第2話

「それはたまたま僕がそういうものに怖気付かないタイプだからだろう。もしもそんなのにめっぽう弱かったらどうするんだ。君が言った谷間だのって話と変わらない」

「真面目だねぇ、相変わらず田原さんは。もしかして男が好きだったりして? それはさておき、この仕事、『訳アリ物件』には割と縁のある話なんだぜ」

 縁? と聞き返した僕に、須藤はコーヒーの缶を両手で潰しながら自分にも同じような経験があると語った。

「いつだったかなぁ。そんな前じゃない話だけどさ、俺たちの仕事って見も知らない他人様の部屋にお邪魔することが多いじゃない? そうすりゃ厭でもあるのよ。『おかしな物件』っていうの」

「おかしな物件?」

「そうそう。あるだろ、田原さんも。例えば、ボロッちいマンションなのにやたらとピカピカの部屋。そういう部屋に限って設備もやたらと豪華で、洗濯機や冷蔵庫、テレビまでついてんの。全部屋そうなのかと思えば全然そんなことなくてさ。他の部屋は外観どおりボロッちいわけ。不自然だろ?」

 確かに。とうなずくのを見て、須藤は続けた。

「他にもある。明らかに住民が住んでない綺麗なマンションとか、田原さんが遭遇したような、やたらといい部屋なのに相場よりもかなり安かったり。なんも考えなかったら気付かないようなことでも、『もしかして』って意識して見るだけで全然違う。それにな、訳アリ物件……正確には『瑕疵物件』っていうらしいけど、なんらかの問題がある物件ってのは事前に不動産会社から告知がされる」

 そこまで言って須藤は話を切った。

 唐突に止まった話に首を傾げていると、須藤が含み笑いを浮かべてこちらを見つめているのに気付く。

「わかんないかな。つまりさ、俺や田原さんが出会う『訳アリ物件に住んでいる住民』っていうのは、みんな自分が訳アリ物件に住んでることを知っているってことさ」

 ぞわっ、と背中を生暖かい風が撫でる。それは少なからずとも怖気の一種だろう。

「そういう連中は決まって自分が訳アリ物件に住んでるってことを自慢したがるもんさ。そりゃそうだ。黙ってたら俺たちが気付くことなんてない。あいつら、言いたくて仕方がないんだ。だから隙を見つけてはすぐに口にしたがる。中には本当に『安い』という理由だけで住んでいる住民もいるが、最近はテレビや雑誌の影響もあって物好きがわざわざ『訳アリ物件目当て』で住んだりもしている。前者は無害だけど、後者は危ねえ危ねえ。そんなやつらからすりゃ、俺たちのような工事業者はカモネギさ。だって招いてもねえのにご自慢の部屋にいらっしゃってくれるんだから」

 そりゃあ話さないわけないわな、と須藤はぺしゃんこにつぶした缶をゴミ箱に投げ入れた。

 見事なコントロールで、缶がゴミ箱に入るのを見届けると満足そうに須藤はしたり顔を見せた。

「須藤は、そういう部屋で……なんていうか、虫を見たことがあるかい」

「虫? なんの?」

「わからないけど、黒くて堅そうな虫さ。ゴキブリとかじゃない。いつも壁を這っているんだ」

 須藤はあまり考える素振りも見せず、さあ、と首を傾げた。

 自分の言いたいことを話し終えたからか、僕の話にはあまり興味を示さない。やはり人にあまり虫の話をするべきではないな、と小さく後悔する。

「そんなわけで今後も曰く付きの部屋には遭遇すると思うぜ」

 須藤はそう言うとフォークリフトから飛び降り、軽快な足取りでセンターの外へと消えた。

 ――そういえば、前に大学生の現場の時……。

 6月の後半。詳しい日にちは覚えていない。

 だがまだ忙しさが本格化する前の6月。とある現場で、須藤が言ったようなアンバランスな印象の現場に行ったことを思い出した。

 伝票には簡単な客のデータが記載されていて、現場がマンションか、一軒家か、賃貸なのか持ち家なのか、ひとり暮らしか、家族暮らしかがわかる。

 客はひとり暮らしでマンション住まいだった。

 だが現場についてみて、思わず口が空いた。

 マンションは都内の一等地。見るからに築年数も若く、ホテルと見間違うほど綺麗な外観でフロントにはコンシュルジュがいる。

 賃貸ではあるが、とても学生がひとりで暮らせるような物件には見えなかった。

 大方、資産家や企業の役員を親に持つ学生かとあたりを付けたものの、いざ訪問してみるとお世辞にもそんな風には見えない普通の優男が住んでいたのだ。

 外観と違わず豪奢な室内に思わず感嘆の声を上げた時、住民の学生はこう言った。

「本当、運がよかったんです。2年間だけですけど、訳アリってことで他の部屋の数分の一の家賃で住まわせてくれるって。それでも自分には無理してる金額なんですけど、これ逃したら絶対こんなところに住めないって思って」

 揚々と語る学生は話の節々に「訳アリ」という言葉を使っていた。

 なんでも、兄の友人が不動産会社に勤めているらしく、彼からこの「訳アリ物件」を勧められたのだそうだ。詳細はわからないが、話によると学生の男が2年間住んだあと、次に入った住民には従来通りの家賃を求めるらしい。

 須藤の言う通り、この時も学生の男は聞いていもいないのにベラベラ喋っていた。

「訳アリ物件」と直接的な言葉を使っていなかったので、今の今まで忘れていた。

 その部屋でも黒い虫を視た。エアコンを取り付ける部屋ではなかったから助かったが、この現場にいた虫の数はすごい量だったのを覚えている。

 壁一面、隙間を見つけることが難しいほどの夥しい虫。この時、僕は畏怖の念よりも一種の美しさを感じた。

 よく思い返してみれば、あの虫のことを本当の意味で意識し始めたのはこの一件からかもしれない。



 猛暑はその日をピークに、なだらかな下り坂を滑るようにして、過ごしやすい日々が続いた。

 冷夏とまではいかないまでも、例年より暑さが落ち着くのが早いと天気予報士が伝えていた。

 僕はラジオをかけ流し、スティック状に切った赤いパプリカでツナ缶の中身をすくって齧る。時間にはまだ余裕がある。

 この部屋は電気を点けていてもどこか薄暗い。古いからか埃やカビの臭いが部屋中を漂っている。時折、なにか気が紛れる置物でも飾ろうかと考えることもあるが、なんだかんだで今は落ち着いている。

 ラジオを好んで聞いた。話が面白いパーソナリティの番組が好きで、リクエスト曲がメインの番組は聴かない。部屋にいるときはいつもかけ流していた。

 番組の合間のニュースでは、去年の地震から丸一年が経過したと告げていた。復興はあまり進んでいないらしい。

 僕は目で見えるものが苦手だ。だから、テレビも見ない。本も読まない。映画やゲームだってしない。僕にとってはどれも生活に邪魔なものだ。

 しかし、無音は耐えられない。常に誰かが喋っているのを聞き、電波の向こうに人の気配を感じる。そうしていれば、孤独でなくていられる。あとはそう……臭いだ。無臭は無音よりもそれを凌駕する。

 顔も見えない赤の他人のラジオパーソナリティーの声に淡い恋心を抱いた。

 仕事も日を追うごとに減り、普段の年よりも早く繫忙期が過ぎた。まわりの業者仲間たちは、思うよりも早く収縮する現状に焦り、いかに仕事の件数を稼ぐかに躍起になっている。まるで収穫を急ぐ農夫のようだ。

 思えば、須藤とはあれから会っていないが、やつはどうなのだろう。同じように慌てているのだろうか。それとも、我関せずを決め込み、この状況すら楽しんでいるのだろうか。僕にはわからない。




カミオカ





 僕とカミオカとの出会いは、運命的だと言ってよかった。

 ラジオしか聞かない僕は、毎日お決まりのチャンネルを垂れ流し、そのチャンネルの番組、全行程をそらで言えるほど生活の一部になっていた。

 特にお気に入りのなのはANN(オールナイトニッポン)。木曜日のナインティナインがパーソナリティを務める回が特に好きだった。

 ほとんどの時間、家にいる時にかけているラジオはかけ流しだが、そのパーソナリティの番組だけはながら聴きではなく、それだけに専念した。やがてナインティナインの回を録音したテープばかり、繰り返し聴くようになっていた。この夜は木曜日。ANNを生で聞いていた。

 いつしか彼らの声、特に矢部に憧れるようになった。好みの声だったからだ。

 うるさい夜だった。しきりにパトカーのサイレンがあちこちから響き、チカチカと明滅する赤い光が目障りで、ラジオに集中できない。

 仕方なくイヤホンを差し、ラジオの前で聴いているとまたも不測の事態が僕の邪魔をする。

 ラジオパーソナリティの岡村が、猿岩石の話をしていた時、突然、報道センターのアナウンサーに音声が切り替わり、ニュースを読み上げた。

『番組の途中ですが速報です。東京都S区あるアパートの一室から複数の子供の遺体が発見されました。発見されたのはいずれも7歳から12歳前後の子供の遺体で、都内複数で行方がわからなくなっていた女児の疑いがもたれています。別件で逮捕された男が『自宅に死体を置いている。捨てたいが捨てられずに困っている』と事件を仄めかす供述をしたため、警察が男の自宅を捜索したところ次々に死体が発見されたということです。警察は発見された遺体の身元確認を急いでいます』

 ……ん? 死体?

 そういえばうちの郵便受けにも情報提供を呼び掛けるチラシが入っていたことがある。確か、この辺で子供がいなくなったという内容のものだった。

 運動会の時のものか、紅白帽をかぶったおさげの女の子が満面の笑みでピースしている写真と、名前といなくなった日時、それに情報提供先の電話番号が書いてあった。

 手書きで書いたらしいチラシは読みにくく、真面目に探す気があるのかと思ったものだ。子供なんてまた産めばいいものを、ひとりいなくなったくらいで大げさ極まりない。

 そういった憤りもあって、頭の片隅で覚えていた。今、ラジオで言っていた「死体が発見された家」がその女児に関連するものだとしたら……。

 ……そうか。こどもなら簡単に殺せそうだ。幼い子供の臭いは未体験だけに想像するだけで心が躍った。……待てよ。まさか。

 僕は台所の小窓を開けてパトカーの停まっている場所を見た。すぐ近くだ。

 しかも、こんな道幅の狭い住宅街にもかかわらず駆けつけたパトカーの数は一台や二台ではない。

 俄然、僕の中で信ぴょう性が高まる。もしかすると、本当にあれかもしれない。

 気が付くと部屋を飛び出していた。鍵をかけたかどうかもわからないほど、興奮していた。

 ラジオで言っていた通りのアパート。この辺りは大学が近いこともあり、ひとり暮らし用の物件が多い。質より安さが優先されるため、築年数が古いアパートやマンションが多いのが特徴だ。

 事件現場は、その中にあって比較的、新しいワンルームマンションだった。昭和然としたアパート、マンションに囲まれるようにして、淡いグリーンの外壁がやけに浮いている。

 そこに何台ものパトカーが停まり、黄色いテープで囲まれている。何人もの警官が部外者が入ってこられないよう門番のように立っていた。

「あの、なにがあったんですか」

 すでに現場はやじ馬でいっぱいだった。その中のひとりに訊ねるとその人物は声を潜めて僕に耳打ちする。

「いやあ、実はね子供の死体がいくつも上がったらしい。なんでも数か月前から問題になっている連続女児失踪事件と関係してるとか」

 その瞬間、内容そっちのけで眩暈がしそうになった。

 なぜならその男の声がナインティナインの矢部とそっくりな、僕のツボにハマるセクシーな声質だったからだ。

 しかも、その美しい声が耳のすぐそばでしている。瞬時に血が沸騰し、下腹部が反応するのがわかった。

 正直、見てくれは悪い。パンパンにむくれた頬に乗っかるメガネのフレーム。メッシュベストからはみ出すようにせり出した腹。脂でギトつく額が夜でも光っている。唯一、もうもうと蓄えた髭だけは許せた。

「しかもね、ここだけの話……元々ここって業界じゃ有名な事故物件だったんだ」

 顔を見ずともにやり、と笑ったのがわかった。目をつむっていてもこの男の表情が手に取るようにわかる。まさに運命的な出会いだ。

 僕はこの人の声を聴くのが一度限りだというのが厭だった。もっと会いたい。もっとこの声を聴きたい。もっと一緒にいたい。

 これはまさにひと目惚れ……いや、ひと耳惚れだ。

「事故物件……。そういうのがあるんですか。それってどういうものなんですか」

「ん? ああ、そうか。世間にはあんまり浸透していないからな。いわゆる『住居者が変死した物件』だ。変死と言えばおどろしく聞こえるがな、要はなんらかの理由で人が死んだ部屋だよ」

「へえ。だったらあそこも?」

「そうだ。多重事故物件っていう珍しいパターンのやつだが、それだけにお宝。でも今回の件で間違いなくここは無くなるだろうな。拝めるのは今だけだ」

 僕はこの人と繋る手段がないか振り絞った。もっとも最善策が浮かぶまでなんとかつないでおかなければ。その目的の延長で僕は事故物件というものを初めて知ったのだ。

「おっ、動きがあったな。もうちょっと近づいてみよう」

 男がそう言ったのをきっかけに、僕も横に倣ってついてゆく。そして、黄色い規制線のテープの手前で立ち止まるとカメラを構えた。

「それにしても運がいい。たまたま通りかかった先でこんなお宝物件の世紀の瞬間に立ち会えるなんて」

「運がいいのは僕のほうですよ」

「ん、なにか言ったか」

「いえ、中に死体があるんですよね。確かに少し臭いがします」

「臭い? 俺にはしないが……」

 次の瞬間、男は慌てた様子で「おい!」と叫んだ。僕が規制線をくぐって中に入ろうとしたからだ。すかさず若い警官が飛んでくる。

「ここからは関係者以外立ち入り禁止です! 住民の方ですか?」

「いえ。でも、死体が見つかったんですよね。どんなか見たくて……」

「ちょっと! 部外者は入ってはだめです! わかるでしょう、このテープの意味くらい」

 若い警官が焦った口調で僕が侵入しようとするのを止める。

 他の警官たちはやじ馬を見張っていてこちらの悶着には気付いていないらしい。

「でも、ちょっとだけ……すこしならいいでしょう。なんなら中に入れなくたっていい。近くで臭いを嗅ぐだけでもいいんです」

「いい加減にしてください! それ以上入ってこようとするなら、公務執行妨害で逮捕しますよ!」

「そんな、大げさですよ。死体を見るくらい……」

 若い警官が僕を押さえようと手を前に出したのと同時に、凄まじい破裂音が連続して鳴った。警官がびくん、と肩を震わせ猫のように音のしたほうに顔を上げる。

 他の警官も同様に一斉に注目した。当然、僕自身も何事かと振り返る。その時だ。

 ぐいん、と乱暴に腕を引かれ、あっという間に野次馬の群れから滑るように脱し、引かれるままに走った。

 僕の目の前には肩で息をする体格のいい男の背中があった。

 必死に逃げる振りをして、何度もその背にぶつかる。その度に男の着ていたポケットがいくつもあるベストから汗と洗濯用洗剤の香りがふわりと漂った。

 ……ああ、想定以上だ。想定以上に男は――。

 手の甲にかかった汗を舐める。初恋の味がした。

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