第6話

「馬鹿にしてるのかよ。子供じゃないんだ」

 そう言って「犬」と答えてやったが、内心、不快感は消えてはいない。馬鹿にしているのか、とは本心で言ったのだ。

「そうですか。犬、いいですね。従順ですし目に見えて媚びてくる感じも嫌いじゃないです」

「君も犬かね」

「いいえ」

「意外だ。猫派か」

 本当に意外だった。唐突な人を食ったような質問に苛立ちを覚えていたはずなのに、ふと沸いた興味がいとも簡単に不快感を攫った。

 しかし、龍太郎はやはり馬鹿にしているかのように「どちらもです」と答えた。

「そりゃあずるいな。じゃんけんでグーチョキパーだすようなもんだ」

「いえ、そんなことありませんよ。だって、僕は『犬か猫』とは訊いていませんもの。回答の選択肢としてはよっつもありました」

 よっつ? と訝しんで見てやると、龍太郎は犬か、猫か、どちらもか、どちらでもないか、と答えた。

「正しいのかもしれないが、幼稚ななぞなぞと大して変わらんな」

 愚痴のようにこぼしながら、カップのコーヒーを飲み干す。

 龍太郎はシーフードサラダのパプリカとツナだけを選って口に運ぶ。変わった食べ方だ。

「そんなので腹が膨れるのか」

「空腹を満たすためというより、好きだから……ですかね。昔から肉は苦手で」

 龍太郎の言葉に、思わずテーブルに目を落とした。

 こちら側には冷めた鉄板と、その上に横たわるニンジンのグラッセといんげんのソテー。周りには細かな肉片と黒い鉄板の色と同化している茶色いソースがこびりついている。ステーキの残骸だ。

「厭味か?」

「違いますよ。好みの話です。他人が食べている物に文句はありませんし、そばで食べていても僕はなにも思いません」

 そう言いながら龍太郎はツナとパプリカをレタスとエビ・イカから掘り出す作業に没頭していた。

「それに、肉の臭い自体は好きなんです」

「珍しい奴だな。食べるのは苦手なくせして、臭いは好きだと」

「ええ。特に生肉……腐っていればなおいいです」

「腐った肉の臭いが好きだと? はは、やっぱり出会うべくして俺たちは出会ったんだな」

 龍太郎も嬉しそうに笑った。

「最初に殺したのはね、犬だったんです」

「はあ?」

「その犬は可愛いやつだったんですよ。けれど、おいしい肉を食った。だから反射的に殺しちゃったんです。父親の愛用していた重いガラスの灰皿でね」

 そう言って龍太郎は右手を振りかぶり殴る素振りをしてみせた。

「あの時は夢中で。犬の顔面がぶにぶになるまで気が付かなかった」

 テーブルを横切った中年の女がギョッとした顔で一瞬立ち止まった。咄嗟にゲームの話の振りをして相槌を打つと、なにもなかったかのように去っていった。

「やめろよ龍太郎。いくら本当の話じゃないからって、TPOってもんが……」

「なんですかカミオカさん。僕が嘘の話をしているって思ってたんですか。……傷つくな」

 龍太郎は潤んだ目で見つめた。まるで飼い犬に死なれた少女のようだ。いや、こいつの話が本当なら、飼い犬を殺した少年……ってところか。

「その後、癖になった時期がありまして。でも犬猫は飽きます。それに飼いならされてると言っても所詮は動物。死体の臭いも獣臭い」

 龍太郎はそこまで言い終えると、パプリカを齧った。

「お前のことを嘘つき呼ばわりするつもりはないがね、俺はそういうことをしない。どちらかといえば俺が普通の感覚だと思うが」

「普通? 普通の人というのは……たとえば、子猫をまとめてミキサーに入れたりしないんですか」

「なにを言っている? ミキサーだと? そんなことするわけがない」

「は。じゃあ、冷凍庫に入れて何時間生きていられるかとか、フライパンで焼いてみるとかは?」

「…………」

「レンジはね、汚れるし暴れるからおすすめできないです。それに上品じゃないじゃないですか」

 もういい、と話を区切る。龍太郎は特に不満げな表情を浮かべるでもなくおとなしく話をやめた。

「その話の真偽はともかくとして、犬派か猫派かなんて訊くんだ。そんなことに興味があるように思えんがな」

「それは偏見です。言ったでしょう、僕は犬も猫もどちらも好きだと」

 気味の悪い奴だ。わざとらしく異常者を演じているのが滑稽にも思える。

「実は実家の母が犬と猫を飼っていまして」

「お母さんが? しかし今は施設に――」

「ええ。だから昔の話です。さっき言ったでしょう。『可愛い奴だった』と。以前から動物は好きだったんですが、僕が中学を卒業するまで借家だったのでペットが飼えなくて。それで父が実家を購入した時に、母のたっての願いで犬を飼うことになったんです。猫はその後で、認知症の疑いが出始めた頃に外で拾ってきました。犬はともかく、猫は時々増えるんですよね。人の目を盗んで外に行っているみたいで。まるで人間の女みたいだ」

「おいおい、そんな言い方はないだろう。まるで特定の誰かのことを言っているよう聞こえるぞ」

 事実、「特定の誰か」のことを言っていることは疑いの余地がない。大方、モニカのことだろう。

 アレも相当な変人気取りだから、ある意味で龍太郎とお似合いといえばお似合いなのかもしれない。いや、アレでは龍太郎を持て余す。実際、今日呼び出したのも、あの女から龍太郎を引き離しておきたいという思いからだ。

「とにかく、母は犬や猫を飼っていて、犬を父の名で、猫を僕の名で呼んでいました」

「君ら親子……その、つまり家族のことを認識していなかったってことか」

「そうですね。時々やってくる訪問ヘルパーがいるんですが、それと思い込むことも多かったです。父によく『泊りがけですみませんね』って言っていましたから」

「それは辛いね、お父さん」

「うちの父は割と恰幅のある、典型的な中年太りの人だったんですが……母が認知症になってからは日に日に痩せていってしまって。晩年は僕よりもガリガリでした」

 そう言った龍太郎のシルエットを思わず見てしまった。確かにやせ型である。

 このシルエットで「僕は野菜とツナしか食べません」と言われても、なるほど納得してしまう。

「猫は最終的に7~8匹に増えたでしょうか。それだけ沢山いて、毛色も鳴き声も違うのに全部僕の名前で呼ぶんですよ。笑えるでしょう? そりゃあ、家にいたくもなくなりますよね」

 母の介護から逃げたくて家を出た――と以前、龍太郎は言った。

 聞いた時は身勝手なやつだ、と非難したくもなったが、事情を聞けばやむを得なかったのかもしれないと思うようになっていた。

「父にひとりで母の介護を任せるのは不安ではあったんですが、あの家にいるのが厭だったので。それに、父は僕に手伝ってほしいとは言いませんでした。時折、『母さんが会いたがっている』とわかりやすい嘘を吐くことはありましたが、そんな時くらいしか帰りませんでした」

「お父さんの思いやりだろう。君に心配をかけたくなくて」

「違いますね。父は、人一倍プライドが高い人でしたから。定年退職するまでは、いい役職に就いていたそうですし、常に人に指図していた側だったんです。それを家の中にまで持ち込んでくるタイプだったんですが、定年で急に家に一日中いるようになると家族はずっと、役職のままの父に指図されるわけです。そう、さながら会社の部下かのように。あれを家族と呼ぶのなら、父にとっては理想的な家族だったんじゃないでしょうか」

 強烈な皮肉だな。

 龍太郎は淡々と自らの出自を語りながら、ツナとパプリカを食べつくしたサラダをフォークで無心にザクザクと刺している。

 レタスとエビ、イカが散弾銃で撃たれたように、穴だらけになっていた。

「だから僕は犬も猫も飼わない」

「……そうか」

 気持ちはわからないでもない。好きなものほど遠ざかってしまうことはよくある話だ。

 一時、ZIPPOにハマり込んだ。至る所で限定品やご当地物のZIPPOがあれば買い漁っていたが、ふとディスプレイに入りきれなくなったZIPPOの山を見た時にどうしようもない厭気が差した。

 すぐに袋に詰め込み、翌日の粗大ごみに出したが、今でも先々でZIPPOを見るたび購買欲が刺激される。

 蓋を開け、火石を擦るあの一連の音がどうしようもなく聞きたくなるのだ。

 頭の中で夜空の下、身を寄せ合って彷徨う犬、猫と、粗大ごみ置き場に無造作に捨てられたZIPPOが重なった。

「母が施設に入ることになって、犬、猫は殺しました。さっき話しましたよね、子猫はミキサーでジュースにしたんです。トマトジュースだと言ったら母親は嬉しそうに飲んでましたよ。口の周りを毛だらけにして。犬は噛まれるのが厭だったので、下剤で弱らせてからバーナーで焼きました。目とか焼くと面白いですよ。ぱんって破裂するんです」

 龍太郎の話の途中でトイレに駆け込み、食べたばかりの肉を吐いた。



 龍太郎は右手の指で小さな輪を作った。直径一センチくらいの輪だ。

 脳内で龍太郎が作った輪をエンマ虫に変換する。

 輪の中から這い出し、手首を伝って肩へ登り、首を通って耳の穴へ。

 体内に入った虫は小脳を食い進み、海馬に辿り着くと龍太郎の体を支配するのだ。

 そうすると龍太郎はもはや虫自身となり、群がる人間どもを喰うだろう。

 ゾンビやモンスターなどの陳腐なものとは違う、人を食う生態を持つ昆虫と人間のハイブリッドである。

 そうなればまず先に食われるのは誰だろう。考えるまでもない。

 べたべたと龍太郎にまとわりつく淫乱女、モニカだ。まずどこから食う? せっかくだから生命活動に極力遠い場所からがいい。やはり足か。足を食っておけば少なくとも逃げられないだろう。そのつぎに手。内臓は直接死につながるから慎重にしなければ。出血だけ気を付けておけば腸を食っても大丈夫かもしれない。ぶりんぶりんの大腸をひきずりだし、自分の腸が食われている様を見せつけて存分に絶望を味合わせてやるのだ。

 いや待て。それならば子宮が先だ。膣から直接手を突っ込み取りだした子宮を見せつけ、勿体つけ、嘗め回した挙句、ひと思いに噛み千切ってやるのだ。充分に咀嚼した子宮を口移しで食わせてやれば凄まじい嫌悪と憎悪で吐き散らすだろう。考えるだけで興奮する。

 心臓と出血の問題さえクリアすれば、驚くほど生きている時間は伸ばせられるはず。考えるだけど血が滾りそうだ。そうなると、モニカの次はもちろん――。

「どうしたんですか、カミオカさん」

 モニカの声で現実に引き戻される。いつのまにか妄想の世界に没入していたようだ。

 我を忘れるほど妄想に浸ってしまったことも恥ずかしい限りだが、それよりもモニカによって引き戻されたのが耐えがたい。

 モニカの顔を見ず、大丈夫だとだけ答える。

 龍太郎は心配そうにこちらを見ている。軽く手を振って問題ないことをアピールすると安心したように笑った。

 ――まだ熟成するには早いもんな。

 家で大人しくしているそれを思い、溜め息を吐いた。

 少し外の空気を吸ってくると言い残し、レンタルルームから出た。

 こんなにも簡単に妄想に浸ってしまう理由はわかっていた。無論、あの女の存在も大きいは大きいが、自制できないほど振り回されはしない。

 もっと他にあるのだ。

 キン、と冷えた風が頬に当たる。氷で直接顔を撫でられたかと思うような乱暴な冷気だった。12月の初旬、そろそろ冬が本格化してきている。

 乾燥した風と星が鮮明な夜空。現実の方がよほど幻想的ではないか。

「やっぱり邪魔だな」

 中から漏れ聞こえる、モニカの下品な笑いがロマンチシズムに水を差した。


「心配かけたな。もう大丈夫だ」

 部屋に入ると、サークルメンバーたちから一斉に注目を浴びた。

 外の風に当たると告げたのは龍太郎とモニカのふたりだけだ。大方、あの女が他のメンバーにも吹きまわったのだろう。

 いちいち癇に障る。

「おいおい、おっさんひとりちょっと具合悪くしただけでオーバーだろ」

 オーバーだろ、と言いながらオーバーに笑ってみせる。

 メンバーたちに漂う緊張感が和らいだ。健全さをアピールするように、テーブルに置いてある、誰かの差し入れの菓子を大口で放り込んだ。

「うまい」

「それ、わたしが持ってきたんですよ!」

 嬉しそうにモニカがはしゃぐ。思わず吐きそうになるが、無理に半分飲み込んだ。うまい菓子だったが、モニカの手土産だと聞いて急に砂の味になった。

「さすが女子だねぇ。うまいお菓子に詳しいわけだ」

「そんなことないですよぉ。それ、『いちょうパイ』っていう熊本のお菓子なんですよ。ほら、去年の地震でまだ大変じゃないですか。それで友達が復興支援になれば、って旅行に行ってきたんです。買って、食べて応援というか」

 ね、とモニカは龍太郎を見て笑った。龍太郎もそれに同調するようにうなずく。

「カミオカさん痩せてるから、ちょっとくらい太った方がいいですよ」

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