第4話
「っ……」
自然と口から言葉にもならないような音が出た。
シキの目の前に立ち塞がっているのは巨大な熊だった。
体長はシキよりも一回りも二回りも大きく、もし二本足で立ち上がられたら三メートルくらいになるんじゃないかというくらい大きくて、つやつやとした毛並みは暗い森に溶け込んでしまうくらい、黒く、深い。
漆黒とも言えるその闇の中に、二つの瞳がシキを見つめていた。
熊との距離はたったの二歩分。
シキがちょっと足を踏み出せば、手が届いてしまう距離だ。
無論、熊からしたらほとんど動かずとも触れてしまう距離なのだけれど。
その距離間の中で、熊は身動き一つせず、ただ一点を見つめていた。
その視線の先にあるのは、シキの瞳だ。
視線と視線がぶつかる。
それだけで、熊は何もしない。何も動かない。
思わず、シキはたじろいだ。
この熊は何をするつもりなのだろう。
やっぱり、私たちを食べてしまうのだろうか。
ひやりとした汗が首元を流れた。
心臓の鼓動が激しく鳴っているのが聞こえる。
もし、この熊がいきなり襲いかかってきたらどうしよう。
問答無用で食い殺されるほかないのだろうか。
それとも、このままこの熊の瞳から視線を外さなければ、この場から立ち去ってくれるのだろうか。
たしか、野生の熊と遭遇したときはそうした方がいいと、誰かが言っていた気がする。
それとも、私は他の手段を選ばなくてはいけないのだろうか。
絶対に使わないと思っていた、奥の手。
その手段を、私は選ばなくてはならないのだろうか。
シキは恐怖に押しつぶされそうになりながらも、頭の中でいろんな思考を回転させた。
もちろん、視線はそのまま動かさない。
このまま、いつまでもこの時間が続くように思われたが、不意に、熊の方が先に動いた。
ゆっくりと、熊の口が開く。
――ああ。
私はきっと、この大熊に喰われてしまうのだろう。
この旅も終わるのだろう。
エノはどうするだろうか。
私が食べられている間に、逃げてくれるといいな――
一瞬の隙にそんなことを考えたが、瞬く間に一方的な殺戮が始まる――なんてことはなかった。
熊の口が開くと、どこからともなく声が聞こえた。
若い、人間の男のような声だ。
「キミはどうしてこの森に訪れたんだ?」
ゆっくりとした口調だった。
とてもこの熊から発せられたとは思えない声だ。
あまりにもそのギャップと衝撃に、シキは再び立ちすくむ。
すると、その様子を見て、シキの気持ちを感じ取ったのか、熊は笑った。
『熊が笑う』というのはなんとも想像のつかない事だとは思うが、実際、本当に笑っているのだ。
熊は口を開き、若い男の笑い声が聞こえてくる。
「すまない。この姿でいきなり現れたら驚かせてしまうのも無理はない。詫びを申し上げる。他の者は鹿にしているようだが、私は少しばかり用心深いので熊にしているんだよ」
熊はそう言うと、熊の姿のまま一歩後ろに下がる。
すると、突然霧がどんどん濃くなっていき、熊を覆い隠していく。
そして、驚くべき事に、あっという間に霧が晴れると、そこにいたのは大熊ではなく、あのときに見た、一匹の鹿だった。
「……ん? いやいや、よくよく考えたらこの姿でも度肝を抜かれてしまうかな。もうちょっと自然な姿になろうか」
再び鹿の姿がぼやけたかと思うと、今度は人の姿に変わっていた。
人間の若い男だ。さっきの熊のように深い黒髪だが、熊よりはずっと短髪だ。
背丈はそれほど高くないが、全体的にがっしりとした印象を受ける。
そこにいるのは、正真正銘、人間の男だった。
当然だが、声の持ち主を想像すれば、きっとあの熊よりもこの男を想像するほうがたやすいに違いない――と、そう推測できる容姿だった。
しかし、これはある意味、熊と遭遇するよりも危機的な状況のように感じる。
そう、シキの頭が告げている。
この熊は――いや、この男は、姿を変えた。
熊でもあるし、鹿でもあるし、人間でもあるのだ。
これは少なくとも自分たちの知る生物ではないし、安全とも言い切れない。
だって、まるで変幻自在のアヤカシだ。
こんな森の中で、こんな状況下で、こんな化け物と出くわすのが絶体絶命の危機以外の何であるのだろうか。
シキは無理矢理気持ちを落ち着かせながら、口を開いた。
「私がどうして森を訪れたのか。……それは、私が旅の者だからです。各地を巡って旅をしている間に、この森に行き着きました。そして、この森を抜けるために、森を訪れたのです」
ゆっくりとそう答えた。
すると、人間の男……もそれに返事をする。
「旅人だから……か。たしかにそれは、理由になっているのかもしれない。どうして――? に、『旅人だから』と答えるのは何も間違っていないのだろうね。――ただ」
人間の男の形をしたその生き物は続けて言った。
「ただ――それは答えにはならない。理由ではあっても、言い訳さながらってところだね。俺が……いや、俺たちが聞きたいのは、そうではない」
「あの……一体、何を言っているのです? 答えって……私が旅人であるからここを訪れたという理由以外に、何か答えがあるというのですか」
「ある。もちろん、あるさ。キミだって当てもなく旅をしているわけではないだろう。何かしら、求めるもの、探すものがあるからこそ、この世界でいつまでも果てしない旅を続けられるのだろう?」
「求めるもの……」
旅人であるシキにとって、それはたしかにある。
記憶の線を頼りに、いつまでもいつまでも探しているものが。
たとえ、果てしなくても、目的地がどこにあるのかも分からずに、いつまでも旅を続ける理由になり得る『何か』をたしかに持っている。
私は、それを見つけ出さなくちゃならない。
それを見つけるまでは、私は旅を止めない。止められない。
何が何でも、辛くても、途方に暮れそうになっても、私は旅を続ける。
シキは若い男をした『何か』を見つめて言った。
「それを、貴方に言う必要はありますか? 私の目的地を、貴方は見つけ出せますか?」
シキは、これは少し意地の悪い言い方だと思った。
だって、私も知らない目的地を、彼が知っているわけがないからだ。
そう、高を括っていたが、彼は意外な発言をした。
「知っているよ。俺は、キミの目的地を知っている」
「デタラメだわ」
「そんなことはない。キミも知らない目的地が、俺はどこにあるか知っている」
…………。
いや、嘘だ。
私が何を求めているかもわかるはずがないのに、どこにあるか知っているですって? それこそデタラメとしか言いようがないではないか。
シキは男を睨み付けた。
帽子を被っていたので、相手からは自分の表情がよく見えないと思っていたが、男はシキの様子が分かったらしい。男……の姿をした『何か』は、両手を軽く挙げて、小さく「降参降参」と言った。
「別に、今のところはキミを取って食おうなんて思ってないよ。それより、ひとつ話を聞いて欲しい」
「話?」
「ああ。とある化け物たちの話だよ。運命に縛り付けられた、切なくて、悲しくて、とても美しい生き物の話さ」
男はそう言うと、霧の中に埋もれて、姿を歪ませながらゆっくりと話し始めた。
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