第8話

 守銭奴の割に世間体を気にするところなどはまさに滑稽だ。こちらから言わせれば、奴が執着している金など高が知れている。小間使いのそれに等しい。

 だがなにより滑稽なのは、そんな男がヤベオカに怯えているということだ。

 これについては金のことなど口にしない。言いなりだ。

 やはり命は金よりも大事なのだろう。それがなんとも笑えてくる。

「うまくいくとお思いでしょうかぁ……」

「うまくいかなかったことがあるのか」

「いえ、そういうわけでは……」

 困った顔が余計にしわくちゃになった。

「お前はヤベオカの言うことを聞いておけばいいんだ。それ以外のことは考えなくていい。そうだろ、酒井?」

 猫が背後の虫を察知した時のように、酒井は過剰に跳ねた。

 ぶるぶると手を震わせるとニタリと笑ってみせる。無理をして笑っているのは見え見えだった。

「ええ。そうでした。あなたの言うことさえ聞いておけば間違いない」

「にわか知識のにわかファンがね、気軽に触れてはいけないものがある。例えば……ヒーローに憧れる少年がいたとしよう。彼はね、テレビや漫画で強い男に憧れるんだ。グッズを買い占め、歌を覚え、キャストや製作者を必死で追いかける。日々、ネットや本での情報収集に明け暮れ、いつしか自分がヒーローに近づいたと勘違いする。悪漢や『本当の悪』に出会ったとき、彼は厭でも気が付くんだ。『自分はヒーローではない』ということに。例えば作られた世界の虚像であったとしても、その世界ではヒーローはヒーローたる理由がある。ヒーローの世界でヒーローがヒーローであるためには特別である必要があるからだ。現実世界でのヒーローにあたる人間はいくらでもいる。スポーツ選手、警察、役者、歌手……どれもこれも特別な才能と、それに見合う『対価』を払って『本物』として存在しているんだ。それを憧れというフィルターだけで、見聞きする情報や、使った時間だけで自分も特別だと思い込む。だがそれはどうしようもなく『偽物』だ。ほとんどの場合、それに気が付く時というのは手遅れな場合が多い。

 にわかが本物に触れてしまった時、それはもはや手遅れだと思わないか。ヒーローを喩えにしたがね、この場合でも同じさ。悪に立ち向かったつもりのにわかヒーローファンは、取り返しのつかない傷を負って自覚する。それは死を意味することもある」

 酒井は黙り込んだ。大方、誰かのことを思い浮かべているのだろう。

 正解だ。その通りだよ、酒井。

「あ……そろそろ仕事に戻らないと」

「そうか」



 酒井と別れた後、夜の道を少し歩いた。

 夜風に当たりたかったせいもあるが、ひとりになりたかったのもある。

 あてどなく歩いていると寂れた商店街を見つけた。

 ほんの気まぐれで商店街に入ると、たちまち乾いた暗さに足がすくんだ。

 シャッター商店街どころではない。ほとんど廃墟に近い。

 昨年、日本中が固唾を飲んで見守った未曾有の大地震。どのチャンネルを回しても、パニック映画さながらの光景を映し、この世の終わりを突きつけた。

 あれから丸一年以上が経ち、町の復興に迫ったテレビ番組で観たゴーストタウン然とした街の商店街。それとここはよく似ていた。

 理由がどうであれ、人がいなくなった後に残された建物というのは、なぜにこうも寂しく佇むのか。

 当然のようにシャッターは閉まっていて、各店舗のテントはすべてべろべろに裂け放題だった。一体いつからそこにあるのかわからない、変色した木箱の山。野良猫の寝床になっているのか、Vの字に割れた発泡スチロールの箱の底は茶色い斑点で汚れていた。

 進むたびに自分の足音だけが虚しく響き、物陰に潜む得体の知れないものを想像して背筋が粟立つ。

 決して怖がりではなかった。そうでなければ事故物件マニアとしてサークルなど立ち上げない。

 それなのに今日の自分はなぜだか闇に敏感になっている。自分自身、笑ってしまいそうなくらい恐れていた。

 わかっている。龍太郎だ。

 あいつの存在が心を不安定にしているのだ。

 人は無意識に、闇に魅せられるという。今さらになってこの朽ちた商店街に足を踏み入れたことに後悔しはじめていた。

 さらに商店街を進む。数十メートル――50~70メートルくらいだろうか。出口は見えている。足音は虚しさを増し、畏れを誘う。

 明瞭な光を求めてふと上を見上げた。

 星や月の光を期待したが、曇っているらしく求めた光は届かなかった。

 その代わりにこちらもべろべろに破れ、みすぼらしい着物のようになったアーケードの屋根が見える。ここでやっと商店街に入ったことにちゃんと後悔した。

 やはりここは廃墟だ。生きているものなどどこにもない。屍の商店街。かつて活気に溢れていただろうこの場所には、もはやその名残りはない。あるのは白骨化した死体のような遺物だけ。

 それを自覚した瞬間、自分が死の中にぽつんと入り込んでしまった感覚に陥った。

 何をやっているのだ俺は。早く出てしまおう。

 早歩きで出口に続く道を歩く。さっさと家に帰って、ウィスキーを呷って眠ってしまおう。風呂もシャワーも明日でいい。とにかく、今は温かい家が恋しかった。

 やけに出口までが遠く感じる。じれったさが無性に気持ちを焦らせた。

 本当に気まぐれだったのだろうか。

 無意識に過ぎる思いが上半身をぶるりと震わせた。

 バカか。気まぐれでなければなんだというんだ。無理に笑おうとするが口元は固まったまま動かなかった。出口はまだ近づかない。

「カミオカさん」

 それはきっと幻聴だった。そうに違いない。こんなところで、名前を呼ばれるはずがないからだ。

 聞こえていない。声などしていない。すべて幻聴。不安な心が聴かせた、実際にはない声。そうに決まっている。

「カミオカさん、待ってください」

 現実と書かれた金属バットで頭をぶん殴られた気分だった。

 幻聴とかそんなレベルではなく、はっきりとその声を捉えたのだ。

 声だけではない。間違いなく、名を呼ばれた。「カミオカさん」と。そして、もっとも認めたくない現実は、呼ばれたこと以上にその声だ。散々、このところ聞いた声。

「わかりますか。田原です」

「…………」

 言葉がでなかった。

「『龍太郎』という名前……気に入ってはいるんですが、どうも僕には恰好良すぎる気がしません? いくら一国の主からちょうだいしたとはいえ呼ばれると少し恥ずかしいです。今から改名する気は毛頭ありませんが、どうせならヤベオカなんかがよかったな。面白いんですよ」

「だったら龍太郎は文句なしのネーミングじゃないか。ラジオには関係ないが、話術には高い評価があるし、なによりベテランだ」

「そうなんですか? よくわかりませんが、カミオカさんが言うならそうなんでしょう」

 龍太郎は興味を失くしたのか、まあいいか、とそっけなく締めた。

 会うはずのない場所で、会うはずのない男と会った。こんな時、なんというべきなのだろう。

『おう、偶然だな』か?

『なんでお前がここにいる!』か?

『近寄るな』のほうがいいか?

 頭の中で色んな言葉がぐるぐると回る。なのにどれひとつとして舌に乗らない。

「こんばんは。お疲れ様です」

 足音が忍び寄ってくる。目指している出口にその姿がないということは、背後からやってきているのだ。ということは、走ればここから出られる。

 いや、待て。

 商店街から出たからなんだというのだ。迷宮に入り込んだのならまだしも、ただの一本道の廃商店街。ここから飛び出したところで、龍太郎が足を止めるはずはない。

 そもそもなぜ龍太郎を恐れる? 酒井からあんな話を聞き、勝手に想像を膨らませたからか? そのせいで神経が過敏になっているに過ぎないのか。だがそのせいで龍太郎の考えていることがわからなくなったのも事実。

 ならば、なぜ龍太郎はここにいる。偶然にしては出来過ぎているし、仮に偶然だとすればさらに怖ろしいではないか。偶然、こんなところで会うことの方が現実味がない。

「酒井さんと今日会うって聞いていたので、尾行(ルビ/つ)けてきました」

「尾行けてきた? どういうことだ」

「ようやく喋ってくれたと思ったら、関心のあることだけですか。カミオカさんらしいですね」

 足音が近づく。それに合わせてこちらも前に進んだ。距離を縮めさせるわけにはいかない。本能が告げている。龍太郎――いや、奴から離れろ、と。

「なに聞きました?」

「お前が勝手に酒井をそそのかして内見してるってことだよ」

「カミオカさんにわかるようにしたでしょう。バレないようにしようと思えばもっと周到にしてますし。気付いてるんでしょ」

「どういうつもりだ。何を考えている」

「カミオカさんのことが好きなんですよ。僕。だから、もっと知りたくって」

「好き? どういう意味か知らんが君にはモニカがいるだろう」

「ああ、モニカのこと? まあ、アレはアレでまたどうにかしますよ。そんなことより聞いてくださいよ。僕がカミオカさんを好きな理由」

「是非聞かせてもらいたいね」

「声がね、似てるんです」

「……似てる? 誰に」

 慎重に答える。いつ、突然、襲ってくるかわからない。そうなればこちらも全力で逃げなければ。しかし、走るのには自信がない。

 逃げる? なぜ。どうして龍太郎から逃げる必要がある。姿が見えないだけでこうも怖ろしく感じるものなのか。

 胸騒ぎ。第六感。虫の知らせ。

 根拠のない予感というものは色々な呼ばれ方をしてきた。それは根拠がないのではなく、生命信号が危険を察知し、点滅している状況。鼓動の速さと、噴き出すほどに体温を奪ってゆく汗が警告を発しているというのに、それでもまだ信じられなかった。自分の直感を。

「僕のね……、ヤベって知ってます?」

「ヤベ? 誰のことだ」

 耳元すぐそばの声に、鼓膜がびりびりと震えた。反射的に耳を塞ぎ後ろを振り返る。

 龍太郎と鼻先数センチの距離で目が合った。龍太郎は、すでにすぐ後ろまで来ていたのだ。

「ちょうだい! その声! その臭い!」

「ちょ、まっ」




モニカ



『ネクロマンティック』

 1987年 ドイツ

 監督はユルグ・ブットゲライト。

 死体愛好家の青年ロベルトの偏愛と至福、そして狂気と転落を描いたカルトホラー映画。

 全編通した陰惨な空気感と、直接的なゴア描写、そしてクライマックスで流れる悪い冗談のような朗らかBGM。どれをとっても一級品の倒錯系ムービーである。

 予算の関係からか、チープな死体の中にあって、登場人物の異常さが観ている物を不快と嫌悪感の滝つぼへと叩き落す怪作だ。

「観てはいけない映画ランキング」に常にランクインする今作に、ある種の美徳を感じる者もいる。続編の『ネクロマンティック2』でも異常性愛に拍車をかけている。前作の主人公ロベルトの亡骸を墓から掘り起こし、家に持ち帰ると毎夜ロベルトの屍とのセックスに興じた。やがてモニカは死体ではない本物のロベルトとのセックスを夢見るようになる――。同監督の『死の王』を含めた三作は、『死の三部作』と呼ばれ、一部から熱狂的な支持を得ている。


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