三、放浪者 8


《西暦一八八年 十二月 青州平原国》


 夜原は吹雪いている。

 鄒靖は、指揮車の上から戦場を見ていた。辺りを包む闇は深く、両軍の兵士の雄叫びと武具のぶつかる騒がしさが、潮騒のように徐州の野にこだましている。黄布を付けて常軌を逸した無数の賊が、怪しい呪文を狂ったように口にして、味方の屍を乗り越え押し寄せてくるのだ。

「——天下、大吉! 天下、大吉!」

 際限がない、規則性も統率性もない。闇そのものと戦っているような戦だ、と鄒靖は思った。鎧兵の少ない黄巾の影は、篝を当てても光沢を放たず黒々としている。ただ時代の崩壊を仄めかす黄布だけが、ときおり上がる火矢や篝に照らされて、黒々とした彼らの体表に浮かんで見えた。黄色は土徳——世を司る五行のうち、赤い火徳の漢王朝、その次代を指す色だ。その前は蒼い木徳の周王朝である。黄巾軍は、自らを新時代の使者と謳っているのだ。

——人道に外れ、邪教に魂を売った賊軍けものめが。

 鄒靖は手にしていた朱雀旗を振った。傍らの楽器隊が合図の鼓を二度打ち鳴らし、守りに徹していた親衛騎兵が戦場に躍り出て黄巾軍を打ち崩す。親衛騎はみな宦官の証たる黄色い頭巾をかぶっていた。“騶騎すうき”と呼ばれる宦官騎兵である。武人として、宦官に頼りたくない思いはあったが、こうも戦線が膠着しては手段を選んでいる場合ではない。

「全騎兵! 突撃し、賊軍けものどもを討て!」

 鄒靖は声を張りあげた。合図の音が鳴る。掃討がはじまった。より一層強まる怒号と叫び、火矢の燃え広がる明るさ。夜空をあかあかと染める燎原の戦火を遠く見ながら、鄒靖はかつての帝の言葉を思い浮かべた。

——『なりませんぞ。宦官兵を、国軍に用いるなど』

 それは西園軍創設の決まったある夜。密かに玉座の間に呼ばれた鄒靖が、帝と交わした会話であった。

——『ただでさえ騎兵は貴重なのだ。宦官だろうと何であろうと、練兵された精兵を用いぬような余裕はなかろう』

 鄒靖はまだ憮然としていた。帝は玉座に頬杖をついて笑った。

——『そう疎むな』

——『中華は、いずれ、全てを呑み込む』

 帝はそうして西園軍を作った。牧というものも作った。監察を担う州刺史と異なる、強固な軍権を持った州の長官である。

——陛下は、いったい。どこへ行こうとしておられる。

 鄒靖は追撃隊に続き車を進めた。黄巾軍はもう退却しはじめている。びゅうびゅうと強い向かい風が吹きつけ、夜闇のなかに炎と鄒靖の白髭を揺らした。そのとき鄒靖は、先より近く迫った騎兵のなかに、ただ一曲、変わった動きを見せる集団があることに気づいた。目をこらすが、黄巾に迫っては矢を放ち、一撃離脱を繰り返しているため仔細が見えぬ。まるで胡兵の戦法だ、と思った。

「どこの、一団だ」

 鄒靖は、近く馬を駆る物見兵に尋ねた。周囲は炎で充分に明るい。

「官軍では、ないようです」兵士は目を細めて答えた。「——あれは、蒼。みな、身体のどこかに、蒼い布飾りを巻いております。私兵の一団であるようです。旗は……」

「どうした」

「旗に名が、ありません。蒼い戦旗に、黒く、鬼の紋様だけが記してあります」

「獣か」

 鄒靖は云って、違和感を覚えた。烏丸も鮮卑も、崇めるのは中華の鬼ではない。獣である。

「もしや」鄒靖は呟いた。「人と獣の、混成軍か……?」

 炎に照らされ、驚きに満ちた鄒靖の視線のはるか先に——馬上に弓を構えた男の、蒼い外套が鮮やかに揺れた。



 暗さの中に右手の指輪が閃いた刹那、劉備が馬上から放った矢は、すでに敵兵の額を射抜いていた。先の平原での戦同様、騎兵で構成された部隊一曲を率いている。一年のあいだ劉子平の荘園を守りながら力を養い、また、官軍の募兵に応じて挙兵したのだ。

 がなり声、平原が燃えている。風に揺れる馬のたてがみの周りを、小さな白い花のように雪が舞っている。横から敵の矢が頰をかすめた。反撃が激しくなったようだ。劉備は続く配下に下知し馬首をかえした。他の官兵から独立し少し戦線から遠ざかり、また、隊列を整え列の首を返す気だったが、おもむろに近くで胡角が鳴る。見ると並走している関羽だった。薄青色の胡服を着て、烏丸兵を引き連れこちらを見ている。

 行かせろ、とその眼が云っていた。遠く右方を眺めると、燎原の火に照らし出された黄巾軍の隊列は、入り乱れ隙だらけのように見える。劉備は、関羽の一馬身後ろに続く烏丸の老人をちらりと見やった。行けるか、と目で問う。老人は頷いた。自らの勇猛さをと云うより、関羽の背を信じきっているようなまなざしだった。劉備は手綱を握り笑った。

「てめえら、駆けるぞ! 一分たりとも遅れるな!」

 一団は雄叫びをあげ戦火の中心へ向かって行った。炎の明るさを負った黄巾兵が蟻のようにこちらへなだれ向かってくる。目先の関羽が斬馬刀を無造作に薙いだ。それだけで敵が血を噴いて倒れた。大鷲が空を舞うときの美しさに似ていた。劉備はそれを嬉々として見ていた。烏丸兵は関羽が、それ以外の兵は劉備が率いている。劉備が烏丸の矢により傷を負い、伏せっていた二月ほどのあいだに、隊の先鋒はすっかり関羽の役目になったのだ。だが劉備は、それを悔しく思わなかった。

 “無冠の王”の責務として、自分は誰より難事に当たり、追随する信徒たちを導かねばならないと思っている。これまで己が手で、行くべき路を切り拓いてきた意地もある。そんな己が先鋒役を関羽に譲ることができたのは、烏丸兵を率いる彼の、月下に蒼い剣筋を伸ばして敵へ駆けゆくその姿が、彼のためぴったりとあつらえた衣服のように、これ以上ない美しさを放っていたからだと劉備は思う。

——そうだ。すべては、あの男のためこしらえられた必然なのだ。

 自らも剣を振り、突入の態勢を整える烏丸隊の補助につきながら劉備は思った。いま、この場にあるすべては、全てがあの子供のため在る必然なのだ。自分と彼が出会ったこと、烏丸の老人が自分との同盟を受け入れたこと。そして、関羽が自分の命を救ったことも。

 烏丸の穹廬群から戻ったあの朝。意識もないまま帰営した劉備は、十日ほど生死の境をさまよい目を覚ました。医者は奇跡だと云った。傷が開いて血を流しすぎた、関羽が帰りの車内で止血を試みていなければ、まず助からなかっただろうと。

——『俺は赤龍の血を引いている、元より死なぬと決まっていた』

 枕元で涙ぐむ部下たちへ向け、劉備は強がってそう云った。実のところは指一本も動かせなかった。部下は多く劉備の生存を奇跡と謳い、鬼神そのものを見るように劉備を見たが、その奇跡を己にもたらしたのは関羽なのだ、と霞がかった頭で劉備は思った。そして数刻後。田豫に連れられやっと幕内に現れた関羽の、およそ人間離れした冷たい眼を見あげたとき。劉備は己が、関羽を強く必要としていることに気がついた。

 古の時代。強き王の隣には、いつとて強き鬼神がいた。中央では天子が祭祀を担い、祖父の荘園ではあの霊木が祀られた。自分もまた無冠の聖王で在るために、関羽と共に在らなくてはならない。

 劉備は剣をしまい、二本の脚で強く馬の腹を締めつけた。慌てふためく黄巾軍の本陣がすぐそこにまで迫っている。打ちつける風、吹雪。指揮官の乗る車が近く見える。戦火の中にきりきりと迎撃の弓が引かれている。胡角で連携をとり一度関羽の前方に出た。隊ごと矢を射る。それで敵の弓隊がひるんだ。劉備は馬首を返し離脱しながら叫んだ。

「——烏丸隊!」

 刹那、関羽とすれ違う。一団揃いの蒼布で結った長髪をなびかせ、敵へ突撃する仔狼の横顔はただまっすぐに彼方だけを見ている。それでいいのだ、と劉備は思った。烏丸隊は蒼い隊証をなびかせ、赤黒い夜と官兵と、黄色い敵軍のごった返す血なまぐさい奔流の中を、閃光のような疾さで駆け抜け、瞬く間に人混みの深奥へ飲まれていった。

 そうして。闇夜に咲いた小さな赤い花のように、篝火に照ってぱっ、と噴き上がる血柱を、劉備が遠く認めたその瞬間。関羽の振るう斬馬刀は、敵将の首を叩き落としていた。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る