第7話



 酒井からよからぬ話が耳に入った。

 龍太郎が勝手に酒井を通して内見ツアーをしているというのだ。しかも、信じられないことにあの女とふたりでだ。

 バカな。酒井という人間と出会い、ここまでの関係に至るまでに要した時間、使った金、費やした時間、どれだけの対価を払ったと思っているのだ。

 さらに酒井本人からそれをリークされる屈辱、食いしばった歯が割れ、歯ぐきから血が出るのではと思うほど、怒りで我を忘れそうになった。

 仮に、龍太郎ひとりの独断で内見ツアーをしたというのならまだいい。あれは金になる。どこかに行ってしまうよりも、少々の勝手をしても目の届くところにいればいい。

 だがあの女と一緒というのなら話は別だ。

 企画にかかわらせるわけにはいかない。ただでさえ酒井が計画に首を突っ込んで、誤算を生んでいる。この上、さらにもうひとり増えるなどあり得ないのだ。

 自分を変人(ルビ/ネクロフィリア)だと自称する淫売。どうせ龍太郎に対しても体を使った汚い手段を使ったに違いない。

「いやあ、わたしはちゃんと訊いたんですよ。このことは小林さんもちゃんと知っているのかって」

 酒井はニタニタと笑いながら、『小林』と本名で呼んだ。サークルメンバーではないので当然だ。龍太郎は「知っているし自由にしていい」とも言っていたという。

「ですがギャラは手渡しでもらっていたじゃないですかあ。ですんでね、それを言ったんです。最初の頃はちゃんとお支払いいただいてたんですがねえ」

「最初の方? そんなに何度もやっていたのか」

「そりゃあ、小林さん。あなたもおわかりでしょう。都内だけで何軒、瑕疵物件があると思っておられるんですかあ。」

 酒井はニタニタ顔を意味ありげに向けた。実にわざとらしい口ぶりが、この男のいやらしさを浮き彫りにしている。

「そんなことよりあいつの話だ。一体これまでどれだけ行った?」

「そうせっつかないでください。……回数でいうと10回いかないくらいでしょうかねえ」

 10回――。十分行きすぎだ。

 サークルの企画でさえまだたったの2回。下見もかねて自身ひとりで行ったのだって1回だけだ。それなのにそれを差し置いて、10回だと? あの女とふたりで?

「ふざけるな! なんだと思ってやがる!」

 喫茶店の客が一斉に振り返る。テーブルの上でグラスの水が大きな波を立てていた。

「お、落ち着いてくださいよ小林さん」

 突然怒鳴り声をあげたからか、酒井は引きつった顔を浮かべ委縮した。

「それで……ですがねえ、申し上げにくいんですが田原さんからのお支払の件なんですが」

「なんだ」

「実はさきほども申しました通り、最初の頃は滞りなくその場で現金を頂戴していたんですがあ……、それが回を重ねるごとに後日の支払いになりまして。わたしもねえ、小林さんの親しい間柄の方ですから、大目に見ていたんですう。その場でいただけなくとも数日後にはもらえていたんでねえ」

 回りくどい言い方でピンときた。つまり、龍太郎は酒井に「内見ツアー」の金を払わず滞納しているのだ。

 本来、酒井の性格を考えるなら、龍太郎がギャラの支払いを一度でも反故にした時点でこちらに話をしてくるはずだ。だがそれをしなかったのは、最終的にこの展開に持って行きたかったからだろう。

 まとめて金を回収できるうえに、龍太郎に忖度した恩を着せることができる。

 その計算高さに、弱みを握られる面倒さを痛感した。

「いつからだ。龍太郎が金を払っていないのは」

「いえ、まあ、ほんの3回分だけですがねえ。さすがにわたしも危ない橋を渡っているものですんで、お支払いのない状態でさらに回数を重ねるわけにはいかないもんで」

 酒井は暗に、「滞納したまま、龍太郎が次のツアーを申し入れてきた」と言っているのだ。

「わかった。その金は俺が払う。だが、なんで今さらになって話した。本来なら、龍太郎から最初に内見ツアーを希望してきたとき、俺に報告すべきじゃないのか」

「おっしゃる通りですが、そもそもわたしと小林さんの関係も信用の上で成り立っている訳でして。信用だけで内見ツアーをやっている、という意味では間接的とはいえども、田原さんとも同じかと思ったのです。ですがこのような結果になるとは思ってもおらず、自分の認識の甘さに辟易するばかりでして」

 よく言う。なにが認識の甘さだ。どうせこの男は龍太郎が内緒で内見ツアーを望んでいるということをわかっていたのだ。うまくいけばサークルの企画と龍太郎個人のものでダブル取りできる。酒井の狡猾さはこれまでの付き合いでよく知っているつもりだ。

 いつか龍太郎が支払いと滞らせることもわかっていたのだ。「おたくの可愛がっている坊やが粗相しました。目をつむる代わりにおわかりでしょう?」、と。

「悪かった。今回、迷惑をかけた分も載せて俺が支払う」

「えっ! いやあ、そんなつもりじゃあなかったんですが。すみませんねえ」

 財布からいつもより1枚多く金を渡す。酒井はそれを見て、ニタニタするばかりで受け取らない。

 守銭奴が。

 さらに1枚足したところでようやく受け取った。

「悪いが、これからもしまた龍太郎が内見したいと言って来たら、まず連絡くれ。その上で断ってくれ。仮に龍太郎が金を持ってきたとしても受け取らないでほしい。その時はあとで俺が同額払うよ」

 こう言っておけば酒井は首を縦に振らざるを得ない。結局、最終的に自分の財布が潤えばそれでいい男なのだ。

「ええ、そういうことでしたら。了解いたしましたあ」

 案の定、酒井は何度もうなずいた。

 それにしてもどういうことなのだ。

「師匠と呼ばせてください」とまで言った人間に断りもせず、独断で自腹を切ってまで内見ツアーを強行した。

 あの女はともかく、龍太郎はそこまでの馬鹿じゃない。酒井に払う金がなくなればこちらの耳に入ることはわかりきっている。いや、それ以前に払う金が底をつくまでのめり込むタイプでもないはずだ。

 そもそもが買いかぶりすぎだったのだろうか。それとも虫で一儲けを画策していることを見透かされている……とでも?

「酒井さん、龍太郎が内見を申し入れてきた時のこととか、ちょっと聞きたいんだけど」

「いやあ、さすがにそれはねえ」

 頭を掻き、酒井は勿体ぶった。この期に及んでそれか。このがめつさには反吐がでる。

 だが反面、ある意味でわかりやすい。金さえ渡しておけばこちらの都合のいいように働く。ゴミくずのような人間だが、使いようによっては役に立つのだ。

 それにしても出費がかさむ。先行投資だと思えば安いものかもしれないが、この男にばかり金を払うのは癪だ。

「わかったわかった。ほら、これでいいんだろ」

「さすが小林さん。物分かりがよくて助かります」

 差し出した札を受け取り、酒井は喋り出した。ここまで勿体つけていたのが嘘かと思うほど、饒舌に語る。この男、セールストークよりも落語のほうが向いているんじゃないのか。

「田原さんはねえ……わたしが言うのもなんですが、ずいぶんと変わった人ですなあ。なんというか、何を考えているのが掴めないというか、言い方は悪いですが不気味なところがありますよねえ」

 うなずいてやると、嬉しそうに口元を緩めて続ける。

「変わっている、といえばいつも一緒にいるあの女性の方も変人だあ。二言目には『死体が見たい』とか、『死体の臭いが嗅ぎたい』とか。その内『死体としたい』なあんて言い出すんじゃないかって思いましたよ」

 かっかっかっ、と自分で言って自分で笑った。

 落語家に向いているんじゃないか、というのは本心だが売れるかどうかは別だ。

「あいつはどんな様子だった」

「それがねえ、思い出すだけで身の毛がよだちますよ。なんてったって、行く先々の物件の、仏さんが横たわっていた場所を聞いてはそこに顔をべったりつけて鼻をひくつかせているんですよお」

「……床に顔をつけて、引くつかせていた?」

「ええ。あんまり滑稽で不格好なもんで、わたしはいっぺん聞いたことがあるんですよお。『一体、なにをしておいでで?』とね。そしたら、田原さんは面妖なことをおっしゃったんです」


『死の臭いを嗅いでいた』


 龍太郎は酒井にひとことそう言ったらしい。

 これまで龍太郎があの女とふたりで回った物件は、およそ25~30件ほど。そのすべてで龍太郎は同様の行為を繰り返していたという。

「別に汚しているわけではないんで、注意はしませんでしたが……なにしろ不気味でねえ。あ、そうだ。そういえば田原さん、物件につくと必ず壁をじっと見ていましたね。それも一点だけに集中しているわけではなく、なにか目で追っている感じで。虫でもいるのかと焦りまして、慌てて視線を追いかけてみたんですがあ……なにもなくて。物件によって興奮の度合いが違うのも気になりましたねえ」

「興奮の度合い?」

「ええ。不思議なことにあの人はわたしが案内した物件でどんな事故があって、どんな住民が、どんな死に方をしたのか説明しようとしても断るんです。それどころかむしろ『黙っていろ』とばかりの威圧感でねえ。ほとんどの現場でわたしはただ立っているだけでした。それなのに田原さんは息を荒くして、さらに頬も紅潮させる時もあれば、少しの間壁を見つめ、床を嗅いですぐに関心をなくすこともありました。

 それだけなら『変な人だなあ』くらいで終わるんですがねえ。あの人が興奮する物件っていうのがまた、大きな事故や未だ解決の糸口も見えない変死に関わった物件ばかりでして。最初はわたしもわかりませんでしたが、回を重ねるごとに段々とそれに気付いてきましてねえ。そのあと、彼からの電話が怖いのなんの」

 酒井が気味悪がるのも当然だ。奴には虫のことは話していない。それどころか、計画に龍太郎がかかわっていることも話していないのだ。

 だから龍太郎の行動はさぞ異様だったろう。龍太郎の犯した勝手な行動には憤りを禁じえないが、酒井に対し下手なことを言っていなさそうなのは、不幸中の幸いだった。

 軽口ばかりを叩く酒井だが、その引きつった笑いだけは如実に恐怖を語っていた。

 想像してみる。

 とあるウィークリーマンションの一階。若い女性が住んでいたが、以前交際していた元恋人がストーカー化し、部屋に押し入り彼女を殺害。遺体が発見されることを恐れた男はバスルームでバラバラに解体したのち、公園に捨てた。

 当然、そんな物件に借り手がつくはずもなく数年の時が経ち、酒井と共に龍太郎がやってくる。そして、龍太郎は壁一面に虫を視るのだ。

 虫が導くままにバスルームに向かい、紅潮させた頬に虚ろに濡れた瞳でバスルームの冷たい床に顔をへばりつかせる。鼻の先を擦りつけ、死体と同期するように肺いっぱいに空気と臭いを吸い込む。細かな痙攣と共に絶頂の準備が整う。熱い血流が下腹部に集中し、硬直した性器の先から精神が液状化して体外に逃げ出そうとする。放出。

 荒い息遣い、恍惚な表情、龍太郎を囲む黒い虫々――。

 確かに異常だ。それだけに龍太郎らしいといえば龍太郎らしい。

 だが想像の龍太郎と現実の龍太郎が近づけば近づくほどに、危うい存在なのかもしれなかった。

 危うい、というより危険。

 龍太郎の『事故物件に虫が視える』というのは、商売(ルビ/ビジネス)としておいしいと思っていた。事故物件の情報を集めた本……いわばデータベースのような。それが出せればたちまちベストセラーは間違いない。オカルト番組にでも呼ばれればさらに売り上げは伸びるだろう。

 しかし、今思うのは、本当に龍太郎という人間を利用してもいいものかという疑問。

 なにかをしでかしたわけでも、危険思想を垣間見たわけでもない。ただ、やっていることが異様だというだけだ。それなのに、本能の奥で直感が「これ以上かかわるな」と言っている。だが、その直感を信じるには、まだ龍太郎という人間のことを知らな過ぎる。



「しかし……本気なんで?」

「なにがだ」

 酒井は申し訳なさそうに眉をハの字に下げた。

 よほど言いにくいのか、時折あーとかうーとか、か細く唸っている。

「言いにくいことなら言うな」

「いえ、そんなことは」

 そう言って酒井はずいぶん前に空になった缶コーヒーを呷った。

 大方、イベントのことを心配しているのだろう。

 なんといってもサークルにヤベオカを初出しするのだ。小心者のこの小男が心臓を小さくするのは無理もない。

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