第12話 木漏れ日の記憶

「おやっ、久しぶりでしたね」

「はい…やっと落ち着きまして」

 自宅から、少し離れた小さな神社。

 私の散歩コースだった。

 2か月前に妻を亡くし、今日は夏の日差しを浴びたくなって久しぶりの散歩。

 立ち寄る気など無かったようにも思えるが、自然と足が向いたようだ。

 竹箒で境内を掃いていた神主が私に声を掛けてきた。

 まだ若い神主、額に大粒の汗が噴いている。


 日陰に腰を降ろして、神主が持ってきてくれた麦茶を頂いた。

 神主は少し離れた場所で腰を降ろしている。

 青く茂った木々の葉の隙間から陽が差し込んでいる。

 妻の記憶も、こんな感じだったのだろうか?

 穴だらけになった記憶。

 痴呆症になった妻と一緒に歩いたことを思いだす。

 妻は時々、私の事も忘れていたようだったな…と。


 足元に転がる蝉の抜け殻、飛び立つのは自由を求めてなのだろうか?

 蝉が飛ぶのは死から羽ばたいて逃げているのではないだろうか。


 妻は羽ばたいて、どこへ向かったのだろう。

 あるいは私から逃げていったのかもしれない。

 拾い上げて掌で蝉の抜け殻を転がしてみる。

 私は、妻の手を引いて、どこへ行きたかったのだろう?

 立ち上がって空を見上げる、強い日差しが目を刺す。


 空になったコップを神主に返して、私は家に帰った。

 クーラーには馴染めない。

 扇風機を回して、独り居間から夜空を眺める。


 痴呆とは救いなのかもしれない…。

 辛い現実から目を閉ざし、老いから解放された心は、私が思うより、ずっと自由なのかも…。

 妻が死んだ日、少しだけホッとした自分がいた。

 救われたのは私の方か?

 悲しみを和らげたのは痴呆であった妻からの解放感。


 なんとなく持ち帰った蝉の抜け殻を仏壇に置いた。

 在りし日の妻、遺影の笑顔。


「私は、抜け殻なのかもしれない」


 旅立った妻が置いて行った抜け殻。

 空っぽの抜け殻に、また思い出が産まれるのだろうか?

 それとも崩れていくだけなのだろうか?


 逢いたいとも、悲しいとも思わない。

 ただ…

「ありがとう」

 そう伝えたい。


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