人しく付き合ってはみたが、今日はやけにその言動が気にかかる。わたしの中で、龍太郎という男の印象と受け止め方に変化が生じてきていたのだ。

 珍しく龍太郎は自分の話をし始めた。

 千葉に残してきた母親は、まだ60代だが重度の認知症を患っている。施設に入れ、ヘルパーに任せているから心配はいらないが、それでも時折心配になるということだった。

「帰ったりしないの」

「帰っても辛いだけだ」

 どういうことかと訊ねると、龍太郎はわたしに目を合わせずに、「会っても母は僕が僕だとわからない」と答えた。

 話によれば、会うたびに母親の中で息子の龍太郎の年齢が違うらしく、大抵の場合変質者扱いをされるのだという。

「辛いね、それは」

「辛いね。他人のためにお金を出さなきゃいけないのが」

「え? 金?」

「そうさ。僕を息子だと認識できないってことは、母にとって僕は他人と同じだ。となれば僕からしてもそれは同じ。親子であって親子じゃない。他人と一緒だ。なのに、そんな他人のために毎月毎月、自分の稼ぎから出さなきゃならないなんて納得できないだろう。辛いさ」

 寒気がした。

 母親の話をしはじめたことで、龍太郎の人間らしさに触れることができるのかと思い、期待したが見当違いだった。

 龍太郎の人間性はやはり常識から外れている。認知症で自分のことがわからない、とはいえ長年自分を育ててきた実の母親であることには違いない。

 それなのに、龍太郎は意識の問題で互いが認識できないのであれば他人と同じだと言った。

 そんな他人のために献身的になることを全くの無駄であると一蹴したのだ。

 現実にこんな冷徹な人間が存在するだなんて、まるで小説や漫画のキャラクターのようだ。

「そんなことより、例えば……」

 龍太郎はガラスで透き通った床、数百メートル下の地上をじっと見下ろした。

「ここから落ちたら、人間の身体はどんな風に潰れるんだろう」

「潰れるというか、破裂に近いんじゃない。高層ビルから飛び降り自殺した人とかかなりの範囲に肉片とか飛び散ってて、その後の処理とか大変だっていうじゃない。でも、こんな高いところから飛び降りたりする人はいないでしょ」

 そう言いながら、わたしは展望台から望む景色を見渡した。精一杯、平静を装ったつもりだった。

 なぜ龍太郎が今さらこんな所に来たいと言ったのかはわからないが、転落死のイメージのためだったのか。狂っている。

「で、でもこんなとこより、もっと高いところあるでしょ。ツインタワーとか。あれから飛び降りたらもっとすごいことになるし、せっかくなんだからそういうところで派手にやれば?」

「僕が飛び降りたいんじゃない。死体に興味があるんだ。それにそこは遠い。今ここにないものの話は好きじゃない」

 ここから飛び降りた人の死体も、今ここにないものだ。

 口には出さなかった。龍太郎に思考が読まれている気がしたからだ。

「それだけ広範囲に飛び散るのなら、例えば夏とか暑い日ならそこらじゅう血と肉と脂肪の臭いがするんだろうね。熱を吸ったアスファルトに散らばった肉や血やはらわたが、焼けるような煮えるような臭いを立ち昇らせるんだ。警察は臭いまでは抑えられない」

 そういえば……と口にしたきり、龍太郎は街の景色を見下ろしじっとなにかを探している。そして、ぼそりと「あれはどんな臭いだったんだろうな」とつぶやいた。

 直後、「やめよう。死んでしまう」と歪に微笑んだ。

 わたしはその言葉で龍太郎が探しているのが地下鉄なのだとわかった。

「毒ガスの臭いも嗅ぎたいの」

「臭い? なにが」

「いい。忘れて」

 龍太郎は頻繁に死にまつわる臭いの話をするくせに、それに反応すると毎回、そんな話はしていないと白々しく固辞する。少しでも食い下がろうものならば、龍太郎は必要以上にムキになった。普段大人しい彼が声を荒らげ、一辺倒に主張する姿は異様で恐ろしかった。

 第三者から見れば、わたしも立派な変人なのだろうか。設定や真似事ではなく、龍太郎と出会ったことでわたしもちゃんと変人になれたのか。

 だがそんなわたしの「変人願望」は、龍太郎という人間を前にしてすっかり鳴りを潜めていた。今では彼の前で自らがネクロフィリアであるということを話すのすら怖い。

「君はどうなんだい。死体への愛はどこで折り合いをつけているんだ」

「えっ……」

「わからないな。死体愛好家の君が、死体に触れずにどう折り合いをつけているのか」

 思わず言葉を探す。認めるのが怖かった。この場を回避できる便利な言葉は、動転するわたしに降ってくるはずもない。

 そういえば、「わたし」は死体愛好家なのであった。自分の設定を忘れてしまいたかった。

 そんな付け焼刃の設定などどうでもいい。わたしは龍太郎にいつ「自分は死体愛好家ではない」とカミングアウトすべきか、それが悩みだった。

「腐ったのもいいけど、新鮮なのも嗅ぎたい」

 龍太郎のひとりごと。決してこれに反応してはいけない。

 わたしはただ聞き耳を立てて彼の機嫌を損ねない返事をするだけだ。

「死んだばかりの死体は無臭だから面白みに欠ける。だけど、腸内に残った便の臭いはする。胃の中も腸内も綺麗な死体なんて、完全に無臭だ。面白くない」

 危ないことを言っている。これで自分は臭いには興味がないというのだから理解できない。

「知っているかな。一度人が死んだ部屋は、また死を招く」

「……事故物件のこと?」

「そうだ。結構な数報告されている。前の住人が死んだ同じ部屋で新しい住人が死んだり、部屋は違っても別の部屋で新しい事故物件が生まれたり。不思議と一度で終わらないケースがある。これは理屈じゃないんだろうな。死が死を呼んでいるってことだ」

「怖いね」

「君は『T団地』を知っているかい」

 わたしの返事など聞く気がないとばかりに重ねる。その名に心当たりはなく、首を横に振った。

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