三、放浪者 6


《西暦一八八年 八月 後漢 豫州よしゅう沛国はいこく



 開けた森に立つ百日紅サルスベリの樹の上に、口紅色の花が揺れている。蝉声の降りそそぐ緩い斜面を、木漏れ日の合間を縫って一騎が通る。木々を揺らして草を薙ぎ、夏の嵐をまとったような勢いで、孟徳を乗せた栗毛の馬は、荘園の丘陵地帯を駆け下りて行った。

 姓を曹、名を操、あざなを孟徳。三十四才。若くして隠居の身である。生家の沛国曹氏は前漢より続く大豪族であるが、その当主曹嵩そうすうの長子という身分に比して、この沛国しょう県に構えた住居は小さい。幾棟居並ぶその別里に建つ父の豪邸の離れのようなものであって、帰郷を告げたその日にお前は面倒ばかり起こすからどうか離れて暮らしてくれと、今しがたもいだ梅の実でも投げ渡すような調子で、父から与えられたものである。

 あぜ道の向こうに屋敷を抱く里が見え、近辺の田畑では柔くなった雨季の粘土を数百の小作人たちが耕している。孟徳は程なくまちへ着き、屋敷の古びた門をくぐった。勢いよく下馬すると、鞍の後ろに弓とくくりつけてあった兎の死骸を高く掲げて

「おぉい」と、正面の本堂へ大きく呼ばう。「おぉい、私だ。帰ったぞお!」

 堂の向こうにある中庭の方から、従父の曹瑜そうゆが顔を出した。おっとりして能のない男で、高官揃いの一族中では数少ない無官である。二月ほど前、金で買った官職を放り出して戻った孟徳の父の邸に住んでいるが、同じ無職のよしみからか時折孟徳のところへ遊びにくる。

 因みに、父が買った官位は皇帝に次ぐ三公の大尉で購入額は一億銭(約五百億円)。三公になるためそんな大枚を費やしたくせ、戦は止まぬし朝廷はごたごたしているし、宮廷の植木が倒れたとか、落雷があって洪水があったとか、星の位置が乱れ天がお怒りになって鬼が生まれたとか、そんなこんなで危険を感じ、半年も経たず辞職して戻ってきた。父上ずいぶん無駄な買い物したよなぁ、だからあれほど止めたのに。というのが、孟徳の率直な所感である。

 しばらく黙っていた従父が、やがて呆れた様子で口を開いて、

「なんだ、その格好は」

 とこれまた呆れた口ぶりで云った。無理はない。大豪族の倅であるくせ風格皆無の格好であった。御曹司らしく顔立ちは穏やかで上品であるが、冠も被らず髷を白い布で包み、泥だらけの袴を膝下までまくり上げている。上等な薄い柑子色の着物と、袖無しの柿色の上着の裾にも泥が跳ね、もはや地主の豪族というより近所の悪童じみた様相であった。それがまた、ぼさついた髪を適当にまとめ無精髭を生やした、身の丈七尺(一六〇センチ)にも満たぬ威厳ない見目と合わさって、どうにも抜けて見えている。

「いやあ。沼にはまりましてな」

 孟徳は苦笑いした。

「は?」

 曹瑜が目を丸くする。

「天気が良いんで詩でも書きたくなりましてなあ。こればかりは文人のさがというか」孟徳は構わず、後ろ頭をぼりぼりと掻いてへらりと笑った。「紙と鉛筆(鉛の芯)片手に森を散策していたところ、雨上がりの沼にはまりまして。周りばかり見て足元を疎かにしていたとは。いやあ。兵法家としてお恥ずかしい限りです。アッハッハァ〜」

「かつて世の人々は、若き日のおまえの才覚を“非常の人”なんぞと語ってもてはやしたものだがなあ」従父はそう云って額のしわを揉んだ。「なるほど確かに常ならざるものだよ、おまえは。私にはまるで理解ができん」

 従父はそうしてため息をついたが、やがて何か思い出したように

「そうだ、孟徳」と顔を上げた。「侍御史じぎょし(朝廷の監察官)の袁殿が訪ねてきている」

「はて、本初が?」孟徳は目を丸くして云った。「そんな話は届いておりませんが」

「うん、先に私も謝られたよ。急に参って申し訳ないと。いやあ、さすがはこの国随一の名門の出、懐の深いお方だなあ。初対面で無官の私にすら、己の父に対するように接される。おまえと違って立派な方だよ」

「そうは仰られても」孟徳は口を尖らせ肩をすくめた。「私にまるで威厳がなく、彼に大した風格があるのは、蟋蟀こおろぎに羽が無く、蜻蛉とんぼに羽があるようなものです。蜻蛉とんぼは自在に大空を飛び、蟋蟀こおろぎは地において美しく唄う。どちらが劣るという話でもありますまい」

 従父は何か云いたげだったが、孟徳は更に付け足して

「まあ、ともかく私は急ぎますゆえ。おじ上はこいつを腐らんうちに厨房に運んで、酒の肴の炙り肉にでもしておいてください。じゃ」

 と云うなり、血潮のしたたる兎の屍を従父に投げ渡しざま駆け出した。ばたばた走る孟徳の背後で、ぎゃぁっ、と耳をつんざくような従父の悲鳴が、屋敷の庭にこだました。



『政界に疲れた、二十年経ったら仕官する』

 孟徳がそう宣言したのは、かれこれ二年以上も前のことだ。

 それまで忙しない日々を送ってきた。十代の頃は放蕩三昧していたが、師に性根を叩き直され二十才で孝廉に上った。都の北部尉(県の軍事官)となり違法者を厳しく刑殺したが、それが皇帝の寵愛を受ける宦官の叔父で都を追い出された。親戚のごたごたに巻き込まれ罷免されたのち議郎(政治学者)として呼び戻され、政情を非難する上奏もあげるが通らない。黄巾鎮圧に功を上げまだやれると思ったが、次の赴任先で心が折れた。邪教汚職を取り締まり、官吏の八割を罷免して怪しい祠を全て破壊したところ、郡中から猛反発に遭った。全てを放り出し、病を理由に隠棲した。

 思えば孟徳十二歳の頃、党錮とうこの禁から全ては始まっていた。皇帝の権威を笠に着る宦官が、皇帝の妻一族である外戚や、儒教を重んじ宦官を蔑む豪族名士らを捕殺した。豪族を味方につけようともくろむ外戚、外戚排除を存在意義とする宦官、多数の豪族。各々が各々の思惑で動き、政権奪取を狙う動きが幾度となく繰り返された。

 ここまで話がこじれると己にできることは何もない。孟徳はすっかり匙を投げた。目先のことに集中するのは得意だが、物事の後先を考えるのは苦手なのだ。三つ巴の政争のどこにも加担したいとは思わない。孟徳自身、儒者の派閥内で職を得てはいたものの、父が宦官曹騰そうとうの養子であった。

 宦官の孫に生れたことは、あまり引け目に思っていない。祖父は四代の皇帝に仕えた宦官であったが、常に沢山の人に囲まれていた。皇后府を取り仕切る宦官の最高位、大長秋だいちょうしゅうにまで昇り詰め、賄賂を受け取らず、政敵であろうと優れた人物を抜擢するのを何より好んだ。その幾人もが朝廷の高官に昇ったが、恩に着ることは一度もなかったと云う。

 そんな曹騰の推挙した豪族の一派に、師の橋玄きょうげんもいた。厳格な法律家にして高句麗を討った名将。孟徳は彼に憧れ、彼を真似してまつりごとを行った。橋玄もまた孟徳の才を高く評価し家族同然に扱い、しばしば家に招いて美味い飯を食わせてくれた。孟徳に、評を受ければ必ず出世するとまで云われた人物評価の大家、許劭きょしょうを紹介したのも橋玄である。『汝は治世においては能臣、乱世においては奸雄となる』。孟徳は許劭の評価を受けることにより、晴れて名士となり孝廉へ上がった。

 祖父は男のしるしを失い儒教に背く宦官となったが、宦官として真っ当に生きた。その人の輪は孟徳にも受け継がれ、かけがえのない遺産となって今に活き続けている。世の中には、外聞や意地などよりももっと大切なものがある。だから孟徳は、興味の赴くままあらゆることを気まぐれに学んだ。詩を詠み碁を打ち、古今の兵書を編纂して『接要せつよう』と名付けた。音楽を奏でるのも好んだし、作図や、書道、薬学や博物学も好きだった。

 世の中には思い通りにいかないことも多くあるが、それならそれで、楽しみようも多くある。孟徳は、人生を楽しんでいた。


 孟徳がどたばた客間に駆け込むなり、振り返った袁紹えんしょうが、

「随分とまた、変わった格好だな」

 動ぜず呆れたように云った。窓から差し込む夏の日差しに、蝉の透かし彫られた冠が煌めく。孟徳とは真逆の、威厳ある見目の男である。象や鳳凰の描かれた焦茶の袍を恰幅よい体躯で着こなし、黒々とした髭と力強いまなこには、男たるものかくありたい、と万人に思わせる、大した風格と自信に満ちた輝きがあった。

 しかし孟徳は、

「いや、すまんすまん。山に出ていた」と、そんな袁紹へ謝りながら「一服、いいかな?」

 と、窓明かりを指して口にする。九才年上の兄貴分だが、改まった言葉遣いは要らぬと云われていた。

「火を点けたら、座れ。話がある」

「はぁ」

 孟徳は窓辺に寄り腰の革袋から煙管を出した。角度を調節しながら陽燧ようすい(火点け用の携帯手鏡)を日に向けると、反射光に照らされた薬草の玉がほどなくして煙を上げはじめる。孟徳は息を吹き込み火種の勢いを強めながら、しゃんと背の伸びた袁紹の座姿をちらりと見た。

 袁紹、あざなを本初。党錮において宦官に抗った名士の一人だ。四代連続で三公を輩出した後漢随一の名家の出だが、党錮のしばらくのち野に下り、契りを交わした仲間を率いて自ら士大夫を救出して回った。そうした士大夫たちは、黄巾の乱を期に政界からの追放が解かれるまで在野に暮らし、仲間内で人物評価を繰り返して派閥を固めた。孟徳を“治世の能臣、乱世の奸雄”と評した名士許劭は袁紹と同郷であり、師と共に古くから孟徳を評価した名士何顒かぎょうは、士大夫救出に加わった袁紹の親友である。要は袁紹は、孟徳にとって己の属する派閥の親玉のような存在なのだ。

 見事な縁故社会だが、仕方がないのやも知れぬ。孟徳は煙管をふかし袁紹の正面に腰を下ろした。どこぞの名士が誰それを評価した、評価された人間が今度はその名士の子を引き立てた、中華の人間関係というのは、得てしてそういう風に繋がっていくものだ。

「孟徳」

 上座に座した孟徳へ、袁紹は性急に切り出した。

まつりごとに、戻る気はないか」

「なんだ、いきなり」孟徳は顔をしかめた。「あんなもの、もうごめんだ。どこぞの誰かがどうにかして、今の政情をまるきり変えでもせん限り、私は隠居を満喫するぞ」

「男として、その打破を己が手で為し遂げるつもりはないのか」

「今までさんざ上奏文を送ったが、陛下の足元にも上がらなかった。もーう嫌だ」

「国家の大事だ。獣が中華の土を荒らしている」

「勝手にしてくれ」

 孟徳は煙管を吸い上げそっぽを向いたが、

「あ、そうだ」一言云うと思い出したように「隠居といえばだ。見てくれ本初。余った時間で近場を回ってな、一帯の地形図を書いてみたのだが」

 と、鼻から青い煙を抜いて、得意げに一枚の図を広げて見せた。袁紹はそれを、迷わず勢いよく破り捨てる。

「ああ〜……貴重な紙が……」

「貴様。この戦多き時代に、図師の真似事をしてくたばるつもりか!」

「いやあ、詩人や楽師や、それから薬師の真似事もしているぞ」孟徳は袖から揚々と、香草を詰めた香り袋を取り出す。「ほら見てくれ、この香り袋も自分でだな」

 袁紹はそれももぎ取り床へと叩きつける。そうして意気消沈する孟徳を尻目に、だんっ、と叩いて立ち上がると

「国家の‼︎ 大事なのだ‼︎」

 と、孟徳の耳を引っ張り無理から立たせて怒鳴りつけた。自慢の大音声に、客間の古柱がびりびりと揺れる。

「あだだだだっ、本初、本初‼︎ 耳が! 耳が裂ける‼︎」

「それで貴様の気が変わるというなら、この場で耳の一つや二つもいでくれるぞ‼︎」

「そういうところだぞ本初ぉ‼︎」孟徳はやっとの思いで袁紹の手から逃れると、耳を押さえて後ずさり、哀れな涙声で云った。「それが人に物事を頼むときの態度か⁉︎ 昔、周の文王は渭水いすいにて釣りをしていた太公望を、その釣りが終わるまで待っていたという話がある。賢者を見出すものというのはそれほどの寛大さを持って然るべきだというに。そなたは昔っから剛気に過ぎるところがある」

「そうか」

 袁紹は腕を組み、憮然とした表情をぴくりとも動かさず云った。

「であらば殺す」

「は?」

「お前が来ぬと云うなら、ここで殺す。お前の細君や父君へのけじめとして、俺もこの場で首を斬る。それで手打ちよ、阿瞞あまん(曹操の幼名)」

「まったく手打ちになっていない」

 孟徳は呆れて云ったあと、

「だがなあ、どうしろと云うんだ」心底困り果て、また座り込んで煙管を咥えた。「不埒ふらちな宦官におもねらず違法者を打ち殺したり、怪しげな廟を打ち壊してみたり、不正を犯した郡吏を全て罷免してみたり……私なりにやってはみたが、結局ほうぼうからの理解は得られず、家族が報復に遭いそうになるばかりであった。結局国家というものは、君主が動かねばどうにもならん」

「だから俺が、ここへと来たのだ」

 先までのいかめしい顔とは一変、その言葉を待っていたと云わんばかりに、袁紹は胸を張ってにやりと笑った。

「はァ」

「朝廷にお前の才を説いて来た。それはもう、存分にな。近々お前に校尉の位が与えられる。この国初めての、中央軍の校尉の座がな。あの腐れ皇帝め、ようやく重い腰を上げよった」袁紹は興奮に掠れる声と共に、拳を固く握って云った。「我らはやっと、世を建て直すための、大いなる一歩を踏み出せる」

「なんだ」孟徳は素っ頓狂な声と共に起立した。「それを早く云ってくれ、本初——おぉい、おぉい、誰かいないか」

「なんです。国相こくしょう(郡太守)にまでなったお方が、そんなみっともない大声を出して」

 奥の戸を開け現れたのは、妻のてい夫人である。連なるように、三歩下がったところから愛妾のべん姫もひょこりと顔を出した。顔立ちからして気の強い丁夫人とは対照的に、泣きぼくろとふっくらした唇が印象的な、おっとりした長身の美女である。

 袁紹は二人の姿を認めるや微笑み、いち早く丁寧に頭を下げた。身内には荒っぽいが、世俗には謙虚な彼のことだ。女だからといってぞんざいに扱ってよいとは思っていないのだろう。二人もまた丁寧な仕草で礼を返す。孟徳は卞姫に笑って手を振ったが、丁夫人にきっと睨まれ亀のように首をすくめた。

「今から出る」孟徳はぎこちなく苦笑いし、遠慮ぎみに丁夫人へ云った。「門の前まで馬を引かせてほしい。旅支度も」

「いずこへ行かれるのです」

「都だ」

「まあ、呆れた。ここから都まで、八百里(三二〇キロ)以上もあるのですよ。それをよく、近くの野山に狩りに出るような調子で仰いますこと」

「奥様。お気持ちも分かりますが、そうお怒りにならずとも」微笑んだ卞姫がおっとり仲裁し、「侍御史がいらっしゃったということは、朝廷からの御用でしょうか?」

 と、袁紹の方を振り向いてゆったりした声色で問うた。袁紹も拱手し頷いた。

「いやはや。お二方とも孟徳めには勿体無いほど、才色兼備なる女人であられる。お察しの通り。近々、孟徳はまた官位を賜ることになるでしょう。それも武官です。“獣”が、北で暴れているのですよ」

「まあ、獣が」

 丁夫人が、袂で口元を隠し顔をしかめた。

「そう案じめされるな。良い兆しですぞ、奥方。戦働きをさせれば、この男はかの衛青えいせい霍去病かくきょへいにも劣らぬ功を立てることでしょうからな」

「まあ、そういうことだ」

 袁紹の助け舟をこれ幸いと、どたどた出て行く孟徳へ、

「支度くらいは落ち着いてやれよ」袁紹は床上に取り残されていた香り袋を拾って投げ渡した。「よい香りだ」

「だろう?」

「ああ。行きしな、配合のほどを聞かせてくれ。新作の詩についてもな」

 袁紹は腰に手をやりにっと笑った。せっかちで、強引で、豪放すぎるきらいのあるこの男だが、やはりこういうところで度量が広いから慕われるのだろうなと、孟徳は忙しなく駆け去りながら、他人事のように考えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る