不可抗力



 生徒玄関に向かうと,意外なやつに声を掛けられた。


「帰るの? 立候補用紙は出した?」


 柔らかい言葉遣いなのに,凍り付くような冷たい声にぞっとした。制服姿の相良と,ムーミン谷からやってきたチンアナゴがニョロニョロと金魚の糞のようにくっついてきていた。


「さっき出してきて,今から帰るんだよ。お前の方は,部活はいいのか? ファンを待たせて人気投票に悪影響が出ないといいけどな」

「これから生徒会室に行くところなんだ。あ,ぼくも生徒会長に立候補することになったんだ。よろしくね」


 そう言って,相良は手を差し出してきた。「ムーミン谷からやってきたやつに聞いたよ」と言って力を込めて差し出された手を握ると,相良は笑い出した。


「本当に君は面白い。また名前を教えてね」


 じゃ,と背中越しに手を挙げて相良は生徒会室へと向かっていった。何を言っているのかよく理解が出来ていないチンアナゴは,少しあたふたした後におれに中指を立てて小走りで相良の後ろを追いかけていった。



 机の上にガラスのコップが置かれた。中身は前とは違う。ピンク色の液体からは柑橘系のにおいがした。


「なんだこれ?」


 口元に近づけたコップを思い切って飲んだ。酸味が口の中を引き締めるようだが,後からほんのり甘さが感じられる。意外といける。


「集中する前にはこれがいいの。それが私のルーティン」

「確かに集中できそうだ。でもこんな着色料たっぷりの得体のしれない飲み物を飲むのは怖いな。いったいなんだこれは」

「何言ってんの。私は百パーセントのジュースしか飲まないの。もちろんこれもそう。ピンクグレープフルーツ,知らないの?」


 こんなにおいしいのに,と驚いた顔をして,腰に手を当てて自分のコップをごくごくと飲み干した。


「風呂上りじゃないんだから,普通に飲めよ」

「この飲み方が一番おいしいの」


 飲み物の動きに合わせて上下するのどを見た。ピンク色の液体が通過してるのを想像すると何となくスケベな気持ちが浮かび上がってきたから,とうとう頭がおかしくなってきたのかもしれない。


「でさ,原稿は考えたの?」


 口元をぬぐいながら常友は言った。


「それなんだけどさ・・・・・・」


 常友に相談したかった内容を話した。大介と話した,相良の弱点について何か聞けたらと思ったのだが,少し考えて話し始めた。


「なかなか面白い考えね。まさかあなたの頭でそんなことを考えられるとはね。感心感心。それなら私にぴったりじゃない」

「だろ? まずは戦う相手を知らねえとな」


 大介の案だ,という言葉が出かけたが飲み込んだ。いまだにうっかり話してしまいそうになる。いつか,こいつになら話してもいい日が来る気がする。そんなことを考えていると,昨日の大介の不安そうな顔が浮かんだ。あいつはいったい,何を心配しているのだろうか。


「龍樹の弱点はね・・・・・・」


 常友は焦らすように間を取った。


「龍樹の弱点は,弱点がないことよ。あいつは完璧すぎる」


 こけそうになった。真面目な顔をして何を言っているんだこの女は。


「あのな,とんちのようなこと言ってんじゃねえよ。まるで役に立たねえじゃねえか。それじゃあ勝ち目はないってことかよ」


 ちっちっ,と人差し指を左右に振りながら舌を鳴らした。


「そんなわけないでしょ。この世の中完全無欠な人間なんて存在しないの。龍樹はね。なんだって一人でできてしまうの。でもそれって,周りと協力して何かを成し遂げたり,みんなを巻き込んでいいものを作り上げたりすできないことの裏返しじゃない?」


 なるほど。確かに,常友の言うことも一理ある気がする。


「じゃあ,それを原稿に起こすとどうなるんだ?」

「あんたねえ,ちょっとは自分で考えなさいよ」


 そうは言いつつ,常友はぶつぶつ言いながらすでに言葉を選んでいる。


「そうねえ・・・・・・。自分には相良くんのようにずば抜けた能力はないけど,だからこそみんなの力を集結しながらこの学校をよりよくしていきたい。目安箱を作って学校の変えていきたいことややってみたいことぉ募って,そこからさらに生徒会やみんなに広げていきたい。それが,僕にはできる。脳みそのが著しく劣ったぼくにも,頼りになる仲間がいてこうして立候補することが出来た。だから自分が生徒会長になっても,無能な自分を補うみんなの力を借りてよいものを作り上げる,っていう方向でいいんじゃないかな」

「お前,ぼろくそ言ってんじゃねえぞ」


 テーブルの上に置かれた手を拳で叩きつけようとしたら,ひょいとかわされた。もちろん強く殴るつもりはなかったのに,おかげで小指の側面の神経がびりびりと痛んだ。


「ちょっと~,暴力はんたーい。そんな野蛮な奴には誰も票を入れてくれないぞ」

「うっせえよ。ハエみたいにすばしっこい奴だな」

「ハエ? この私がハエ? もう一回言ってみなさいよ」


 常友が襲い掛かってきた。しびれる手をさすっていたので思いっきりやられてしまい,その勢いのまま覆いかぶさられる形になる。頬を赤らめたみずみずしい唇をした顔がすぐ目の前にあった。

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