第3話

 体中が悲鳴を上げていた。

 いや、身体だけではなく、どちらかと言うと精神的に疲労が溜まっているのかもしれない。

 どちらにせよ、シキはもうくたくただった。


 あれから、シキたちはかなりの時間を使って歩き続けた。

 歩いていたのは、もちろん、どこまでも続いている一本道。

 さっきは同じ場所に戻ってしまったが、あれは気のせいだったのかもしれない。

 似たような形の石なんて沢山あるだろうし、そもそも石の形なんていちいち覚えていない。きっと、エノの勘違いだったのだろう。

 そう、楽観的な気持ちを胸に抱いて、歩き続けていた。


 永遠に。

 いや、恒久的に。


 いくら歩いてもそれは『歩く』という行為を無限に繰り返しているに過ぎず、景色は変わらない、先は見えない、森は終わらない。

 どこまでも果てしない細い道を、延々と歩き続けた。


 目印という目印はなく、唯一あるとしたら、シキが椅子として使った、この小さな石くらいだろうか。


 最初は、いくらでもある石だと思っていたから、何度似たような形の石を通り過ぎても、自分の目を疑い続け、通り過ぎることができた。


 でも、一回、二回、三回、四回……と繰り返すうちに、段々とこの状況を信じるしかなくなり、遂には、とうとう十回目の再会で、シキはドタンと地面にしゃがみ込んでしまった。


 終わらない。でも続いてもいない。

 私は、永遠とも言える無限の迷路に足を踏み入れてしまったのかもしれない。


「もう諦めようよ」


 エノの言葉がなおざりに言っているように聞こえたので、シキは声を荒げて言った。


「諦めるって言ったって、諦めようがないじゃない。どれだけ歩いてもゴールは見えないし。それとも何? ここで干からびるまで立ち止まっていればいいの?」


 自分で口にしてみて、ぞっとした。

 もしかすると、この石は他の旅人にも目印として使われていていたのではないだろうか。

 そして、いまのシキと同じように、いつまでも森を抜けることのないまま、いつまでもいつまでもさまよい続けて、そして最後には、自らもこの森の一部として溶け込んでしまったのではないか。


 すると急に、何度も見ていて慣れていたはずの緑色が、急に恐ろしく見えた。


 シキは身構えた。

 何だかこの森自体が強大な生き物のように見えたのだ。

 まるで旅人を飲み込んで、食べ尽くしてしまう、とてつもなく巨大で逃げようもない、凶悪な怪物モンスターのように。


 すると、シキのその蒼白な表情を見て、一体何があったのだと言わんばかりにきょとんとした表情で、エノは言った。


「いや、諦めてこの森から出てしまえばいいじゃないか」


「……? 一体何を言っているの? さっきから何度も試しているけれど、ちっともこの森を抜ける気配がないじゃない」


 シキが盛んに抗議をしてみるが、エノは何に困っているのか全く分からないという様子だ。

 あまりの状況に、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 それとも、人間と、動物の感覚では、危機感の大きさというのが違うのだろうか。


 すると、エノは暢気な調子で言った。


「来た道を戻ればいいじゃないか。別に、必ずしも道の先がゴールとは限らないだろう?」


 あ。

 なるほど、それは盲点だった。


 来た道を、戻る。

 たしかに、それは選択肢のうちのひとつではある。


 あまりにもこの状況に緊迫しすぎていたから、逆にこのことに気づかなかったのかもしれない。

 よくよく考えてみれば、至極単純な話ではないか。


 一本道を、進むか、戻るか。


 究極的にはこの二択しか存在しないではないか。

 旅には、引き返すことも必要なのかもしれない。

 前にばかり進んでいても、見えない事はあるだろうし。

 後ろに下がるからこそ、新たな道が開けることもあるかもしれない。

 つまりは、後ろに退くからこそ、前に進んでおり、後退これすなわち、前進である――いや、これは流石に無理があるか。


 とにかく、来た道を引き返してみることにしよう。


 言い訳ではないが、元々目的地はあってないようなものだし。

 今回はこの森を抜けることが、最優先事項だったけれど、別に旅の目的地は森の先にしかないわけじゃない。少し戻って、森を迂回していくこともできるだろう。


 じゃあ、引き返そうか――と、エノに言おうとしたそのときだった。


 不意に視界が悪くなり、目の前にはさっきよりもずっと濃い、深い霧が立ち込んでいた。

 目を凝らして辺りを確認すると、後ろから、黒い影が近づいてくる。

 そして、耳を澄ませば、足音が近づいてくる。

 段々と足音は大きくなっていき、影の気配はどんどん濃くなって、今度はシキが身を隠す前に、深い霧の中からそれは現れた。


 霧のせいで視界が悪くなっていても、それでもちゃんと目に見える距離まで、は近づいていた。

 あまりに霧が深いので、その『目に見える距離』というのは即ち、シキの目の前であり、つまりはほとんど顔の前だ。


 影は巨大で、たくましい。

 肌で感じるほど、野生の空気をまとっている。

 そして、驚くほどの存在感を放っており、シキはその気配に圧倒された。


 一瞬、シキはその気配から目をそらしてしまった。

 だが、恐る恐る、その気配に立ち向かうように、ゆっくりと瞼を持ち上げる。


 ぼんやりとした霧の中。

 シキの顔のすぐ側には、巨大な熊の顔が浮かんでいた。

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