第6話

 私はどうやらひとりごとを話していたらしい。そんな癖が不気味で、その反発として嫌がらせが始まったらしい。ただ、元々他人との会話を好んでする方でもなかったことが、余計な誤解を増幅させてしまったきらいもあるという。今までは瑞香自身が動かなかったから周りの流れにも逆らえないけれど、瑞香が変わろうとさえしてくれれば私だって手を差し出したいとは思ってる。そう夏希は言っていた。


 私は親からも聞いていた。

 ある少女の話。

 むかしむかし、母が高校に通っていた頃は、今なんかよりもずっとずっと気風が乱れ、校内が荒れていたものだった。集団で喧嘩をしあい、それを止める教師と生徒の間でまた争いが起こる、そんな感じだったらしい。ただそれはこの地域が特に荒れていたというわけではなく、それらの争いは今からしてみれば秩序や規制が敷かれる過程で必然的に起こること、つまり時代がそういう時代だったから、といった言葉で片付けられる類のものなのだそうだ。けれど、それでも心の底から争いのない穏やかな平和をこいねがう者は確かにいた。その少女はひたすらにみんなが仲良く過ごす日常を願っていた。そんなあるとき、避けられようもない大きな抗争が他校と起こりそうになった。誰もが神経をとがらせて、男は暴力的に士気を高め、大体の女は怖々と身を寄せ合った。少女はみんなが好きだったし、その少女を嫌う者なんて誰一人としていなかった。だけど少女がその抗争を止められるとも誰も考えてはいなかった。

 抗争の前日、彼女は校内で首を吊って死んだ。

 降ろされ横にされた少女は首についた痕が生々しくも、その様はまるで眠っているかのように見えたという。普段は虚弱で走ることもままならなかった彼女が、最上階から階段の落差と手すりの低さを利用して自ら命を絶ったのだった。階段には彼女がいつも抱えていた松葉杖が丁寧に綴られた手紙と共に置かれていたという。その手紙には丁寧な文字で、どうか争いをしないでください、との文字が書かれていた。文章が続く。

「争いや対立はいずれ犠牲を伴います。

 それは誰も望んだことのない犠牲です。

 それはみんなの心に雨を降らせて、憎しみや悲しみをただただ増やしてしまうことでしょう。

 だから、その前に。

 私は憎しみのために身を捧げるのではありません。

 平和のために」

 当時、校内を仕切っていたリーダー格の男は、それを知ってひどく悲しんだ。彼だけではない、誰もが涙をぼろぼろ流して泣き濡れた。彼らは自由を求めて闘っていたのであって、身近なものが死ぬことは微塵も望んでいなかったのだ。そのリーダー格の男は抗争を中止し、結局他校との和解にまで漕ぎつけることができた。その話は当時の町中に広まり、多くの中高生の心に訴えかけ、少女を悼む声は広がっていった。そして時代が経るに従って、彼女が求めた平和を求める声も、ノイズも巻き込みつつではあったが、大きくなっていったのだった。

 あの写真に写ってた制服、母の隣の女性が来ていたセーラー服の学校はもうとっくに廃校になっていて、その校舎も近年取り壊されたのだという。


 私は果たして、どういった行動に移したらいいのか悩んだ。最早、何が良くて何が悪いのかなんて判断がつくとは思えなかった。しかし、私は現状をどうにかしなければいけなかった。私は窓から空を眺めた。静かな夜に思いを託した。星たちがたくさんきらめいていた。月もクレーターが見えるほどにはっきりと浮かんで輝いていた。

 千秋は楽しさが簡単に手に入らない様子を砂にたとえた。私の場合、それは星だ。星たちの希望は、簡単には私には届かない。その砂たちは、――星の欠片たちは、――ありとあらゆる希望たちは、私たちの両手の指の隙間から、ひっきりなしに零れては落ちて、そしていつしか消えていく。でも私は零れていくからといって、手に残った温もりに縋るだけじゃあダメなんだと思う。零れたものは拾っていかなくちゃいけないんだ。いつだって触れたそばから、きらめきたちは零れてく。でも私は、零れ落ちゆくそれらに向かって、それでも、どうか、と願いながら祈りながら、闇雲でもいいから、死に物狂いに、一生懸命、力一杯腕を差し出していかなければいけないんだ。それがどれだけ難しく、大変で厳しくても、眩しげに光る星の欠片たちを拾おうとして、諦めきれずに手を伸ばしていく。触れられなくてももう一度。手から零れてももう一回。十回でも百回でも諦めることなく挑戦していく。それが、それだけが、私に残された、果敢で前を向く唯一の方法なのではないだろうか。

 生温かな偽りに頼ってばかりいないで、凍てつくきらめきに触れていく。そのざらざらした表面を。


「久川千秋って名前を出したら、私の母だって覚えてたよ」

 私が母から聞いた話を言い終えると、千秋はしばらく無表情のままに立ち竦んでいた。

 私たちはいつかのように湖桃崎展望台に立っていた。

 黒い鳥が彼女の向こう、夕陽射す空を数羽通り過ぎる。ぶらんと垂れていた彼女の両手は微かにふるえていた。時間が止まる感覚がした。もしかしたらそれは時間が逆流して一気に流れ込んできたためのロスタイムだったのかもしれない。そして、際限ない時間を分断するように、ぽとりと両腕の間を滴が落っこちた。彼女は遠い目をしながらただ涙を流していた。私が彼女を見ると、彼女は不意に頬をつりあげた。しかしそれは一気に湧き上がってきた悲しみに押し潰されてすぐに歪んだ。ぽたぽたと地面に染みができていった。千秋はやや俯き気味になって口を開いた。

「そうだった。私はあの時に死んだのよね」

 彼女は目元を拭おうともしなかったが、その声が酷く滲んでいたことが彼女の感情の昂りをはっきりと表していた。涙は夕陽に照らされて美しく輝いては散っていた。

「私は、誰のことも恨みたくなかったの。みんなの気持ちが痛いほど分かっていたから。誰も悪くなんかなかったんだよ? だけどこのままじゃ争いは大きくなるだけで、犠牲者が出ない限り収まりそうにもなかった」

――それで他人が犠牲になる前に自分が、って。

 私が何も言っても陳腐に聞こえてしまう気がした。私なんかが触れるには彼女の心は高潔すぎた。けれど私はそれでも声を出した。ここで何も言えなければ、私がここにいる意味なんてこれっぽっちもない。私の声もふるえていた。

「千秋……、でもそれはよくないやり方だよ。あなたは死ぬべきじゃなかった。だから……、だからどこにもいけずにここにいたんだ」

 彼女は薄く眼を瞑って、ようやくゆっくりと手で顔を覆った。

「誰も間違ってないんだとしたら、千秋がこんなことにはなるわけないでしょ。あなたは――」

 私の声を遮って千秋は泣き崩れた。

「でも、私は――」

 そうするしかなかった、と彼女は何度も首を振った。町中に聞こえるような大きな声で泣いた。

 彼女は生前からずっと恐ろしいほどに純真だったのだろう。だから誰の敵にもなれなかった。強者の辛苦も弱者の哀情も痛いほどに分かったのだろう。しかし華奢な彼女には対立を調停するだけの力はなかった。だから自ら進んで人身御供となったのだ。

私はそんな選択は間違っていると思う。それに私ならそんなことはしない。けれど、だからなんだというのだろう。だからといって彼女の選択が間違いであることになるのだろうか。命をかけた彼女の願いは無意味なものだったのだろうか。そんなわけはない。それに『私ならばしない』ということで誤魔化されてるのは『私ではできない』ことだ。ただならぬ勇気ではないのだ。単純な身投げではない。そこにあるのは眩いばかりの強い意志と、血の滲むような決断だ。それを見落としてはいけない。私は無力だ。広大な海を目の前にした一匹の虫のように。私が救いたいと思ったところで、気を確かにしなければ逆に救われてしまいそうだった。

彼女はぽろぽろと身体に似合わない大粒の涙を溢していたが、それも次第に収まってきた。そしてゴシゴシと袖で目を擦った。私の顔を見つめた千秋は涙の跡を頬に滲ませながら、無理矢理に軽やかな頬笑みをつくっていた。壊れそうな儚さが辛うじて繋ぎとめられていた。

「あ、千秋」

「……え?」

「その手」

「あっ」

 私の方が先に気づいたらしかった。日差しに反射していたからか、彼女の瞳が濡れていたかは分からない。

 彼女の右手にはいつしか銀色の鍵が握られていた。

「私ね、瑞香と会えて良かったよ。本当に。こんな楽しかった毎日、生まれて初めてだったかも」

 頬に浮かぶ涙の跡がてかてかと照り返している。

「思い出したわ、全部。私は、何もかも忘れてたみたい。生きてた時の私が身体が弱かったことも。それに中学校の時に足が悪くなって上手く歩くこともままならなくなったことも。

それでね、元々本を読むのは好きだったんだけど、それしかできなくなってしまったんだ。最初はそれでもいいって思ってたんだけど、でもそしたら胸の奥から、友達と星を見に行ったりお祭りに行ったり、遊びに行きたいって感情が思い出したように波になって押し寄せてきたの。それはとても耐えがたかった。だけど私は友達に迷惑をかけるのも嫌だったから、なんだかだんだんと皆との壁も感じるようになってきて……いや私が悪かったのかな」

 彼女は自嘲気味に笑った。その笑いは、彼女が誰かのために身を投げたことの裏に、私が想像する以上の、複雑でまどろっこしい理由や、こんがらがって収拾のつかなくなった感情があったことを仄めかした。彼女だってしっかりと毎日毎日生きていたのだ。何かに悩んで、それでもつらくて、嬉しいこともあって、生きてきたのだ。私は彼女の存在を今まで以上に、それまで一度もなかったほどに、すぐ身近に感じていた。

「とにかくね、私のしたいことができて本当に嬉しかったわ。瑞香、あなただから良かったんだと思う。しかもこうして元気な身体で会えて。生きてる時だったらこうはいかなかったかもしれない」

「そんなこと、……言わないでよ。千秋、私はいつだってあなたの味方になるに決まってる」

「そうだね、ありがとう」

 太陽はその存在感を増しながら、徐々に山々の稜線の彼方にその影を落としていった。

「それじゃあ」彼女はポケットから小さな木箱を取りだした。アンティーク調の木目柄はここからでもはっきり確認できる。

「幸せなうちにね」と言いながら千秋は木箱の鍵穴に銀の鍵を差し込み、くるりとまわした。カチャリという音が聞こえてずっと開かなかった木箱がようやく開いた。

 煙? 木箱からは半透明の煙のような気体が放出され、千秋の身体をするすると包み込んだ。それも束の間の出来事で、すぐ煙は見えなくなった。そして、彼女が持つ木箱も鍵もなくなっていた。

 千秋の身体は夕陽に透けていた。

彼女は優しい声で言った。

「もうお別れだね」

「……いなくなっちゃうの?」

「さよならって悲しいことじゃないんだよ」

 彼女は寂しそうに地面の自分の足元を見つめた。しかし、もう彼女の影はそこにはなかった。

 私はなんて言ったらいいか分からなくなった。色んな思いが瞬間瞬間に頭の中を駆け巡っては、サイレンばりの喧騒と共に消滅と生成を繰り返していた。でも、頭のどこかでこんな予感はしていたんだ。けれど彼女がいなくなってしまったら、私は実際どうしたらいいんだろう。これから先、本当にちゃんと生きていけるのだろうか。永遠に一人ぼっちかもしれない。つらいことしかないかもしれない。しかしそんなことをここで言うべきではない。今は自己嫌悪なんてしてる場合じゃないんだ。そうして生まれては消えていく泡沫の中で、一つの色濃い思いが私の前に姿を見せた。

私は決心して、彼女の手をとると、まだ触れられることが嬉しさとなって脳に伝わった。この感触もじきに消えてしまうのだろうと思うと胸が張り裂けそうになった。私はじっと終わりを待つことができるほど律儀ではなかった。

「さあ、行こう!」

 私は目を丸くしている千秋の左手を取って、丘を引き返すようにして走りだした。

「えっ、ちょっと、どうするの!」

 驚く彼女を連れて私は走った。千秋の質問にもういちいち答えてられない。時間がないのだ。おそらく日が沈む前には、千秋の身体は空気中に分解されるように次第に霞んで見えなくなってしまうだろう。それまでに!

 私たちは息を切らして木々を抜け、丘を一気に駆け降りた。困惑気味だった千秋も途中からは吹っ切れたように楽しげな表情を浮かべていた。整備された道路まで出ると、私の自転車が主人の帰りを待ち焦がれていたと言わんばかりに寂しげに佇んでいた。私が荷台に彼女を促すと、彼女はなんだかよく分からないけどちょっと興奮してるといった顔つきで素直に腰を置いた。もうその見慣れたセーラー服の向こう側に電信柱がはっきり見えるほど彼女は空気に溶け込んでいた。

「じゃあ行っくよー!」

私は明るい声を上げて、精一杯ペダルを漕いだ。それが何かの終わりを告げることだとしても、精一杯にペダルを漕いだ。

 田園風景の中を走る。私は最後にまた彼女を喜ばせたかった。胡桃崎展望台、鶴見神社、白紅沢公園、どこも彼女は行ったことがなかった。名所が多くない私の町だ。向かう方向は自然と決まる。

 自転車を飛ばすと、町の外れを走っているのにもかかわらず夕焼けに染まる景色がやけに過去の記憶を呼び覚ました。遠足で寄った個人農園や交差点わきの駄菓子屋、人が住んでると噂の廃工場。別にどれもいい思い出ではない。けれど今に限っては自転車の後ろに座ってる千秋に語りかけたいほどに、それらがかけがえのないものに見えていた。私は前を見ながら息を切らして一声だけ千秋に言った。

「千秋、いる?」

「うん」

 そこに、いる。

 私の腰にまわされた手に強く力が込められたのを感じた。

 私の代わりに千秋は後ろで楽しそうに私に語りかけた。私はペダルを踏むので一生懸命だったから答えられなかったけれど、それでも彼女は嬉しそうに「あっちにたくさんトンボが飛んでる」とか「今の車、瑞香の家のに似てたね」とか「夏休みなのにチャイムが聞こえる」とか、何でもないようなことを喋った。でも、何の変哲もないことが途端に色めきたってくるのが不思議だった。彼女の周りではいつだって素晴らしい景色が広がっていた。

荷台が軽くなっていく。

 前だけを睨んで私は考える。千秋のお陰で景色が違く見えていたこと。千秋がいたから今まで生きれたこと。私の拠り所はもう千秋しかいなかったとさえ思えたこと。でも、それは甘えだ。自分が強くなれないから頼れる者を大事にするなんて卑怯者のすることに他ならない。私は自分の醜い部分にお別れを告げる。つらくても、いらない私を捨てていくのだ。ひとつひとつ。

 廃工場の裏を抜けて、ぽつぽつとした民家を過ぎて、ようやく私たちは着いた。

 目の前には大きな湖が口を開けていた。その水面には、少し距離のある向こう岸に立つ鬱蒼とした森に沈み込もうとしている夕陽が、もう一つの太陽が潜っているかのように鮮明に映し出されている。眩く淡い光景が、来る闇を撫で、湖の周辺一帯を幽玄で幻想的な気配に包んでいる。それは見るものを精気で吸い込むような圧倒さを持っていた。

「わぁ……」というためいきが背後から私の首筋にかかった。そして一粒の温かい涙が私の首に当たって、背中をつるりと滑った。千秋は鼓動が伝わるほどに身体を寄せて、私をそのまま抱きしめた。

「ここはね、私のとっておきの場所なの」

 私は振り返らず、後ろにいる千秋に聞こえるように語った。

「中学校のときなんかはこの畔で、一人で泣いてたりしてたんだ。今思うとつまんないことかもしれないけれど、そのときはどれひとつとっても、私には重大なことだった。それでね、ここで泣いていると傍には誰もいないのに誰かが私のことを励ましてくれる気がするんだ。ゆっくりと穏やかに背中をさすってくれる感じ。分かるかな、朝霧のようにぼんやりと優しく包み込んでくれるの。そうするとね、次もまた傷つくかもしれないけれど、それでも頑張ってみてもいいかなって気がしてくるんだよ。私を支えてくれたとこだからさ、千秋にも見せたかったんだ。他の人を連れてきたこともないんだよ。ほら、綺麗でしょ?」

 私に絡む腕はもうほとんど見えなかった。私は手の甲で目を擦った。

「……なんだか駄目だね、何にでも頼っちゃって私――」

 涙が溢れて止まらなかった。なんだ、これじゃあ、あの時から変わってないじゃないか。でも声が滲んでも、喉に涙が詰まっても私は語りかけた。背後の気配がすっかり消えていることにも気づいていたけれど、でもまだ言い足りないことはたくさんあった。この場所は私を支えてくれていたんだけど、千秋が来てから私はここに来なくなったんだよ、千秋はそれほど私にとって大きい存在だったんだって。ああ、なんでもっと早く言わなかったんだろう。今になって泣き濡れてどうするんだ。分かっていながらも振り返った先には、薄暗い闇が空気を侵食しているばかりで誰もいなかった。


 私は近くの大きな岩に背中を預け、目を瞑っていた。

夕陽が埋もれてから夜が来るのはあっという間だ。森の奥、梟だか山鳩だかが気怠そうに鳴くのが聞こえた。夏の生温かい風が水面を揺らし、私の頬を触ると、涙の痕がちょっぴりヒリヒリした。

落ちてくる夜は私の心をゆっくりと溶かしていき、空気に私が混ざり込んだ。私は息を吸い込んで、右手をぎゅっと握る。夜の空気は私に優しい。私は私、もう一人だ。悲しさもつらさも背負っていかなくちゃいけない。けれど私の胸にはあの優しく強い意志が、彼女の目が、声がしっかりと焼きついている。大丈夫、大丈夫だ。私はやれる、やっていける。何度でも。何度だって。握る拳に力を込める。空虚だけではない感じが、握った手のひらに滲んでいった。

(了)

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アゲイン・ザ・スターピーシーズ 四流色夜空 @yorui_yozora

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