第3話

「君、すごいやつだな」

 5分ほど走った先にあるスーパーの横に併設された公園に僕たちはいた。

 途中、自動販売機で買ってもらったコーヒーを大事に飲みながら、僕は「なにがですか」としらばっくれる。

「突然、規制線をくぐって中に入ろうとするんだ。そんな奴は初めて見たよ」

「そうですか。でも、あの中には死体があるんでしょう。見たいじゃないですか」

「見たいじゃないですか、ってなあ。普通はそう思っても思うだけで行動には移さないんだ。そんなの、俺だってそうだぞ」

「そうなんですか」

 男は楽しそうに声をあげて笑うと、もう少しで逮捕されるところだったなと僕の背を叩く。僕が逮捕されずに済んだのは、あのけたたましい破裂音。あれは男が常備している爆竹だったらしい。

「一瞬気を引くのに便利なんだ。俺は普段ライターでな。やばいところに取材行ったりすることも多いんで、いざという時のために色々持ち歩いてるんだが……こんな風に爆竹使ったのはじめてだな」

 すっかり呼吸も落ち着いた男はうまそうにタバコを吸うと、煙を吐き出すと共にそう話した。

「すみません。助けてもらったんですね、僕」

「まあ、そうだな。助けたんだ、俺が」

 僕の思惑は見事に叶った。計算通りすぎてむしろ気味が悪いくらいだ。

「お前、度胸あるな。面白いよ。なんだか物事に達観している節も見られる。若い時の上岡龍太郎みたいだ」

「カミオカ……なんですか?」

「俺が一番好きな芸人だよ。本名の苗字も一緒なんだ」

「すみません。聞いた事なくて」

 彼は僕の背を叩きながら、気にするなと笑った。

「事故物件っていうんですよね。なんだか面白そうで興味があります」

「そうか。これから流行ると思うぞ。なんてったって、日本はこれから高齢化社会まっしぐらだ。若い人間よりも年寄りの数がどんどん増えていっている。そうなれば厭でも空き家や事故物件が増え、新たな都市伝説が生まれるぞ」

 そう言った後、男は僕に顔を寄せてきた。心臓が止まる。

「ここだけの話、これって狙い目だと思わないか。今から目を付けていればひと儲けできるかもしれんぞ」

 ひと儲け?

 なんの話をしているのかわからないが、男とまた会うためには僕という男に興味を持ってもらわねばならない。

「さっきの物件、実は中に入りたかった理由は別にあるんです」

 やや文脈を断ち切るようにして、男の興味を引くよう含みがちに言った。案の定、男は「別の理由?」と聞き返した。

「それはまたいずれお話しますよ。初対面の人に話せるものでもないので」

「そうかい。じゃあ、是非また聞かせてもらいたいね」

 男は咥えていたタバコを踏み消すと名刺を差し出した。

「こっちは趣味用の名刺でね。小さいが4,5人のサークルをやっている。事故物件にそんなに興味が沸いたなら一度顔を出すといい。歓迎するぜ」

「小林……泰二」

「ああ。サークルのみんなからは『カミオカ』って呼んでもらってる。 ……まぁ、好きに呼んでくれ。もしサークルに興味が沸いたなら、ここに電話してくれ」

 飲み干したコーヒーの缶をくしゃりと片手で潰し、小林――カミオカは去っていった。

 僕はカミオカの声の余韻を楽しみながら、我慢できずにその場で自らを慰めた。

 誰かに見られるかもしれないと思ったが止められなかった。こんな経験は初めてだ。

 あの体格も、ひげを蓄えたワイルドな風貌も、だらしなくせり出した腹肉も、全部が好みだ。あれは絶対に、死んだら臭いぞ。

 翌日、僕は早速名刺にあった番号に電話をした。



「ようこそ! 事故物件ウォッチャーサークル『Owl Night』へ!」

 初めてサークルのミーティングに参加する龍太郎を歓迎の言葉で迎えると、龍太郎は照れ臭そうに身を縮めた。

「じゃあ、さっそくだけど自己紹介よろしく!」

「そうですね……僕は――」

「ちょっと待った!」

 名前を言おうとしたのを止めると、龍太郎は慌てた。さも大失態を犯したかのように口をパクパクさせている姿を見て、場に笑いが起こった。

「大丈夫だよ。君はなにも悪いことなんてしていないから。あのね、言い忘れていたんだけどこのサークルでは俺が名付けたニックネームで呼びあってもらっている。だから自己紹介の前に君のニックネームをつけてあげよう!」

「ニックネームですか?」

「そう。例えば、僕は『カミオカ』。あそこにいるのは『キス』。あのかわいい女の子は『モニカ』だ。他のサークルメンバーもみんな、各々ニックネームを名乗っているんだよ」

 すると彼はサークルメンバーの顔を興味深く見つめた。和やかな雰囲気に多少は安心したのか、張っていた肩の力が抜けるのがわかった。

 目が合ったモニカが人懐っこい笑みで彼に還すと、照れ臭そうにうつむく。ふむ、想定内だ。

「そうだなぁ、君のニックネームは……『龍太郎』でどうかな」

「龍太郎……ですか?」

 自分とは脈絡のないネーミングに、彼は首を傾げている。

 他のサークルメンバーはというと、すっかり慣れた様子で見守っている。

 サークルでは新入りに僕がニックネームを付けるのは慣例行事だった。

「どうしてって顔だな。 よーし、じゃあ理由を教えよう。ずばり橋本龍太郎元総理に目元が似ている!」

「橋本?」

 驚いた龍太郎は、声をひっくり返しながら寝耳に水の様相だった。

「あきらめなよ。カミオカさんに一度命名されたら、どんな名前でもそれで活動しなきゃなんだよ」

 モニカがおかしそうに横から入る。

 龍太郎は複雑そうな表情を浮かべたまま、不承不承受け入れた。

「中には酷いのもいるよね。『ヴァージン』なんて恥ずかしくて言えないから、『ばーさん』ってみんな呼んでるし」

 どっと笑い声が沸き上がった。

「つまり君はそういう意味でもかなりツイてるということだ。よろしくな、龍太郎」

「それじゃあ、僕は『龍太郎』です。まだピンとこないですが、ゆっくり慣れることにします」

 龍太郎はメンバーたちの輪に戻ると、笑顔でモニカが迎えた。

 龍太郎のことはモニカに任せておいて、僕はプロジェクターを起動させる。

「さあ、では今月のテーマは僕の持ち込み企画だ。ずばり『死臭について』。僕が調べ上げた選りすぐりのネタを披露するよ」

 おおっ、と歓声が上がる。龍太郎の目も輝いていた。

 そうだ。その目だよ、その目だ。俄然プレゼンにも力がこもる。

「事故物件といえば『死体』と『死臭』は切って切り離せない。いくら『この部屋で過去に誰かが死んだ』という事実があったとしても、現場でそれを感じることは難しいし、なにしろ僕たちが簡単に事故物件の現場に立ち入るのは困難だ。一般的に、事故物件で『死臭』に触れる機会があるのは『納棺師』、『葬儀屋』、『特殊清掃業者』といったところか。もちろん、警察もその中に含まれるが警察の仕事はさらに広範囲だし、事故物件というより龍太郎らは事件そのものに追従する職業だからな。今回は外させてもらった」

「カミオカさんは死臭を嗅いだことがあるんですか」

 メンバーの『ポラロイド』から質問が飛んだ。それにうなずいてみせ、自らの口元を指さす。

「口臭のキツイ人っているだろう。中には歯が原因の人もいるけど、口臭がキツイ人のほとんどは内臓に問題がある。口が臭いのはそういった消化器官や内臓が弱っている人によく見かけられるわけだ。この中で口臭のキツイ人。もしくはキツイ口臭を嗅いだことがある人いるか」

 笑いが起こる。龍太郎もそわそわした様子で場の空気になじもうと努力しているようだった。

 10人ほどのメンバーを見回すと数人が挙手していた。

「じゃあ、『キャンドル』。君は当然、口が臭い人ってことでいいかな」

 わっと沸きたつ中、キャンドルは自分の口臭を確かめるポーズをとり、さらに沸く。

「私も臭いですが、私よりも臭いのを体験したことがあります。しがないサラリーマンなもんで、毎朝、満員電車に揺られているわけですがぎゅうぎゅうの車内で横にいた方がもう強烈でして……」

「それは災難! でもその臭いはすごかったでしょう」

「ええそれはもう。気絶しそうでした」

 和やかな空気に変わりはないが、キャンドルの話に想像を膨らませたメンバーの数人、特に女性が眉間に皺を寄せ厭そうな表情をしている。

「死臭――特に死後6日ほど経った死体の臭いはそれに似ている。死後一日が経ったあたりから内臓から先に腐敗が進んでいく。この時、当たり前だが生体活動は完全に停止しているわけだから、内臓が悪くなっている人と同じ種類の臭いになるんだな。3日もすればすっかり口臭を全身から醸す死体のできあがりだ。だがお察しの通り、これよりも腐敗の進行が進めば口臭どころじゃない騒ぎになる。死後10日になると全身蛆虫やハサミ虫、エンマ虫だらけで、部屋中孵化した夥しいハエで充満している」

「口臭以上ってどんな感じなんですか」

「まあベースは口臭で、あとは色んな要素が合わさっている。感想もひとそれぞれな部分があるね。脂肪が腐るわけだから激臭の中にも甘さがある。また、老人と比べて若い人間のほうが臭いはキツイ。奈良漬けとかべったら漬けの臭いだっていうやつもいるな」

 数分前まで和やかな雰囲気で包まれていたのに、すっかり静まり返ってしまった。

 それは恐ろしさ云々というより、ただ単純に気持ち悪さに胸やけしているのだろう。

 今は、それでいい。



「ありがとうございます! カミオカさん!」

 興奮冷めやらぬ、といったわかり易い反応で龍太郎は声を荒らげた。

 冷えたビールジョッキを持ち上げたままで笑った。正直、悪い気はしない。

「すごいですね、事故物件というのは! 実は僕、今日までそういうのに詳しくなくって。今回、その本質にはじめて触れた気がします!」

「そうかそうか、そこまで得るものがあったのならお前を連れてきてやった甲斐があったというものだ。感謝してくれよ? 俺に『不動産業に勤める協力的な』友人がいることに」

 はい! と気分のいい返事を聞きながら、持ち上げたままのビールジョッキを傾ける。琥珀色の、世界で一番うまい飲み物が喉を冷やし、言葉にできない爽快感が口から漏れ出た。人に感謝された直後とあっては、感慨もひとしおだ。

 この日、龍太郎とふたりで事故物件を内見してまわった。

 サークルのイベントとして考えていた企画だが、実際に行う前の下見も兼ねてのことだった。

「ひとくちに事故物件と言っても、色んなケースがある。例えば、近隣に暴力団の事務所があったり、風俗街があったり。悪臭のするゴミ処理場なんかもそうだ。それだけじゃない。近所の人間関係や大家の人間性が狂っていたり。そういうものもひっくるめて『事故物件』って呼ぶ。その中でも俺がこだわっているのが狭義の事故物件だ。人死にがあったってやつな」

「2件目に行ったところとか、まだ臭いが残ってましたね」

「おお、わかるか。やっぱりお前は見所があるよ。中々初見じゃあ、あれに気付かない。生活していてはじめてそれがおかしな臭いだって気付くレベルだ。あれはな、あそこで死んだ前の住民の体液が床下にまで染み出ていて、それが臭っている。見た目ではわからないが、未熟な業者に当たったんだろうよ」

「ということは、見つかった時の死体はドロドロだったってことですか」

「間違いないな。少なくとも死後2週間は経っていたんだろう。そうでないと臭いが残るほど体液が染み出たりしない」

 そう話しながら訪問した部屋を思い浮かべ、いささか食欲が減退するのを感じた。おかげでさっきよりビールが苦い。

「へぇ……。発見されたときはもっと強烈だったんでしょうね」

「そりゃあすごいって聞くぞ。目も開けてられないくらいだって。大量のハエや、蛆、エンマ虫で菌もヤバイ。ゴーグルとマスクなしじゃ十秒もその場に立っていられないらしい」

 これ以上話すと他の客から妙な目で見られ、最悪店から苦情を言われかねない。

 しかし幸い、こちらの話に耳を傾けていそうな客はいないようだ。

 安心して目線を戻すと、口をぽかんと開けて恍惚な表情をしている龍太郎にぎょっとなった。

「なんて顔してるんだ」

「え? ああ……すみません。つい思い出しちゃって。僕ね、好きなんですよ。なんですか、死臭っていうんですかね」

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