三、放浪者 5
《西暦一八八年 後漢 涼州漢陽郡》
天は高く、地は広い。三百年前、この地に漢軍の建てた監視塔の露台からは、漢の最西に広がる涼州の大地と、そこに暮らすひとびとの暮らしぶりがよく見下ろせた。
蒼天のもと広がる大地の上に、遥か “絹の道”へと続く走廊が、険しく凍りついた山々の合間をうねりながら伸びている。長い路の傍らには
その、ひときわ遠くの地平近く。舞い上がる砂塵の向こうに、向かい来る
「どうした」
と、背後より声があった。韓遂はびくりと振り向いた。露台の入り口に、
馬騰は翳りから出で、のそのそと韓遂の隣に歩み寄ってくると
「変わりがあったか」
とまた、くぐもったような低い声で問うた。
「無い」
韓遂はすっぱり答えた。
「お前は肝の据わった男だ」馬騰は韓遂の傍らに立ち、かつて貧しかった時代の彼自身が、木こりをしていた東方の山脈を遠く眺めた。「私のように
馬騰は韓遂へ微笑みかけ、韓遂はまた彼から目を逸らした。視界の端で、細かい砂まじりの乾いた風が、羊皮で作られた互いの戎衣を揺らしている。戎衣は漢服にも似ていたが、漢人が好まぬような真紅と濃青の鮮やかな縫い取りがしてあって、日に焼けた肌や、奇妙に張り出した堅い額や、その下に小さく光る温厚な驢馬のような眼をもつ馬騰に、よく似合っているのだった。
——俺に、この服は見合っているのか。
韓遂は、尖った帽子を被り青い眼をした
「……勝てると思うか、王国は。漢軍に」
と云った。友軍の王国という男が、兵を引き連れ陳倉へと向かっているのだ。陳倉は司隷と涼州の間に位置し、漢にとっては防衛の要となる要塞である。烏丸が漢と争うこの隙に落とすこと叶えば大きいが、朝廷もそんなことは承知の上。反乱を迎え討つ将として、国家の主力を投じてくる。
白羽が立つのは、恐らく皇甫嵩と
黄巾の乱を鎮めた天下の名将、皇甫嵩。兵法を知り尽くし武勇に優れ、無欲で人の心をよく掴んだ。董卓は皇甫家に仕える小役人の家柄であるが、羌の生まれですさまじい膂力と武勇を誇り、涼州で恐れられる猛将であった。にも関わらず汗水垂らして畑を耕し、己の家畜を喜んで羌にふるまう
三年前の涼州反乱の折、彼らの凄まじい奮闘ぶりは韓遂に帝国への恐怖を刻み込んだ。皇甫嵩と董卓だけでない。屈強で知られる揚州の豪侠、
「今の皇帝は、世間の者どもの申すような暗愚でない」韓遂は震える声で云った。「并州で匈奴が分裂し、幽冀青州を烏丸に蹂躙されたこの時勢、我らを野放しにしては国家の死活に関わると心得ておる。悠長なことはせん、間違いなく我らを叩き潰しに——」
「さて、な」
馬騰が韓遂の言葉を遮る。はたと仰ぎ見た横顔からはその思惑は読み取れない。この男の思惑の分かり辛さは、漢人と異なるその羌族らしい面立ちから来るものであろうか。そう考えたところで、韓遂は密かに自嘲した。羌の血など、己の身にもどこから混じっているか定かでないからだ。
三百年前。匈奴を討ち羌を傘下としたかの武帝は、この地に涼州を建て中原から多くの民を移住させた。前後漢を通した総移民数は百万を超え、それらは屯田兵として涼州に多くの
涼州西の金城郡に育った韓遂もまた、そうした移民の子孫としてこの地の紛糾を目の当たりにしてきた。賄賂が横行し、羌の貧族が漢豪族の配下に組み込まれ、騎兵として使役されたり奴婢として扱われたりするさまも見た。ただし韓遂は、それに同情の念を向けることはなかった。
韓遂は、元の名を
『奴らは名うての能吏であったと聞いている。我らの軍政を委ねてはどうか』
獣というものは分からない。韓遂は赤黒い血と恐れにまみれた妻子の痛ましい死に顔と共に、あのときの光景を夢に見るたび、うなされ跳ね起き、震える手で額の汗を拭ってそう思う。漢人の倫理の及ばぬ思考。その得体知れぬものに俺は生かされ、愛する妻子と死に別れ、こうして不甲斐なく生きている。妻は三人目の子を孕んでいて、上の子は九つ、下の子は六つの兄妹だった。
辺允と二人で王国を騙し、官軍に助けを求めようかとも考えた。しかし漢にはもう、自分たちが漢に叛いて羌を率いたと誤報が流れていた。賞金首になり、中華に己の居場所などないのだと悟ったとき、韓約は辺允とともに名を変えた。韓遂と辺章と名乗った。
韓遂はもう一度、己の傍らにいる馬騰を見やった。放牧に勤しむ羌の民を見下ろす男の眼は、戦時に見せる勇敢さとは異なる、柔らかな慈愛に満ちている。
馬騰と出会ったのは、昨年のことだ。彼も元は漢の役人で、辺境を平定した悲運の名将
『刺史は汚職役人の言を重んじ、羌を苦しめた無能であった。私は功を立て貧しさから抜け出すため漢軍にいたが、刺史が殺されたのは天命だと思った。昔、秦から逃れた我らが祖、
そしてこうも云った。
『武帝は西域の統治を試み、和帝の使者は
己と似た立場にありながら、獣として生きる道を堂々選んだ彼のことを、韓遂は心から眩く思った。宙ぶらりんの己を憎み、己を現状に追いやった王国や、妻子を殺した羌や、羌の血を誇る馬騰のことを殺したいほど恨めしくも思った。しかし韓遂は馬騰と義兄弟の契りを交わし、表面上では親しく装った。馬騰の野望に、乗じる価値はあると考えたのだ。
洛陽と長安の間に置かれた
——中華に隷属するには、この地はあまりに豊かであり、羌は大地の広さを知りすぎている。
官軍を討って涼州を潰す——馬騰と韓遂の目的は合致した。しかし韓遂はそれに加え、いずれ己が馬騰を殺しこの地に王として割拠することを望んだ。屈強な羌兵と絹の道さえあれば。九百年前、羌の祖が周王朝を滅ぼしたように、己もまた天下に覇を唱えることができるのではないかと思ったのだ。
——死した家族を夢に見ながら、この期に及んで、俺は新たに野望を抱いている。
韓遂はまた己を嘲り、ふと馬騰の視線を追った。雑然とした羊群の中を独りの男子が馬に跨り駆けて行く。彼は手にした弓で面白半分に
「超!」馬騰が小ぶりの竹笛を吹いて怒鳴った。「いたずらに羊を殺すな! 我らに恵みを運びくるものぞ!」
息子の馬超はむすっとした顔を父へ向けると、まもなく己の穹廬へと駆けてい行った。ため息をつく馬騰と遠ざかる馬超の背が、いつかの日の己と息子に重なって見えた。韓遂は背負った弓へ手を伸ばしかけた。年近い我が子が無残に殺され、どうしてあの馬超が生きている。しかしどうにか抑えると、羊の群れへと目を逸らした。
——“外”の獣は、やはり大きい。
韓遂はまだ子が生きていた頃、洛陽に己が計吏(決算の使者)として赴いた際に、華内で目にした羊のことを思い出した。あの小柄でのろまな羊。角も小さく常に群れ、仲間が襲われるや一団となって駆けめぐるその姿のなんと弱々しいことか、なんと御しやすく愚かなことか!
しかし韓遂は
——否。
と何か、天啓を受けたかのようにはっと想った。
「……俺にも、
韓遂の漏らした呟きを聞いて
「でなければ私は、お前を兄弟だとは認めんかったろうな」
すべては分かっていたとでも云うように、馬騰はまた穏やかに笑った。
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