三、放浪者 5


《西暦一八八年 後漢 涼州漢陽郡》


 天は高く、地は広い。三百年前、この地に漢軍の建てた監視塔の露台からは、漢の最西に広がる涼州の大地と、そこに暮らすひとびとの暮らしぶりがよく見下ろせた。

 蒼天のもと広がる大地の上に、遥か “絹の道”へと続く走廊が、険しく凍りついた山々の合間をうねりながら伸びている。長い路の傍らにはまちや駅舎が点在し、灌漑によって潤された初夏の畑の緑の合間を、大羊アルガリや駱駝、馬群、それらを追う辺境の人間たちが小粒のように駆け回っていた。

 その、ひときわ遠くの地平近く。舞い上がる砂塵の向こうに、向かい来る皇甫嵩こうほすう軍の赤い鎧が見えたように思って。まさか。と韓遂かんすいは遠方に目を凝らした。蜃気楼である。ほっと息をつき露台の囲いにもたれかかる韓遂へ

「どうした」

 と、背後より声があった。韓遂はびくりと振り向いた。露台の入り口に、馬騰ばとうが立っている。小屋根の翳りのなか、ざんばら髪を風に揺らし、八尺(一八四センチ)ばかりある体を動かす男を見て、西の獣はやはり巨大だと韓遂は思った。西域産の背の高い馬。茶色い毛皮と大角をもち、立ち上がれば身の丈八尺半(約ニメートル)もある逞しい大羊アルガリ。そして大羊アルガリの血を引くこの男。

 馬騰は翳りから出で、のそのそと韓遂の隣に歩み寄ってくると

「変わりがあったか」

 とまた、くぐもったような低い声で問うた。

「無い」

 韓遂はすっぱり答えた。きょう族どもは温厚で人望厚いとのたまうこの男だが、常から何を考えているのか分からぬところがある。手を組んで日が浅いのもあって、どことなく苦手な相手だった。

「お前は肝の据わった男だ」馬騰は韓遂の傍らに立ち、かつて貧しかった時代の彼自身が、木こりをしていた東方の山脈を遠く眺めた。「私のようにアルガリの子として漢に叛いたわけでなく、漢の役人であったのをさらわれ推戴されたというに。今や羌兵を勇猛に率い、こうして漢軍の精兵と相対している。かような男が、ただ裕と景色を眺めて立ち尽くしているわけはあるまい?」

 馬騰は韓遂へ微笑みかけ、韓遂はまた彼から目を逸らした。視界の端で、細かい砂まじりの乾いた風が、羊皮で作られた互いの戎衣を揺らしている。戎衣は漢服にも似ていたが、漢人が好まぬような真紅と濃青の鮮やかな縫い取りがしてあって、日に焼けた肌や、奇妙に張り出した堅い額や、その下に小さく光る温厚な驢馬のような眼をもつ馬騰に、よく似合っているのだった。

——俺に、この服は見合っているのか。

 韓遂は、尖った帽子を被り青い眼をした賈胡ソグド人(中央アジアのペルシャ系行商民)の商隊が、駱駝らくだに跨り、道を横切る大羊アルガリの群れをかき分けて進むさまを見下ろした。そうして呟くように

「……勝てると思うか、王国は。漢軍に」

 と云った。友軍の王国という男が、兵を引き連れ陳倉へと向かっているのだ。陳倉は司隷と涼州の間に位置し、漢にとっては防衛の要となる要塞である。烏丸が漢と争うこの隙に落とすこと叶えば大きいが、朝廷もそんなことは承知の上。反乱を迎え討つ将として、国家の主力を投じてくる。

 白羽が立つのは、恐らく皇甫嵩と董卓とうたくであろう、韓遂にはそれが分かっていたのだ。

 黄巾の乱を鎮めた天下の名将、皇甫嵩。兵法を知り尽くし武勇に優れ、無欲で人の心をよく掴んだ。董卓は皇甫家に仕える小役人の家柄であるが、羌の生まれですさまじい膂力と武勇を誇り、涼州で恐れられる猛将であった。にも関わらず汗水垂らして畑を耕し、己の家畜を喜んで羌にふるまうおとこだてであったので、彼があちらにいるだけでこちらの離反者は増えゆくばかりだ。

 三年前の涼州反乱の折、彼らの凄まじい奮闘ぶりは韓遂に帝国への恐怖を刻み込んだ。皇甫嵩と董卓だけでない。屈強で知られる揚州の豪侠、陶謙とうけん。わずか十七歳のとき海賊を討ち取った烈士孫堅そんけん。その戦いぶりは、獣をも圧倒する烈しさであった。

「今の皇帝は、世間の者どもの申すような暗愚でない」韓遂は震える声で云った。「并州で匈奴が分裂し、幽冀青州を烏丸に蹂躙されたこの時勢、我らを野放しにしては国家の死活に関わると心得ておる。悠長なことはせん、間違いなく我らを叩き潰しに——」

「さて、な」

 馬騰が韓遂の言葉を遮る。はたと仰ぎ見た横顔からはその思惑は読み取れない。この男の思惑の分かり辛さは、漢人と異なるその羌族らしい面立ちから来るものであろうか。そう考えたところで、韓遂は密かに自嘲した。羌の血など、己の身にもどこから混じっているか定かでないからだ。



 三百年前。匈奴を討ち羌を傘下としたかの武帝は、この地に涼州を建て中原から多くの民を移住させた。前後漢を通した総移民数は百万を超え、それらは屯田兵として涼州に多くのまちを作ったが、原住民の羌族はこれに反発。以来涼州の情勢は混沌とし、複雑怪奇を極めている。

 涼州西の金城郡に育った韓遂もまた、そうした移民の子孫としてこの地の紛糾を目の当たりにしてきた。賄賂が横行し、羌の貧族が漢豪族の配下に組み込まれ、騎兵として使役されたり奴婢として扱われたりするさまも見た。ただし韓遂は、それに同情の念を向けることはなかった。

 韓遂は、元の名を韓約かんやくといった。故郷は羌と漢人の雑居する土地であったが、生家は漢の豪族であり、韓約もまた郡の役人として朝廷から評価された。転機があったのは三年前の涼州反乱のときのこと。黄巾の乱による混乱に乗じて羌が金城郡へと攻め寄せた。獣どもは韓約ともう一人、辺允へんいんという男を人質にとり、羌の監視役であった護羌校尉ごきょうこういを殺してしまった。目の前で韓約の妻と子も殺され、自身も殺されるのかと思われたとき、賊軍の中にいた王国が云った。

『奴らは名うての能吏であったと聞いている。我らの軍政を委ねてはどうか』

 獣というものは分からない。韓遂は赤黒い血と恐れにまみれた妻子の痛ましい死に顔と共に、あのときの光景を夢に見るたび、うなされ跳ね起き、震える手で額の汗を拭ってそう思う。漢人の倫理の及ばぬ思考。その得体知れぬものに俺は生かされ、愛する妻子と死に別れ、こうして不甲斐なく生きている。妻は三人目の子を孕んでいて、上の子は九つ、下の子は六つの兄妹だった。

 辺允と二人で王国を騙し、官軍に助けを求めようかとも考えた。しかし漢にはもう、自分たちが漢に叛いて羌を率いたと誤報が流れていた。賞金首になり、中華に己の居場所などないのだと悟ったとき、韓約は辺允とともに名を変えた。韓遂と辺章と名乗った。まげを解いて戎衣を着、漢人人間としての名を捨てて、漢人に虫や蛇の同類とされる羌族と同じものになった。死にたくはなかった。最愛の家族も、漢人としての己も失ってなお、その妄執が韓遂を生かした。死なぬためなら何とでもする。韓遂は密かに拳を握った。王国はいずれ殺す、邪魔になることが目に見えているからだ。辺章もいずれ殺す、奴の持っている配下兵が欲しい。馬騰も、いずれ——。

 韓遂はもう一度、己の傍らにいる馬騰を見やった。放牧に勤しむ羌の民を見下ろす男の眼は、戦時に見せる勇敢さとは異なる、柔らかな慈愛に満ちている。

 馬騰と出会ったのは、昨年のことだ。彼も元は漢の役人で、辺境を平定した悲運の名将馬援ばえんを祖にもつ豪族である。家が落ちぶれ木こりで稼いでいたが、涼州反乱の鎮圧に功あり軍人となり、涼州刺史が殺されるや近辺の羌を連れ反乱側へ寝返った。己と同じく羌と漢人の間に育ち、漢から羌へ寝返ったこの男へ、韓遂は興味を抱いてその寝返りの理由を問うた。彼は云った。

『刺史は汚職役人の言を重んじ、羌を苦しめた無能であった。私は功を立て貧しさから抜け出すため漢軍にいたが、刺史が殺されたのは天命だと思った。昔、秦から逃れた我らが祖、無弋爰剣ムヨクエンケンを、不思議な虎の影が守ったのと同じように。私に流れるけものの血が、漢を見限れと告げたのだ』

 そしてこうも云った。

『武帝は西域の統治を試み、和帝の使者は大秦ローマに迫った。中華は“外”を侵食し、一部の羌は東へ移住を強いられている。私の母もそうした羌の女だった。漢と争い自由を求める羌の姿を、私は故郷で何度も見た。それに応えよとアルガリが云った。この世で最も貪欲な獣が、ねじれた角を突き上げ暴れ、何もかもを得ろと私へ云った。文約(韓遂のあざな)、私はな。涼州を潰し、羌を解き放って力を得るのだ』

 己と似た立場にありながら、獣として生きる道を堂々選んだ彼のことを、韓遂は心から眩く思った。宙ぶらりんの己を憎み、己を現状に追いやった王国や、妻子を殺した羌や、羌の血を誇る馬騰のことを殺したいほど恨めしくも思った。しかし韓遂は馬騰と義兄弟の契りを交わし、表面上では親しく装った。馬騰の野望に、乗じる価値はあると考えたのだ。

 洛陽と長安の間に置かれた函谷関かかんこくより西、関西かんせいと呼ばれるこの地には、 “絹の道”を通して珍品や馬が入ってくる、高度な農耕技術が入ってくる。有用資源である竹も多く得られる。秦の都咸陽かんようも前漢の都長安も、中原ではなくより“外”へと近い関西に置かれ、後漢の歴代皇后はその約半数が関西豪族より選ばれた。かつて秦が天下を統べたのも、劉邦が項羽を討ち漢を建国したことも、すべてはこの地を押さえたがゆえ。この世の覇者たる中華皇帝が“絹の道”を治むのではない。 “絹の道”が、中華に覇者を作るのだ。

——中華に隷属するには、この地はあまりに豊かであり、羌は大地の広さを知りすぎている。

 官軍を討って涼州を潰す——馬騰と韓遂の目的は合致した。しかし韓遂はそれに加え、いずれ己が馬騰を殺しこの地に王として割拠することを望んだ。屈強な羌兵と絹の道さえあれば。九百年前、羌の祖が周王朝を滅ぼしたように、己もまた天下に覇を唱えることができるのではないかと思ったのだ。

——死した家族を夢に見ながら、この期に及んで、俺は新たに野望を抱いている。

 韓遂はまた己を嘲り、ふと馬騰の視線を追った。雑然とした羊群の中を独りの男子が馬に跨り駆けて行く。彼は手にした弓で面白半分にアルガリの仔を射た。矢の命中を誇る男子の声が、限りなく広い天地のあいだに反響する。風がさわさわ緑を揺らし、腹を射られた羊がのたうち回り、周りの大羊アルガリはそしらぬ顔で一心不乱に草を食む。厳しい山地を生き抜くため、大羊アルガリの身につけた生への執着と類まれなる欲深さを、羌は古より崇め奉ってしとしてきた。

「超!」馬騰が小ぶりの竹笛を吹いて怒鳴った。「いたずらに羊を殺すな! 我らに恵みを運びくるものぞ!」

 息子の馬超はむすっとした顔を父へ向けると、まもなく己の穹廬へと駆けてい行った。ため息をつく馬騰と遠ざかる馬超の背が、いつかの日の己と息子に重なって見えた。韓遂は背負った弓へ手を伸ばしかけた。年近い我が子が無残に殺され、どうしてあの馬超が生きている。しかしどうにか抑えると、羊の群れへと目を逸らした。

——“外”の獣は、やはり大きい。

 韓遂はまだ子が生きていた頃、洛陽に己が計吏(決算の使者)として赴いた際に、華内で目にした羊のことを思い出した。あの小柄でのろまな羊。角も小さく常に群れ、仲間が襲われるや一団となって駆けめぐるその姿のなんと弱々しいことか、なんと御しやすく愚かなことか!

 しかし韓遂は

——否。

 と何か、天啓を受けたかのようにはっと想った。大羊アルガリが特異なのではない。中華の羊が小さいのだ。己にとって羊とは、華内に生きるあの愚鈍な獣でなく、この巨大な大羊アルガリなのだ。

「……俺にも、アルガリの血は流れているのか」

 韓遂の漏らした呟きを聞いて

「でなければ私は、お前を兄弟だとは認めんかったろうな」

 すべては分かっていたとでも云うように、馬騰はまた穏やかに笑った。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る