第4話
「死臭が好きって」
思わず吹き出してしまった。
たかだかあれしきの臭いを嗅いだだけで死臭にまみれた気になっている。だがそれもかわいらしく思えてくるから不思議だ。
龍太郎もサークルメンバーの連中と同じだ。非日常に少し触れただけで、『自分は特別だ』と勘違いする。
実際にはそれはただの思い込みで、地下鉄や街中ですれ違う通行人となんら変わらない。普通の人だ。
だがそれを否定すべきではない。見守ってやるだけだ。
「あの、カミオカさん。僕、エアコンの取り付け工事の仕事をしているんですが」
唐突に話題を変えられ、ああ、と身のない返事をしてしまった。
「仕事柄、お客さんの家にお邪魔することが多いんです。そこで時々、妙なものが視えるんです。誰に言っても信じてもらえないので、黙っていたんですが。しかし、僕がそもそも『事故物件』に興味を持ったのもこれがきっかけでして」
「おいおい、やめてくれよ。『寂しそうな女が立ってる』とか、『人の顔が浮かんでる』とか。事故物件は好きだがオカルトやホラーは専門じゃないぜ」
「違いますよ。そんなありもしない曖昧なものじゃないです。僕が視えるのは、虫――。黒い甲虫なんです」
「黒い甲虫? ゴキブリか」
「いえ、僕も最初はそうだと思っていたんですが……。どうも違うようで」
おかしなことを言いだしたな、とは思ったがもともとこの男はおかしなやつだ。
前にも子供を殺したとか、若い女を殺したとか、痛々しい冗談を真顔で言っていた。
それを知ってサークルに誘ってやったのだから、付き合わない理由はない。
気付けば身を乗り出して聞く姿勢を作っていた。
「色々な家でその虫を視るんです。けれど、よく考えてみれば一軒家ではほとんど見ないかも。視る時は大体、マンションとか築年数の古い家が多いです。虫は決まって、部屋の壁を這っていて……毎回、住人はそれに気付いていない。僕だけに視えているようでした」
聞けば、虫のいる家といない家とがあるという。
「ふぅん……。その虫は視えるだけかね? 実際に触れたり、襲ってきたりとかしてこないのか」
「僕の出身は千葉の田舎で、山が近いせいもあって虫には免疫はありますが、特別好きでもないですし。わざわざ触ったりしようとは思いませんよ。それに襲われるどころか、飛んでるところも見たことがないです」
龍太郎が視える虫はそんな理由から、物理的に実際そこに存在するのかどうかはわからないと言った。それに話のトーンから、龍太郎自身がそれほど虫の存在を重要と捉えていないのかもしれない。
要は、「そこにいようがいまいがどうでもいい」ことなのだ。
だが聞かされたこちらは興味を焚きつけられてしまった。
「じゃあ、存在するかどうかはこの際置いておいて、だな。その虫の特徴みたいなのはあるか」
「特徴ですか。そうですね、形はなんだかカナブンみたいです。真っ黒なカナブン、みたいな。前足にギザギザがあって……あ、頭にこんな目みたいな触覚が二本飛び出ています」
左右の手の人差し指を立てて曲げると、こめかみの両側にあてがってみせた。
「もしかしてそれはエンマ虫じゃないか」
ふと頭の中のイメージとカッチリとはまる小気味よさがあった。
エンマ虫の名前を初めて聞いたらしい龍太郎に、それがどんな虫かを説明してやる。
「まさしく黒い甲虫で、主に糞や動物の死体などに集まってくる虫さ」
なぜ「エンマ虫」というのか諸説あるが、とりあえず「閻魔様の帽子の形に似ているから」というお気に入りの説を紹介してやった。
「本当ですか? でも、虫を視た時に変な臭いもしませんでしたよ。当然、死体や汚物みたいなのもありません。なにしろ普通のリビングだったり寝室ですから。そんなところにそんなのがあったらおかしいですし」
「さあね。俺にはわからないよ。しかし、君から聞く虫の特徴からするにおそらくエンマ虫なんじゃないかと思っただけだ」
納得がいかないのか、龍太郎は少し考え込むと口を開かなくなった。
次になにを語るのか期待しながら、ビールを飲む。苦味は気にならなくなっていた。
「やっぱりそうなのかな」
枝豆を頼もうと店員を呼んだところで、不意につぶやいた。
危うく聞き逃しそうになったが、辛うじて「なにが?」と聞き返すことができた。
「事故物件に興味をもつきっかけになったのがこの虫だって、最初に言いましたよね。それって実はお客さんに言われたことが条件なんじゃないかって」
「条件?」
「はい。お客さんに言われたこと、というのは『この部屋は事故物件だ』ってことなんです」
思わず声がひっくり返ってしまった。自分にしか視えない虫の話から、まさか事故物件がでてくるとは予想外だった。覚えたばかりの言葉を使いたがっている。
「話を聞いてもらった職場の先輩から、実はそういう部屋はいくつもある。というのを聞いて、遡って思い返してみました。そうすると確かに、虫の視えた部屋のお客さんで時々変なことを言う人がいたなぁって」
エピソードを聞くと、なるほどどの住人も暗に「訳アリ物件」……つまり、事故物件を示唆しているように思う。
「カミオカさんもそう思いますか。僕も同じです。だけどどうも確信が持てなくて。というのも、結局虫が視える部屋が事故物件なのかもしれないと考えたところで、それを確かめる術がないじゃないですか。だから、僕は自分なりに色々調べてみたんです」
調べていく中で龍太郎は「臭い」を頼りにした。自分の足でいくつもの物件を見て回ったが、それを引き当てるのは至難の業だ。現実的ではない。
「でも残念なことに、虫は視えませんでした」
「事故物件にエンマ虫が視えるというのは間違っていたのか」
「いえ、そうではなくって、僕が虫を視るのは決まって『部屋の中』なんです。いくら外から覗いたところで視えるわけがありません」
――なるほど。それであの時、あそこにいたのか。
赤い回転灯がチカチカと警戒を示す夜の帳に、目を爛々と輝かせてそわつく姿がまぶたに浮かぶ。あの時はただの野次馬根性丸出しのガキかと思ったが、こんな変わり者だったとは。
「それでカミオカさんのサークルに入れば、もっと効率的に事故物件へ関われるんじゃないかって」
「堂々と下心を吐くじゃないか」
苦笑してちくりと皮肉を刺すが、本人は自覚していないらしい。表情は変わっていなかった。
「……ん? ちょっと待て。じゃあ、今日の内見ツアー」
「ええ。僕には願ってもない話でした」
内見ツアーは不動産会社に勤める友人に無理を言って通した企画だ。初めての試みなので、下見(ルビ/プレツアー)は信用に足る人間を連れて行きたかった。
だから物知り顔でおしゃべりな常連より、新入のこいつを連れて行ったのだ。
……『事故物件で虫が視える』だと? 面白い話をするじゃないか。
それを聞かないわけにはいかない。
「それで、どうだったんだ。いたのか、『虫』は」
「はい。いました。全部屋に」
そう言った龍太郎の顔は紅潮し、笑いをかみ殺していた。上手く隠しているつもりらしいが、端々から笑みがこぼれている。複雑で不気味な表情だった。
「それで、気が済んじまったかい?」
「いえ。むしろ逆です。僕はもっと、知りたい。もっともっと、事故物件……人が死んだ部屋に触れたいです」
「ははは。やっぱり君は変人だ」
ビールを飲み干す。ジョッキの底を叩き、店員を呼ぼうとした時、不意に手首を強い力で掴まれた。
驚いて顔を上げると、とろん、とした複雑な瞳で龍太郎がみつめてくる。
「カミオカさん、これからは師匠と呼ばせてください」
「唐突だな! やめろよ、師匠なんて。『事故物件の師弟関係』なんて不気味を通り越して怖いだろ。……どうしてもというのなら思うだけにしてくれ」
「好きに呼べって、いつか言ったじゃないですか。これからもどうか、色々教えてください!」
いくらなんでも飲みすぎだ。
苦笑いを噛み殺しながら、ビールジョッキと向かい合っているグラスを見た。
グラスに入っていたのはウーロン茶だった。
◇
「なんで龍太郎は事故物件に興味を持ったの」
サークルメンバーでにぎわうテーブルに戻ると、いつのまにか龍太郎の正面の席を陣取ったモニカがいた。
龍太郎が椅子につくなり、明るい表情で質問する。
その露骨な媚びが不快だった。
「それは……なんというか、なんとなく好きで」
龍太郎は理由を話したがらなかった。
「一緒だね。私もなんとなくネットとかテレビとかで興味があって。それで調べてみたらこのサークルの存在を知ってさ。だから、サークルの中では結構ライトな方なんだ」
「そうなんだ。安心したよ」
「それにほら……ここの人たちって、結構ガチな人が多いでしょ? ちょっと最近居場所がないな、って思ってて」
そうなんだ……と困ったように龍太郎が答える。
内緒話のつもりだろうが、全部聞こえている。なにがガチな人が多い、だ。本当の意味で事故物件の匂いに魅せられている人間など、このサークルにいるものか。
居酒屋のカウンターに取り付けられているテレビをふと見上げると、都内で行方不明になっている女児のニュースを報じているところだった。失踪から一週間、とアナウンサーが原稿を読んでいる。
……もう一週間か。
「カミオカさーん。カミオカさんが事故物件にハマったきっかけってなんだったんすか」
ひとつ離れたテーブルから、ビール瓶を片手にサークルメンバーの『ララバイ』がわざわざやってきた。
まだ飲み物が残っているからとビールを断る。
少女の失踪事件と過去の思い出が重なり、苦笑しながら質問に答えた。
「きっかけかぁ。そうだな、昔、住んでる部屋の近所で殺人事件があってね。近くを通りがかった時にパトカーと警察がマンションの前で慌ただしくしていて。なにがあったかは知らなかったけど、なんだかピーンときたんだ。それでなんとか中に入れないかって隙を見計らってて――」
「げえ、マジすか! 事件現場で警察が捜査している中に入ろうとしてたって、正気じゃないですよ!」
「まあ、今考えるとそうだけどな。けどあの時は、無我夢中だった。どうしても事件現場の中に入りたくてうずうずしていた。あまりに挙動不審だったのか、警察が職務質問してきてね。恥ずかしいんだけど、警察に話しかけられたことにびっくりしちゃって固まっちゃったんだよ」
そこまで語ったところでふとテーブルを見ると、龍太郎とモニカはこっちの話をそっちのけで盛り上がっている。嘆息し、向き直ると雑然としていた空気が静まり返っていた。メンバーたちはよほど興味があったのか、いつのまにか話に聞き入っていた。
「そう注目するなよ。緊張するじゃないか、怪談話してるわけじゃないんだから」
「ええっ。だってカミオカさんって謎が多いじゃないですか! 事故物件のことだけじゃなくて、色んな事について博識だし、顔も広い。けれど何者かわからないっていう」
「何者かわからない? よく言うよ。ライターだって何度も言ってるだろ」
「けど、どこでどんな記事書いてるかとか教えてくんないじゃん!」
「あのな、物書きって言う人種は知っている人間に自分の書いたものなんて読ませたくないものなの。オナニー見られるより恥ずかしいんだぜ」
女性の悲鳴。次に誰かが「カミオカさんもオナニーするんですか」と吃驚する。
物のたとえだと弁解するも彼女らは聞く耳は持たない。これ以上は不毛だと諦めることにした。
そこから自然と話題は下世話な内容になり、自分のエピソードはひと区切りさせた。
内見ツアーは成功だったといえる。
なにしろ正真正銘、本当の事故物件であり、不動産屋・酒井が持ち込んだ当時の現場写真とエピソードのおかげで非日常にトリップできた。
最初の物件。
現在貸しに出されているのできっちりとクリーニングが済んでいるから、臭いは完全に消えている。
だがそれらを身近に感じることで、どこからか死臭が漂ってくるような感覚になるのだ。
それは同行したメンバーも同じだったらしく、しきりに鼻を気にしてこすっていた。
「最近のトレンドは硫化水素でして。なんでもネットをきっかけに爆発的に流行った方法でね、いやあ、ネットってのは怖いねえ。どこの誰が言いだしたかわからない『苦しまずに逝ける』って言葉を真に受けちゃうんだから。実際はのたうち回るような激痛を味わった挙句にもがき苦しんで死ぬっていうじゃない。やだねえ、やだやだ」
酒井は普段から酔ったように喋る変わった男だった。スーツにハンチング帽といった、ややちぐはぐな恰好と、目玉が埋もれてしまっているのではと思うような糸目が特徴で、見た者に印象を残す。
ここいらの不動産界で知れた顔らしく、販売実績もこの風貌にして悪くないという。あくまで「本人曰く」ではあるが。
「カミオカさん、あの人はなんの話をしているんですか」
龍太郎が耳打ちをしてくる。思っているよりも勘が鈍いのか? 呆れ顔を表面に滲ませないよう「自殺の話だよ」と教えてやった。
「誰でも買えるお手軽な薬品で即席硫化水素が作れるってんで、『お手軽に死にたいやつら』がこぞってその方法で死んだってわけです。馬鹿だねえ、『楽に死ねる方法』なんて。生きてる方がよっぽど楽勝なのに」
途中からひとりごちるような内容になりながら、綺麗にフローリングされたリビングの中央で立ち止まると、かかとで床を叩いた。紺のスーツに不釣り合いな、マリリン・モンローの刺繍がされた靴下が視界に存在感を示している。
「ここで死んだんでさあ。死因はまさしく『硫化水素による自殺』。トレンドの死に方で死んだ無個性な仏さん。死んでいいことなんて万にひとつもないのにねえ。現にここに大迷惑している不動産屋さんがいる。みなさんをこうやって不謹慎ななツアーと称してご案内しているわけですがあ、実際のところちゃんと入居して家賃を頂いているほうが何倍もいい。いわば、仕方なく……ってやつです」
そう言って酒井はこちらを見た。「仕方なく」という部分に関して、「それはあんたに言ってんですぜ」というメッセージなのだ。
酒井が持参したタブレットを操作しながら、「こんなの、本当に見たいですかあ?」と苦笑いする。
「なんなんですか」
「ここで死んだ仏様ですよ。発見時のものです」
うげえっ、と驚愕と賤(いや)しさの混ざった声を上げた。そして、居住者が死んだ現場とされる足元から離れるのかと思いきや、3人は蛆に群がる閻魔虫のように酒井のもとへ集まる。
酒井が見せている画像には見覚えがあるが、ここで突っ立っていても退屈なので3人の肩と肩の隙間から覗きこんだ。
画面には、池の藻のように汚らしい緑色に肌を染めた男の遺体があった。黒く変色した血が口と鼻から垂れ流し、白濁した眼は天井を見つめている。露出している緑色の肌には血管が紫の筋となって蜘蛛の巣のようだった。
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