先生


「厄介なことになってきたね」

「なにをのんきにふわふわしてるんだ。かなり分が悪いみたいじゃねえか」

「これは不可抗力だよ。どうする? 諦める?」

「そんな訳ねえだろ。分かってて言ってるんだろ? 嫌味な奴だな」

「じゃあ,作戦を練らないとね」

「作戦って言われてもなあ。なんかいい案でもあるのかよ」


 名案があるわけでもないけど,と大介は言いながらその場で宙返りをするように軽やかに一回転してこちらに来た。この空間にいる時間があまりにも長いせいだろうか,ずいぶん身のこなしがうまい。そういえば,おれが学校に行っている間,大介は何をしているんだろう。ここでずっと退屈をして,ただ時がたつのを待っているのだろうか。太陽の上らない,時計も時間を指し示す何物もないこの孤独な空間で。


「さみしくないのか?」


 なにが? と言って大介は首をひねる。


「一日中何してんだよ。自分の身体に戻りたくないのか?」

「自分の身体に戻りたいからって,淡い期待を抱いても無駄だよ。ほんとは心配してないくせに」


 大介は舌を出して笑った。半分あたって,半分違う。確かにおれは自分の身体に戻りたい。でも,おれは自分の身体に戻っても独りぼっちだ。周りと距離を置いて独りぼっちでいることと,物理的に人と接触できないことのどっちが不幸なのかは分からない。でも,どっちも一人であることに変わりはないのだ。

 一人でいることの寂しさはよくわかる。でも,口をついて出たのは思っていることとは全く別の言葉だった。


「ばれたか。まあいいや。さっさと作戦とやらを教えろよ」

「やっとやる気になってくれたか。いい? ぼくたちが争う相手は,確かに非の打ち所がない人だ。人望があるし,パフォーマンスもいい。でもね,彼にだって苦手なことや弱点もあるはずだ」


 大介の言いたいことはわかる。誰にだって苦手なことや弱みはある。おれたちはそこを逆手にとって,いかに自分が生徒会長になったら役に立つのかを,あの男にはできないことができるということをアピールしないといけない。でも,龍樹にできないことってなんだ? 


「もったいぶるなよ。あいつの弱点はなんだ?」


 大介は真剣な顔をしておれの目を見た。


「それはぼくにはわからない」


 重力を無視してずっこけた。いや,正式には無重力を無視してか。こいつはいったい何を言ってやがる。


「でもね,常友さんなら知ってるんじゃないかな? あの人は,相良くんと仲がいいから」

「あー,なるほどね。確かに,あいつは使えそうだ」


 合点した。大介の言いたいことはそういうことか。でも,当の本人は納得いっていない表情をしている。


「でも,なんか違和感があるんだよね。あんまり信用しすぎず,慎重にね。最後に勝負するのは仁なんだから」

「何を急に人間不信になっているんだよ」


 まだ不安そうな大介に,大丈夫だよ,と言った。常友は頭もいいし,意外と親切な奴だ。きっと力になってくれる。なにをこいつはそんなに不安そうにしているんだ。突破口が見えてきそうだってのに。

 見えてきた一筋の光とは対照的に,まるで雷雲がひろがるようなどんよりとした表情を大介は浮かべていた。



 生徒会室に立候補用紙を出しに行くと,大栗はいなかった。あの憎たらしい顔で嫌味を言われることを覚悟していたので拍子抜けだ。代わりに,例のくまみたいな教員がいた。昨日と同じように,窓際に立ってグランドを眺めていた。


「立候補用紙出しに来たぞ」


 部屋に人が入ってきたことに全く気付かなかったらしく,目を丸くして驚いていた。そしておれの顔を見るなり柔らかい顔になり,お疲れ様,と言って両手で立候補用紙を受け取った。そんなに丁寧に扱われると,ぞんざいな言葉づかいで片手で渡したことが後ろめたくなる。

 首からぶら下げられた職員用の名札がクリップで胸ポケットの位置に留められている。郷地幸村,戦国武将みたいな名前だ。


「郷地って言うんだ。授業も受け持ってないから,分からないよなあ。数学を教えているんだ」


 よく響く,太い声で郷地は名乗った。名札を見ている視線に気づいたのだろう。ごく簡単な自己紹介をした。そして,手元の紙に目を落とすとゆっくりとうなずき,大切そうに両手で持って身体を窓に向けた。


「そんなに外が好きなのかよ・・・・・・ですか?」

「誰かが何かを頑張っているなんて,これほど素晴らしいことはない。眩しいけど,ずっと見続けていたい。人の努力を適当にあしらうう人ばかりじゃないから,自分を応援してくれている人がいるということを心から感じることが出来れば,それは一生の宝になる」


 郷地はグランドに視線を送ったまま話した。よく分からないけど,昨日の大栗のことが頭にあって,背中を押してくれているのは何となく伝わった。


「あんたはさ,・・・・・・先生はおれが勝てると思う?」


 グランドでは女子が集団でサッカーコートを歩いていた。前ほど人の数はいない。相良を探して視線を動かしたが,どこにも見当たらなかった。あいつも部活をさぼったりするのだろうか。

 郷地はグランドにくぎ付けだった視線を外し,おれの目をまっすぐ見た。やっぱりくまみたいな顔をしている。でも,優しいくまだ。


「そんなのやってみないと分からないだろ。野球と一緒だ。なんだってそんなもんだ」


 当たり前だろ,という顔をしてまたグランドに視線を戻す。そうか,野球部の顧問か。なんとなくグランドの様子を見ているのかと思ったが,野球部の練習を見ていたのだ。時折するどくなる視線を見ると,なんとなく野球部に締まった雰囲気があるのが分かる気がする。言うべきところでビシッと指導をするのだろう。でも,こいつは絶対に理不尽なことを言わないはずだ。


「どうなるか分かんねえけど,やるだけのことはやってみるよ。暇そうだけど,頑張れよ,郷地先生」


 じゃ,と言ってドアノブを握ろうとすると,頑張れ,と背中に声を掛けられた。「また今度,部活に来るといいよ」とも言った。「行くかよ,おれはスポーツがだめなんだ」と大介の代弁をして部屋を出た。

 部屋を出てからずっと,胸の奥がこそばゆかった。誰かのことを「先生」とつけて呼ぶのなんていつぶりだと考えたが,うまく思い出せなかった。


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