第2話

 しばらく小休止をとっていたシキだったが、いつまでも立ち止まっているわけにもいかないので、そろそろ歩き始めようかというときだった。


 まず、最初にその異変に気づいたのはエノだった。


「ねえ、誰かがこっちにやってくるみたいだよ」


 後ろを振り返ると、なるほど、たしかにシキたちが今まで歩いてきた方の道から、何かがやってくるのが分かる。


 だが、いつの間にかさっきよりも霧が深くなっており、いくら目を凝らしても、段々とこちらへ近づいてくる者の正体が何なのか、分からない。


 ただ、確実に言えるのは、その『何か』がひとつしかない細い道をこちらへ向けて進んでいるということだった。


「エノ、こっちに来て」


 シキは細い道から外れて、いくつもの木々が連なる森の奥へと身を寄せた。

 エノもそれに続いて、大きな身体を森林の中に沈める。


「なんだい、シキ。わざわざ隠れるような必要があるのかい」


「念のためだよ。用心はするに超したことがない」


 まさかこんな森の中で誰かに出くわすなんてことは想像していなかった。

 こんな一本道だから反対側から誰かが来るのは分かるとしても、まさか後ろから現れるなんて。


 シキは息を潜めた。

 地面を踏みしめる音が段々聞こえてくる。

 だが、その近づいてくる『何か』の足音が、次第に雑踏へと変わっていたことに気がついたのは、随分と距離が近づいてからだった。


 ざっざっざ。

 一本の道を通り過ぎていくのは、数匹の『鹿』だった。

 きっと、この一本の道は獣道だったのだろう。

 角がある者とない者。体つきのいい鹿たちは、やっぱりシキの身体の倍ほどある。

 複数の鹿はさっきまでシキたちがいた場所を通り過ぎて、道の先へと行ってしまった。

 鹿たちが通り過ぎていったことを確認すると、シキは再び一本の道に戻った。


「びっくりした。あんなに大きな鹿がまとまっているなんて」


 シキは少し興奮した口調で言う。


「あんなに野生の動物を間近で見られることはそうそうないわ」


 家畜や調教された動物は触れるほど近くに寄ることはできるけれど、野生の動物となると中々そうはいかない。

 人間が近づけば、まず逃げられてしまうだろうし、下手をして弱いところを見せれば、襲われてしまうこともあるかもしれない。

 野生動物を間近で見られるのは、銃で仕留めたときだけだ。


「そうかな。僕の方がよっぽど立派だと思うけれど」


 エノは頭の角を少し揺らしながら言った。


 *


 それから、鹿が現れることはなかった。

 深々とした森の中を、一本の道が続いている。

 

 そして、その中をひとりの少女と一匹の大鹿が歩みを進めていた。

 相変わらず道は一本しかなく、道幅も変わらない、景色も変わらない、見えるのはどこまでも続く閑かな樹海。


「ねえ、シキ。いつになったらこの森を抜けられるんだい?」


「それは私が知りたいわ。本当ならもうそろそろこの森を抜けてもいいはずなのだけれど」


 鹿の群れに遭遇して、あれからもう半日以上の時が経っていた。

 それだけ距離を重ねたのであれば、少しは木々の量が減っていてもおかしくはない。


 この果てしない深緑色にも、いつか終わりがあるはずなのだ。


「ねえ、シキ。僕はこの無限大にも広がる樹海を数日歩いて思ったことがあるのだけれど、やっぱりこの『道』というのに不信感を覚えたりしないかい?」


 いきなり、エノがそんなことを言い出した。


「まあ、たしかに不思議に思ってしまうところはあるかも……」


 さも当然のように、どこまでも続く一本道。


 それはよくよく考えてみれば、疑問に思ってしまうのも仕方がない話だ。

 どんなに深い森の中でも――いや、それが森ではなくて、山でも、洞窟でも、砂漠でも。

 シチュエーションが違えど、様々な自然環境の中に、『道』なるものが存在するというのは、実は当然のことではない。

 こうやって旅をする者にとって、道というのは自分で『作り出す』ものであり、決して完成された道をなぞって歩くことばかりではないはずだ。

 もちろん、そこにもう既に『道』が出来上がっているのであれば、わざわざ無理して自分で切り開くことはないけれど、それにしたって、完璧な道をなぞるという行為は、さして多いことはないように思われる。


 だって。

 それにしたって。


「いくらなんでも、これはやり過ぎよね――」


 さっきからシキが歩いている道は――この細い一本の道は、続いているのである。


 霧で靄がかかって、遠くまで視認することはできないけれど、それでも恐らく、寸分の狂いもなく『まっすぐに』道は続いているのだ。


 こんなことがあってもよいのだろうか。

 だって、『道』というものはこんなに真っ直ぐに続くようなものではないはずなのに。


 どんな場所であろうと、環境であろうと、道というものが常に真っ直ぐだなんて状況はほとんどない。そもそも道なき道を進むというのがセオリーだったであろうに、事もなげにこの一本道は、ひたすらに前へ前へとしか進んでいないのである。


 ましてや人の手の加わっていない、この自然環境で。

 紆余曲折もせず。

 右往左往もしない。


 一見、まっすぐな道が指針としてそこにあるのは、目印として嬉しいことのように感じてしまうが、この場合はそれが、なんというか、逆に――


 ――恐ろしい。


「まったく、ここは不気味な森だね」


 エノがふんと鼻息を鳴らした。

 一本道であるからして、いつかは森を抜けるはずの道。

 しかし、いつまでも変りばえのない景色には、もううんざりする。

 出口が見つからないことに苛立ちを覚えはじめたエノに対して、シキは静かに言った。


「諦めることはないわ。だって、どんなに長い道でも、時間をかければ踏破することはできるもの。あと、もう少し。もう少しで到着するはずよ」


 そう言うシキの顔には、少し疲れの色が滲んでいたが、それでも前に進み続ける意思を示す、力強い言葉だった。


 だが、それはエノがかけた言葉で、酔いが覚めるように一気に打ち崩された。


「でもさ、ちょっとこれを見てみなよ」


 エノは足を止めると、立派な角で地面を指した。


 それを見て、シキは凍り付く。

 それは、さっき休憩を取っていたときにシキが腰を下ろしていた、あの石だった。

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