第5話

 私は母親と二人で暮らしている。父は都会へ働きに出て二年ほど前から単身赴任中だ。しかしそれでも生活は豊かではなく、母親も事務の仕事に就いている。最近は会社の人員が足りてないらしく、ほとんど毎日夜中になるまで帰っては来ない日々が続いている。

 その日も、私が千秋と別れて帰ってくると、家に明かりはついてなくて暗いままだった。ちょっと心細くもあるけれど、遅い帰宅を咎められない分、気は軽い。リビングの電気をつけ、冷蔵庫を開けると朝に母が作ってくれたオムライスがラップに包まれて置かれていた。それを電子レンジに放り込んで、冷蔵庫にあったトマトとレタスで適当に付け合わせのサラダをつくる。テーブルの上には、母が片づけ忘れただろう文庫本や何だかが積んであり、私はそれらを本棚に戻そうとした。その間には一冊、薄いフォトファイルが挟まれていた。電子レンジがまだ動いているのもあって、私は何の気もなしに、その端が黄ばんだファイルを捲って開いた。そこに入っていたのはどうやら母の中高時代の写真のようだった。そこにある多くには、表情に今はもう窺い知れない幼さを残した母の姿があった。丸っきり誰か分からない人しか載っていないものもあったが、これは多分母の友人なのだろう。

――あっ。

 私はある一枚に目をとめた。小柄な女子とそれよりは高い百五十五センチくらいの女子が並んでピースをよこしている。高校一年といったところか。彼女たちの後ろにある車庫を見るに、いる場所はおそらく祖母の家の庭だろう。身長の高い方がうちの母親だ。しかし私の目を引いたのはもう一人の女子だった。二人の制服は同じものではなかった。母はブレザーで、もう一方はセーラー服だった。それも胸につけたリボンは赤と紺のストライプ柄。それは千秋と同じ服装だったのだ。しかし私はこの辺りでセーラー服の学校というのをあまり知らなかった。まだ私は千秋の通う学校を知らなかった。ただその前に私がそういうことに興味がなく、自分が通ってる学校以外のことは全くと言っていいほどに知らないということもあった。今更訊くのは憚られる、とはいえ今更無知でもいたくはなかった。

 丁度いい。私は今度母に訊いてみようと思い、古ぼけたページをパタンと閉じた。


 千秋が前に海で、「楽しさとかっていうのは手を伸ばした先にあるんじゃなくて気がついたら、自分の内側にある」なんて言っていたのを思い出す。あのときはなんとなくそうかもしれないと思ってしまったけれど、でも日々を過ごしていくとそれもどうなんだろうと思えてしまうのだった。仕方ないと言い聞かせたところでつらいことはつらい。まるで当たり前のことのように嫌がらせは続いていた。この間は水泳の授業の際に下着がなくなったし、机の上やまだ取り上げられてない教科書には毎日のように悪戯書きは増えていく。一番どうしようもないのは、この状況の理由が分からないということだった。初めの頃は、理由がないことだって全然際立ったことではないと思ってもいたのだが、思ってた以上に解決する見込みがない問題というのはたちが悪かった。結局私も他人事のようにしか考えられていなかったということだ。集団はストレスの捌け口を求め、それを措定することで逆に集団内の安定を図る。それは非常に論理的で効率的な構造だ。集団のための犠牲。平安のためのわずかな損失。それゆえに、状況は変えにくいし変わりにくい。学校での度重なるストレスのせいか生理不順も伴って、体力も精神もそろそろ限界に差し掛かっている気がした。おそらく理由が分からないまま謝ったとして、例えばただ闇雲に教室の床に額を擦りつけてみたところで、問題は解決せず、余計におもしろがられ玩具にされ、その役に嵌り込んでいくだけだろう。それじゃあ何も変わらない。

 私は学校の廊下を歩きながらそんなことを思っていた。

 五時限目が始まったこともあって、廊下に人影はなかった。出会うとすればいつも遅れてくる私のクラスの授業担任だが、警戒して擦れ違うことのない道取りをした。授業前にクラスを抜けだすなんて初めのことだった。休み時間が終わり本鈴が鳴ったにも関わらず、思わず足がクラスの後方のドアに向いていた。私の前に立っていた三人の女子が「おい」と怒鳴るのも無視を決め込んで、私は廊下に抜け出した。教室に入ろうとした人影が擦れ違いざま、驚いたように小声で「瑞香?」と呼んだ。夏希だった。私は少しも振り返らずに階段を目指した。

 頭の中は段々と落ち着いて、まともに物事を考えられるくらいにはなっていた。教室から出るときにはそんな余裕はなかったのだ。だから夏希に対する反応への後悔も芽を出した。しかしそれは分からない。どうしたらいいか分からない。甘えた先が仕掛けられた罠という実例をたった今見たばかりなのだ。だけど、甘えられずに生きていくなんて、誰にも頼らずに生きていくことなんて、私には途方もないことのように思えるんだ。私は弱い、弱すぎる。弱いくせに何にも我慢ができないんだ。挑発にすぐ乗ってしまう性質なんて捨ててしまいたい。さっき教室であの女子らが紙に書かれた文章を朗読して、その挙げ句私の目の前で破ったことだって、すべて許してあげればよかったんだ。もう諦めた方が楽なのかもしれない。その紙が私がテスト対策のために夏希に貸してあげたノートだったとしても。彼女らが読んだ箇所が消し忘れた千秋への思いだったとしたところで。それを嘲笑いながらびりびり引き裂いているのを目にしたところで。

 重い扉を開けて、私は屋上に出た。夏休みが近いこともあって、外の空気はすっかり見間違えることもないほどに、夏だ。空も透き通るように晴れてはいたが、東の方から黒い雲が来ているのが見えた。私は屋上の中心近くに設けられたフェンス沿いのベンチに座って空を見た。もちろんのこと、月だって星だって私の目には映らなかった。もう私には何も楽しめない心地がした。いや千秋に会えば多少なりとも回復しないことはないだろう。けれどそれでも学校には来なければいけないし、私には今までのように楽しいこととつらいこととを完全に割り切って生活を送っていくことはむずかしいように思えた。そんなことをしても楽しいことはつらいことに侵食されていく。おそらく自分の内側に見出した楽しさも、更なる内側のつらさから喰い破られてしまうのではないだろうか。ぼろぼろに崩れ去り、ざらざらとした砂となって本質を失ってしまうのではないか。

「じゃあどうしたらいいって言うんだ」

 私は両手を組んで頭の後ろにあて、どこにともなく欠伸をした。

 空の遠くには飛行機が低いうなり声を上げながら飛んでいた。私も空に散りばめられた希望たちを思った。けれどそれはやはり見えずに、無情な時だけが私を取り巻いていた。


 もう気力も空っぽになり、荷物も明日でいいやと思って校庭に降りて帰ろうとすると、うまい具合に他の生徒も帰る時刻になっていた。私は足早に校門へ向かった。何にも考えてはいなくて、ただただぼうっとしていた。

 だから肩を叩かれたときは異様にびっくりしてしまった。振り返ると私の鞄を持った夏希がいた。私は当たり前のように夏希と一緒に帰った。疲れていた。

 そのためか自然と口をついて「なんで私ってこんなことになってんの」という言葉が出てきた。

 夏希は一瞬怪訝な顔をした。

「分からないの?」

「分からないよ」

「本当に?」

「本当に」

 私たちは歩道橋を通り過ぎて、夏希はためいきを吐いた。空には暗雲が立ち込めていた。雨の臭いが鼻をつく。

 彼女は言った。

「最初に誰かが言いだして、それから色んな人が言いだした。今ではたくさんの人が言ってる。悪い状況の理由はそれだと思う」

「夏希ももう私のことが嫌い?」

「最近の瑞香は苦手だったけど、それさえ直してくれたら仲良くしたいよ」

「それって?」

「ひとりごと」

「ひとりごと?」

「うん」夏希は頷いた。


 私が家に着く頃には、ぽつぽつと雨が降り出していた。それらはやがて強さを増した。一旦降りだすと途切れの来ない夕立だった。その雨は他のあらゆる音をも消し去るようで、私は家の窓から降りしきるそれらを眺めた。夜が更けるまで眺めていた。

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