第4話

 日照りが熱く、体力も気力も奪われる。私は鉛筆を片手に目を凝らして黒板に見入る。そうして先日、千秋の言ったことを思い出す。


 千秋は図書館横のベンチで缶コーヒーを口元から下ろした。私は持つのはオレンジジュース。閉館後のちょっとした二人の休憩だ。千秋は飲み終えた缶を足元に置くと、スカートのポケットに手を入れ、そこから茶色くて小さな四角形のものを取り出した。

「何それ」

「何だと思う?」彼女は訊き返した。

「中にオルゴールが入ってる、とか?」

 私は彼女の手のそれをまじまじと眺めながら、言った。それはくっきりとした木目がついた小さめの木箱だった。地はクリーム色に近く、木目は濃い茶。彼女はゆるゆると首を横に振った。

「ううん。それにこれには鍵がかかってて、今の私じゃ開けられないんだ」

 よく見ると、確かにその木箱には前面に金の大きな鍵穴がつけられていた。

「え? 違う人のってこと?」

「そんなこともないんだけどね」

 状況がつかめない私に彼女は指針を投げた。

「とにかくね、私はこの箱の鍵を探してるんだよね。それでさ、瑞香にもそれを手伝って欲しいんだ」

 私はオレンジジュースの最後の一口を飲み干した。

「まあいいけど、どこにあるか見当はついてんの?」

「いや、それが……」彼女はふざけ混じりの困り顔を見せた。

「……分かんないんだよね」

「全然?」

 彼女は頷いた。

「そう、全然」


 あ、間違えた。ノートの文字を消しゴムで擦る。そんなことで私の頭でいっぱいだった。だから板書も書き損じる。仕方のないことだ。それにさっきから教壇に立つ先生が黒板に向くたびに、背中に当たる消しゴムの小さな欠片も気にはしない。それだって仕方のないことだ。仕方がなくて、私にとってはどうでもいいこと。上履きがない両足だって。いつの間にかなくなった国語の教科書だって。仕方のない、どうでもいいこと。


 私は以前よりもずっと魂の抜けたように学校をやり過ごし、その分を千秋とのやり取りに費やした。七月になってからは図書館に行くのはそれまでの半分くらいになり、もう半分は彼女の鍵探しを一緒にすることになった。しかし、彼女は本当にあてはないらしく、探す気がどこまであるのかも怪しかった。まあ、そんなわけで私と千秋は彼女の提案で思いつく限りの目ぼしい場所に行ってみることにした。

「でも、見つかるのかな」

「うーん、まあ頑張れば神様だって分かってくれるんじゃないかな」

 彼女は夕陽に照らされる山々に目をやり、手すりにもたれかかりながら言った。その日は町の外れの、丘の上にある高台、湖桃崎展望台に来ているのだった。休日でもないので私たちの他に人はいなかった。

「私、こういう景色、好きなんだあ」

 千秋は片足をぶらつかせて木を模したフェンスを甘く蹴った。

 夕焼けが景色を染める。陽の沈む反対側ではだだっ広い田園やその向こうにぽつぽつある住宅や、私の学校なんかも一緒くたに同色になって染め上げられ、忍びよる闇に飲み込まれていく。私もこういった風景は好きだったし、吹き込む風が気持ちよくていい気分だった。

 ……だけど、

「千秋、これでいいの?」

「ん?」

「いやほら鍵だよ」

「んー、だってここにはないみたいだし」

「まあそりゃそうだけどさ」

 彼女の言うことは正論だった。だけど、そんなことを言ったら鍵なんてどこに行ったって見つからない気がするんだけど……。まあ、とはいうもののそんな気がかりも、千秋の楽しそうな横顔を見ているとどこかに行ってしまうのだった。私は彼女の意図をつかみ損ねていたけれど、この感覚が気持ちのいいものだということは事実だった。

「私、ここに一回は来てみたかったんだよねー」

「あれ、そうなの? 遠足でみんな来るものだと思ってたけれど」

 私の町に楽しめる場所は少ない。ほとんどが畑か田んぼで、周りは山々に囲まれている。だからこそ、ここに――確かに町の中心地からは少し距離があるけれど、一度も来たことがないというのは驚きだった。

「何でだろうね。忘れちゃった」

「ふうん」

 二つの白いシャツが、折り目のついた紺のスカートが、風にはためく。山に隠れてしまった陽の微かなにおいが余韻を辺りに立ちこめて、二人の影を覆っていた。

「次はどこ行く?」彼女は楽しげに私に言った。

「探しに、でしょ」

 私が笑いながら訊くと、彼女もにっこりと笑って「そうだね」と言った。


 私と千秋は毎日鍵を探し歩くようになった。木々がざわめく公園に行って鳩に餌をやり、参拝する者が誰もいないようなさびれたお社で可笑しな顔の狛犬を見て、戦前の名残のある廃病院に行っては怖さに身を寄せ合った。

 学校生活は日に日にキツくなっていったが、千秋を次にどこへ行こうか考えたらそんなのはどうだっていいことだった。ノートの端に今度一緒に行きたい場所や記憶に佇む彼女の横顔をスケッチしてみたりして教室の時計が進むのを待った。

「今度は海に行こうよ」

「えっ、海?」

「そう」彼女は遠くを見つめて言った。

「海に行きたい」

 私はクスッと吹きだした。

「どうしたの?」不思議がる彼女に、私は人差し指で目の端をなぞりながら答えた。

「千秋って、行きたい場所、たくさんあるんだね。それも鍵を探すため?」

「もちろん。そうだよ、決まってるでしょ」

 彼女のぱっちりとした目は輝いて、穏やかそうな外見とは裏腹の、その奥に潜む旺盛な活力を窺わせた。


 電車に二時間ほど揺られ、駅に降りると、もう目の前には地上のすべてを洗い流すような太陽と、海開き前の砂浜が広がっていた。私も海は小さい頃に片手で数えるくらいしか来たことがなかったので、懐かしくも新鮮な光景にちょっと胸が高まった。

「わー!」

 一面に広がる白砂、その向こうにきらめく波が見えるや否や、彼女はパタパタと駆けだした。長い髪を潮風になびかせ、白いシャツを揺らめかせて。私は一歩遅れてそのすぐ後を追いかける。彼女は休日にもかかわらずに制服を着ていた。ただそれは今日だけの話ではなく、千秋はいつだってそうだった。でもそれは彼女なりのこだわりや理由があるんだろうから、私が特に気にかけることではないのだろう。私はと言えば、ベージュのスカートに薄めの白っぽいロングTシャツを着ていた。けれど、はしゃぐ彼女を見ていると海にはセーラー服の方が似合うのかもしれないと思ってしまうのだった。彼女は早々と靴と靴下を渚に脱ぎ置いて、陽に照らされてはじける波と戯れていた。

 私がやっと近くまで行くと彼女は言った。

「海って気持ちいいね! 感動した」

 私も靴を脱いで波の間に足を滑り込ませると、汗ばんでいた気持ちが一気に清涼感に押し流された。

「それって随分やっすい感動だよ。でもほんと、気持ちいいねえ」

 足元に丸くなった石や貝殻が触れ、時折跳ねた飛沫が頬に当たった。

 私たちがいるのは岩場の隙間の小さな砂浜で、見渡す限りに人気はなかった。まあ、駅だって無人駅だしそもそも近隣に人もほとんど住んでいないのだから無理もない話だ。ひとしきり波間ではしゃいだ後、私たちは靴を手に持って湿った砂の上を歩いた。私たちの後ろには今まで私たちが歩いた跡がくっきり残っては波に流されていった。

 岩場のすぐ横からは津波対策のためかテトラポッドがずっと遠くまで続いていた。私たちはいくらか歩いた後、千秋が数あるうちの一つのテトラポッドに上ったので、私もそれに続いて隣に腰を下ろした。テトラポッドの真っ白な表面はざらざらとして、陽の熱を吸収していてわずかに温かかった。

 彼女は鼻歌を歌って、眩しそうに日光に手を翳した。座った位置から、下の方にフジツボがへばりついているのが見えた。

 二人が黙ると、静かに満ちては引いてを繰り返す波の音がただ聞こえていた。沖にぽつんと見える漁船から呑気な汽笛が高々と鳴った。

「楽しいこととか、嬉しいこととかって、直接手に入ることってできないものだと思ってた」

「……ん、どういうこと?」

 私は彼女に訊き返した。彼女は彼方にたゆたう水平線から視線を外さずに頬に右手を当てた。それは千秋が考えるときの癖だった。

「目の前にあるものと記憶にしまわれたものって違うよね」

「うん」私は頷いた。

「私ってさ、目の前にあるものから得られるものってあんまり信じられなかったんだよね。楽しかったことがあったとして、私が手を伸ばして触れようとしても、その途端に、指が掠った瞬間に、そのところから次々と砂みたいにさらさらと崩れていってしまって、手のひらの指と指の隙間から零れ落ちてしまう心地がしてたの。近づく実感はあっても距離がなくなることはない。それでいてそいつは何事もなかった顔をして、また私の先に蜃気楼のように立っている。いつだって伸ばした手の先は届かないんだって。それで空しさっていうか、虚ろさっていうかさ、そんなのばっかが心の底に積もっていくもんなんだって、そんな風に思ってたんだ。そんな感じで、いつでも経っても楽しさには辿りつけないってね」

 私は思った。いつまでもゴールが来ることのないやるせなさを。ずっと交代の来ない鬼ごっこを。そして、その感覚を受け続ける身体の過酷さを。

 でもね、と彼女は言った。

「でも、瑞香と一緒にいるうちに、そんなことないって気がついてきたんだ。届くとか届かないとかじゃないって分かったの。幸せだとか、嬉しさだとか、希望だとか、きらめきだとかっていうのは、いつの間にか知らないうちに私の傍にある……、というより私の内側にあるものなんだって」

 そう言うと、うんうんと彼女は一人でに頷いた。その様子を見ていると、私にもなんだか快い思いが込み上げてくるのだった。

「こんな毎日がいつまでも続けばいいよね」

 私たちが来た岩場の方から大きなカモメが翼をぴんと張って、海上へと飛びたっていった。

 真っ青な空と底の知れない海はどこまでも遠く続いていて、その壮大さと開放感は、どこかに投げ捨て損ねて手元に残ったいびつな形の私をも見逃してくれる優しさを持ち合わせているようだった。

 鍵はいつまでも見つからなかった。

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