三、放浪者 7


《西暦一八八年 十一月 司隷洛陽県》



 訓練を行う兵士たちのかけ声が、眼下の広場から聞こえている。城塞を吹き抜ける西風が、鎧の上に結わえられた柿色の外套を大きく揺らした。

——この風が告げるのは、冬の始まりであるのかな。それとも、国家の中興の始まりであるかな。

 孟徳は、宮城壁の上に造られた高い移動用の通路から、洛陽城を囲む城壁の向こうに、遥か西園を眺めていた。

 思い起こされるのは、幾日かまえに行われた、閲兵式のことである。

 当時収集を受けたばかりの兵たちは、緑に囲まれた平楽観の広場に赤い鎧を着てひざまずいていた。叩き上げの官兵も、入れ墨を身に刻んだ胡兵もいた。そして彼らの頭上左右にそびえる、空高い儀式台には色とりどりの花笠が飾られ、天空に花畑が浮いたように見えた。最奥の儀式台には金で縁取りされた真紅の天蓋が屹立しており、その翳りの下にはぽつんとひとつの人影があったが、地に跪いた孟徳の眼にはその表情は伺えなかった。ただ彼の身につけた赤い鎧兜の輝きが、翳りの中に強大な蒼天と後光とを負って、そのものが発光しているかのように眩かった。

 後漢王朝第十四代皇帝、劉宏りゅうこう、そのひとである。


 中平五年、十月十六日(西暦一八八年の十一月二十二日)。洛陽郊外に造られた“西園”と呼ばれる猟場の一角、平楽観にて、後漢初の本格中央軍——西園軍は本格的な発足を迎えた。

 上・中・下・典・助の五軍から形成され、主格となる八校尉に統率されたこの軍は、選りすぐった官兵に黄巾討伐に功あった新興軍閥を加え、そのほか烏丸、鮮卑、匈奴、羌、更には西南の越や蛮族をも含んだ、まさに中華の威を決し作り上げた精鋭部隊であった。地方豪族の専横する後漢において強固な中央軍を有することは歴代皇帝の悲願といえ、宦官を寵愛し暗愚と謳われたこの帝は、その悲願を見事成就させてしまったのである。

「——朕は」

 朗々とした声が響き、広場に待していた孟徳は、興奮に輝く目を頭上へ向けた。

「まず、そなたら臣へ詫びよう。中華の内で酷吏がはびこり、諍いが起こり、国家をこうまで弱らせてしもうた。漢のこの惨状は、確かに朕の不徳の致すところである」

 帝はそう云うと、壇上の中央をゆるりと離れ、

「しかし、朕は思うのだ」と語りながら、脇に備えられた階段を、己が足で一歩一歩降っていった。「この国の天命はまだ、朕の手より潰えてはおらぬ。今日こんにちこの雄壮なる西園軍を、救国の士たる諸君らと共に作り上げられたことこそ、その何よりの証である」

 帝が地へ降り臣へ謝すこと——それは殿上人の特権を自ら放棄するに等しかった。沈黙のなかに数万の兵士の戸惑いが広がる。辺り一帯の淀んだ空気を、こつ、こつ、とただ独りの足音が切り裂いていく。

「——君子の過ちは日月の食の如し、と云う。日は沈めどまた昇り、月は欠けてもまた満ちる。朕もかく在りたい。漢という名の日輪を、巨大なる四百年の伝統を、再びこの世の何より明るく、高く押し上げ火をともしたい。そのために、誉れ高き勇士たちよ。そなたらの力が必要なのだ。そなたらも思うところはあろう。されど今は国家のため力を合わせ、宗廟を奉り、天下に号令し、中華の秩序を示そうではないか」

 引かれてきた馬に帝が跨る。崑崙山こんろんざん(仙界)の様子が描かれた紅の外套が、青空の下にひるがえる。抜き払われた白刃は目の焼かれるほどまばゆかった。帝は剣を掲げ高らかに云った。

「朕は宣言する! 古往今来、東西万里、我が頭上におわすのは、偉大なる天と鬼神と先祖のみ! 勇士たちよ、朕の名におき中華より夷狄けだものどもを討ち払え! 我が名は劉宏、赤龍の末裔にして天命を与る蒼天が子! 万民に比類なき、将軍なり!」

 剣を突き上げ、帝は叫んだ。

「中華は、潰えぬ!」

 呼応するように兵士たちも叫んだ。

「オォーーッ‼︎」

 渦高まりゆく熱気の中に、勇士たちの、万雷のような足踏みの音と歓声がこだましている。鼓吹隊が軍楽を奏で、兵士たちはみながなり声をあげた。帝もまた歌っていた。


朱鷺あかさぎよ、おまえはどうして嫌われる

 鷺は何ぞを食うと心得る

 葉影でおびえるえものを喰らう

 食ってはならぬは食わないが

 食ったからには吐き出さぬ

 聞けよ将軍、鷺に恥ずべき咎はなし

 これぞ我らの正義なり》


 軍は勇ましい歌声とともに西園を出、都を巡り、龍の鱗のように雄々しく整った隊列を伸ばして付近の里邑むらむらを行進した。帝はその中軍に在って漆絵で飾られた鎧をまとい、長髪を垂らした旄頭騎ぼうとうき(羌族を起源にもつ天子の護衛兵)を率いて馬を進めた。民はみなその雄姿にかの光武帝の再来をみた。

 孟徳も、同じく居合わせていた袁紹も、その他の兵士もまた信じていた。国家はこれを機に、中興の方へ向かうのであろうと——。



「——おい、孟徳」

 誰かが近くで呼んだ。

「孟徳——阿瞞‼︎」

「うぉっ⁉︎」

 地崩れと聞き違うほどの轟音で叫ばれ、回想に浸っていた孟徳は跳び上がった。見ると隣に立っていたのは、官軍の赤い鎧を身につけ、黒い幅巾を被った袁紹である。

「何だぁ、急に」

「相も変わらずぼんやりし腐りおって。それで中央軍の校尉が務まるか」袁紹は腕を組み、変わらず横柄な態度で云った。「貴様も知っているだろう。今朝がた、鄒校尉に黄巾討伐の詔が降った。我ら二人で出陣を見送りに行くぞ」

「ああ——」

 孟徳は我に返って頷いた。今朝がた中央へ届いた伝令のことを思い出したのだ。一時は鳴りをひそめたかに思えた青・徐州の黄巾党が、再び反乱を起こした、というのである。

 過去に騎都尉として、黄巾鎮圧に加わった孟徳は知っている。黄巾党は邪教に走った有象無象の集いではない。中央転覆を目論む一部の豪族に援助を受け、確固な軍制度により組織化され、実戦を重ねた厄介な戦闘集団である。此度の蜂起も恐らく勝算あってのものであろう。烏丸の反乱を皮切りとし、匈奴、羌族、南の荊州蛮や巴蜀の板楯蛮ばんじゅんばんに至るまで、方々で夷狄けものの反乱が相次いでいる。国力が弱まったところを狙われたのだ。

 羌族の乱には既に皇甫嵩・董卓ら精兵が向けられ、匈奴の反乱は小競り合いの域を出ない。荊州蛮の反乱は孫堅が鎮めた。烏丸の反乱は徳の将軍として知られる皇族劉虞が慰撫に務めてどうにか納め、停戦せぬ者たちを腕利きの校尉、公孫瓚が粉砕するという形で抑えている。一時は四州に及んだ戦線も、今や北まで押し戻していた。これ以上事態を悪化させるわけにはゆかぬ。朝廷は西園軍の派遣を決めた。指揮官は破虜校尉はりょこうい鄒靖すうせいである。

 そこまで考えて、孟徳は、

「あれっ」と間抜けな声をあげた。「上軍校尉は、見送りには行かれんのか」

 西園軍は上・中・下・典・助・左・右の八校尉を指揮官としている。袁紹が務めるのは中軍校尉、孟徳は典軍校尉である。最上位の上軍校尉は蹇碩けんせきという壮健の宦官であった。

「陛下にお呼ばれになったとかで、ここしばらくは戻らんぞ」袁紹は腕組み憮然と云った。「戦に出向く校尉を差し置き、暗君めに尻尾を振るとは。これだから、宦官に校尉など務まるわけがなかったのだ。しかも奴は“内”に在りながら、太平道(黄巾)の信者であったとか」

「本初ぉ」

「たとい相手が天子であろうと、過ちを過ちと申して何が悪い」袁紹は頑と云った。「そういうへつらいや佞言はびこるたるんだ空気が、この国の権威を失墜させ、儒者を追放し、怪しげな信仰をのさばらせて、諸部族獣どもの反乱を招いたのだ」

 孟徳は、暫し黙ってから、

「なあ。本初」と静かに云った。「侮れないな、信仰とは」

「なんだ、いきなり」袁紹は顔をしかめた。

「いや、な。私も昔は邪教を憎み、世のためにならぬと巷の怪廟をいくつも焼いたさ。だが追いやられたのは私だった。黄巾も、もう五年近く野放しだ。神という、最も大きく最も古い無秩序の前に、我々人の守る中華という秩序は、少し非力な気がしている」

 袁紹は、少し驚いたようにこちらを見てから、

「神に縋ることは、愚かだ」再びそう、おごそかに云った。「だが愚かなものは、人の痛みを和らげる」

「それじゃあ、きみは認めるのか?」

「違えるなよ」袁紹は孟徳の胸ぐらを掴んで云った。「それは民のための救いであり、君主のための救いではない。君主は己の足で立ち、万民の暮らしを造らねばならん。王が信じるべきはただ孤独。孤独が、人を強くする。だからこそ、俺は陛下が気に入らん。皇太后に、宦官に、外様の私兵。他者を支えにしようとするから、付け入らせる隙を与える」

 袁紹はやはり皇帝を嫌っているのだ。鬼気迫る友の様子をしげと眺めて、孟徳は考えた。かつて孟徳が隠居していた頃、天子排斥を目論む若手士大夫らの連判状が手元に回ってきたことがあった。孟徳は一切関与を拒み、計画は結局失敗したが、署名には袁紹の友人の名が多くあった。当人の署名こそなかったが、計画の黒幕は袁紹ではなかったのか、と、孟徳はその頃から疑っている。

「——だいたい貴様も、昔は豪気であったくせ、何を弱気に申しておる。先ほども、俺は宦官を蔑んだのだぞ。宦官であった祖父君のことを想うならば、俺に楯突け」

「そんなぁ、無茶なぁ」

 袁紹に詰め寄られ、情けない声をあげた孟徳であるが、

「よう、孟徳。変わらず精気が有り余っているな」

 背後からの郎とした声に救われた。隣の袁紹が舌打ちし、孟徳は袁紹の手から離れ振り向いた。そこにいたのは官軍の赤い鎧を着た、立派な二人の校尉であった。

 孟徳はぱっと顔を輝かせ、

「公路ぉ!」と、一方の、颯爽とした貴公子を呼んだ。「久しぶりだなあ、どうした急に! 閲兵式後の宴じゃあ、きみはこちらへ全然話しかけてくれんかったじゃないか!」

「悪いな、あのときは上軍校尉につかまっていてね」

 長水校尉の、袁術公路はほほ笑んだ。

「俺がいずれ袁家の当主を継ぐ嫡流子だってんで、少しでも媚を売っておきたかったんだろうな。それにほら、あのとききみの隣には、俺をいつとて目の敵にし続ける、心の狭い卑賤な輩が——」

 優雅に両腕を広げて笑い、つらつら語っていた袁術は、孟徳の隣に立つ袁紹の方をちらりと見るや、

「ああ、」と今しがた、本当に、袁紹の存在に気づいたかのように云った。「居られたのか、気づかなかったよ。最近は一族の集いにも姿を見せず、宦官嫌いの肉屋の大将軍にかしづいているとか。我がが生前気にかけていたよ。本初の狂児ぶりは、幾年経とうとおよそ留まるところを知らぬ……とね」

「ご冗談を、」袁紹はぞっとするほど冷たい声で返した。「叔父上にとって私など、終ぞとるに足らん小倅でしたよ」

 袁家本流が前当主・袁逢の嫡子である袁術と、袁逢の亡兄の家を継ぐ分家筋の袁紹。公には従兄弟となる二人だが、その素性は実の兄弟である。袁紹の母が卑しい下女であったため、嫡流と認められず、継手の無い分家に養子に出されたらしい。そのため袁紹は袁術を目の敵にしているのだ。

「ところで公路、そちらは」

 兄弟喧嘩に巻き込まれたくない一心で、孟徳はすばやく話題を変えた。

「ああ。西園軍、破虜校尉の鄒殿だ」

 袁術が討伐軍の指揮官、鄒靖を示した。傍で鄒靖が拱手する。袁兄弟のいがみ合いにも眉ひとつ動かしてはいない。老年か髪髭はすっかり白いが、筋金入りの武人、という印象である。

「そこでお会いし、共に都東の蒼龍門へ向かっている。急ぎの行軍で出陣の儀も手早く済ませたというので、せめてお見送りくらいはせねばとな」袁術は云った。「私は中央軍の校尉としてだけでなく、いずれこの国の士大夫を背負う、名門袁家の次期頭領として、この方に敬意を払いたい」

「であらばその役目、この私が引き継ごう」

 袁紹がずいと進み出て云った。

「人の役目を奪う気か、中軍校尉」

「とんでもない。私は陛下から、鄒校尉の見送りを申しつかったのだ」

「なに、勅命だと⁉︎」

 袁術が仰天しこちらを見た。孟徳もまた仰天し袁紹を見た。全くの嘘である。

「なんだ、陛下の命を疑うのか?」引きつった笑顔の袁紹の額を、汗が一筋たらりと落ちる。勅命を騙ることは明るみに出れば斬首に遭うほどの大罪であるのだ。「疑うなら誰ぞに問えばよい。しかし名門袁家の嫡子どのは、見送り一つにそうまで固執されるのだな。もしや純なる敬意とは別に、校尉の見送りにこだわる理由があるのではないか? 良い格好をして名声を上げ、己が権威を世に示そうとしておられる……とか。いや、闊達で知られる公路どのに限って、そんなせせこましいことは考えてはおらぬだろうが」

 周りに問えば分かるはずだが、せせこましいようでできないのだろうか。拳を握りぐぬぬと唸る袁術を尻目に、

「そういうことだ、破虜校尉」

 袁紹は黒い外套をひるがえして、練兵の続く宮城の広場を下に見ながら、颯爽と壁上の通路を歩いて行った。鄒靖も勅命と聞いて従う。孟徳も彼らに続こうとしたが、

「孟徳、孟徳」

 と袁術に呼ばれ振り返った。

「君は、俺の友人だよな?」

「もちろん!」孟徳ははつらつと笑って応えた。「幼馴染で同い年、一緒に野原を駆け回って、鷹狩りにうつつをぬかした仲じゃないか」

「だよな」白い歯をきらめかせて袁術も笑った。「なのに君はいつまで、馬鹿な兄上のお守り役をしているんだ?」

 孟徳は思わず、袁術の笑顔を凝視した。

「面と向かって逆らい辛い、というのは分かるさ。けれど君が他の愚か者どもと同じように、嫡子である俺を差し置いて、あの奴婢の子めの金魚の糞を続ける気なら——」彼は貼りつけたような笑みのまま、「俺が袁家を継いだ暁には、君の書き貯めたありとあらゆる論文詩文、そのどれもが金輪際、この国で日の目を見ることは無くなるぜ」

 そう云いきると後ろ手に手をあげ、草色の外套を堂々と揺らして内城の方へと向かって行った。遠ざかる背中に、金糸で縫われた鳳凰が光る。趣味が派手なのだ。路中悍鬼ろちゅうかんきの袁長水、などと、いかつい通り名でも呼ばれているらしい。

——陛下もまた、アクの強いのを登用するなァ。

 孟徳は嘆息とともに顔をあげた。空は気持ちのよい秋晴れだった。若手士大夫の頭領たる袁兄弟。叩き上げの鄒靖に、夷狄出身の精兵たち。力あるもの全てをなりふり構わず引き入れようとする、皇帝の気概が見えるようであった。

 袁紹はそれを弱さと云った。他者に頼るから隙を生むと。しかし、並みの王道ではこの時代は治まらぬだろう。新しいゆえに脆く見え、他者からも理解され難い。そんな統治が必要となるのではないか、と孟徳は思った。西園軍は、その改革の要となるのだ。

「孟徳」

 今度は袁紹が馬を寄せてきて呼んだ。二人で数十の護衛ともに、行軍の後尾について都を下り、蒼龍門へ向かっているさなかであった。

「おう」

「俺の許しがない限り、今後一切、公路(袁術)とは喋るな」

「喋れば?」

「殺す」

「どうして毎度そういう具合なんだぁ、きみぃ」孟徳は呆れてふざけたように云った。「噂じゃ、きみらの叔父御の次陽どの(袁隗)は、気の強い奥方に云いくるめられるくらい穏やかで、争いごとを好まん人というじゃないか。なんだってその甥が、きみや公路のようなやくざ者に——わっ!」

 云い終えぬうち、孟徳の馬が棹立ちになった。袁紹が馬の腹を蹴りあげたのだ。孟徳はなすすべもなく馬の背から転がり落ち、しぶきを散らして道脇の排水溝に突っ込んだ。

「どぶに落ちろ、くそがき」

 袁紹が馬上から吐き捨てる。生家の話を茶化されたのが、どうも逆鱗に触れたらしい。

 びしょ濡れの身体でくしゃみをこぼし、ほうほうの体で排水溝から這い出る孟徳の目先で、燦然とした西園軍の行列は、遥か徐州へ向かって伸び始めていた。

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