三、放浪者 4


《西暦一八八年 四月 後漢 幽州広陽郡》



 細切れになった雲の合間から、半円の月が覗いている。

 親しみ無い幽州の地に屹立する数千の車付き穹廬の、月光を遮った深い陰のはざまから、柸利へり少年は岩穴の隙間から空へと吠える狼のように、首をゆるりともたげて天を見上げた。肩には垂れた辮髪べんぱつが揺れ、剃り上げられた額には頬へと伸びる渦巻き紋様が描かれている。古来より中華と接し続けた北方の遊牧民、匈奴民族の習俗である。

——狼が、奔り出すのだ。

 柸利は刃物のように鋭利な半月を仰ぐと、己へ向かって云い聞かせた。古来より狼は月の満ちるに従って狩をする。月が満ちると馬に跨り敵を攻め、月が欠けると風のように軽やかに退く。高句麗の北から安息パルティアの向こうに至るまで、草原に生きる多くの民がその身に狼の血を引くように、柸利の中にもまた一匹の若い狼がいた。それは吼えている。——狩をしろ。敵を蹂躙し、荷を略奪し、女子供をさらって己の糧とせよ。己が戦士としてあるため、己が生きるための狩をせよ。

 柸利は今、その身におびただしい返り血を浴びていた。血は未だ生々しい水気と赤さを保って胡服に張り付き、顔に飛んだ飛沫は汗と混じって墨の紋様を溶かして垂れる。烏丸の血である。遥か昔から匈奴と領を隣にし、民や物資、土地を巡って争った民族ではあったが、今こうしてその一部を討ったのは匈奴の意思によるものではない。故にどれほど敵を屠ろうと、柸利の心は満たされぬ。

 今日における匈奴の幽州遠征。それは匈奴の生きるための狩ではない。烏丸に侵された幽州全土を取り戻そうとする、漢の命によるものである。

 匈奴はおよそ二百年前に漢に降って以降、外敵を討つため、内乱の鎮圧のため、漢の指図に従い北地を奔走してきた。それでも匈奴は狼だった。漢に心からは臣服せず、略奪を仕掛け烏丸や鮮卑と組んで幽并州を侵したこともある。ところが黄巾の乱以降、各地で反乱が頻発して以来、漢から匈奴へ兵の催促は絶えぬようになった。

 柸利は立ち込める暗闇の中に、憮然としたため息を吐き捨てた。人気なく静まりかえった夜営地の中に、細かな砂を踏み分ける革靴のくぐもった音を聞く。柸利はゆるりと振り返った。そこには胡服と鎧に身を包んだ、見慣れた従者の姿があった。

「柸利」従者は奇妙に突き出した左右の手を閉じたり開いたりしながら、明け方の尾根の陰にも劣らぬほどの青い顔で云った。「於夫羅おふらが呼んでいる」

「後で行く」憮然として柸利は云った。「女の様子を見てくる。おれが己で奪った、烏丸の女どもの顔を」

 柸利にはいま、女を抱くつもりは無かった。ただ先の戦にて戦利品とせしめた女どもの顔を見れば、少しは気も晴れ、この憤りもましになるかと思うたのである。だが従者は

「柸利!」

 と、狂ったように叫んで、柸利へ飛びかかった。衣服を掴んで揺さぶられ、柸利は従者を殴ろうと拳を振り上げた。しかし彼のわなないた唇から出でた小さな言を聞き、呆けたように拳を下ろした。

 『匈奴単于ぜんう羌渠きょうきょ死す——』

 柸利少年の下へその報せがもたらされたのは、身に被った烏丸の返り血も乾ききらぬ、戦直後の肌寒い早春夜のことであった。



「まことか、於夫羅おふら

 仮造りの階段を上り、広々とした車上穹廬の中に駆け込むなり、柸利は北の上座へ向けて問いかけた。背後で次第に強まる風が、闇の中に轟々たる唸りを上げている。

「このに偽りなど云うものか」

 胡座に腰掛けた於夫羅が重々しく口にした。長身で体躯の良い、壮年の男であった。鼻は高く目は落ち窪み、顔にはやはり墨紋、手袋を脱いだ素手には胸や背にまで伸びる神獣の入れ墨が刻まれている。脇に控える呼厨泉こちゅうせんも頷いた。於夫羅は柸利の父、呼厨泉は叔父である。匈奴には漢人と異なり、年長者を敬う習慣も名の呼び捨てを忌む習慣も無い。あざなも無く、孝も徳も必要とされぬ。尊ばれるのは若さと強さである。

 暑夏寒冬なる北の砂漠と蒙古草原の厳しさとが、匈奴のこうした習俗を作り上げた。乾地において放牧を営み僅かな草水を追って放浪を続ける遊牧民にとって、戦と略奪は己らの生きる糧を他から得るための重要な生業である。徳を尊んでも腹は膨れぬ。匈奴の戦士に求められるのは略奪を以って自らの血族を食わせる強さと器量であった。そして此度こたび死した羌渠きょうきょは単于と呼ばれる匈奴全体の君主であり、於夫羅はその第二子である。つまり柸利は単于の孫であるのだ。

「殺められたのだ、単于は」

 革帯についた絹の房飾りを指先で弄りながら、呼厨泉こちゅうせんが苦々しげに吐き捨てた。

休屠きゅうとの、部族どもにか」

「然り」呼厨泉が顔を上げ、力なく応える。「二月前の、反乱の報せは覚えているな」

 柸利は黙って頷いた。於夫羅の軍が幽州へ向かった後のこと、代々単于を担う攣鞮れんてい氏に隷属してきた幾らかの部族が、止まぬ出兵に怒り居住地である并州内で単于へ叛いた。小規模な反乱ゆえ、漢方の監督である使匈奴中郎将や并州刺史と共に単于一族がすぐ収める、とつらつら述べた連絡役の匈奴兵へ、柸利は当時云い様のない怒りを覚えたものである。匈奴の内紛を鎮めるのに漢の援けが要るものか。おまえや、おれや——匈奴の全ての戦士の身に刻まれた猛き獣の刺青が、そんな卑しい真似を望んでいると思うのか。

 苦い回想に表情をますます曇らせる柸利のことを、於夫羅は黙って見つめていた。柸利もまた黙って睨み返した。天幕の外からいっそう強まる風の唸りが聞こえている。

 口火を切ったのは、やはり瘦せぎすで気配りの細やかな叔父であった。

「反乱は、鎮めること叶わなかった。寧ろ増えた。休屠以外のさまざまな部族——果ては貴家たる我ら屠各とかく部族の一部も迎合したという。その数、十万に膨れ上がり、并州刺史も単于も攻め殺された」

「十万」柸利は噛みしめるように呟いた。匈奴の男は皆馬に乗り弓を射ることができる。十万の匈奴民の反乱とは、即ち十万の精鋭騎兵の反乱を指すのだ。「左賢王はどうした」

「行方が知れぬ」

「なれば戻ろう」柸利は今にも摑みかかるような威勢で云った。「并州へ戻ろう。単于を殺した者どもをすべからく殺し尽くし、女を奪い、墓を暴いて屍を日の下に晒す。それが匈奴の戦であるはずだ」

「戻れは、せぬ」

 於夫羅がようやく口を開いた。

「何故だ。匈奴の帝王たる単于は死に、その次位にある左賢王も生きてはおらぬだろう。なれば単于の号を継ぐ者は、匈奴第三の位にある右賢王於夫羅を除いて他にはおらぬ」

須卜しゅうほく氏の骨都侯(大臣)めを単于に立てる動きがあるという。諸部族にとって我らはもはや単于の後継たらぬのだ。漢の、援けを借りねばならぬ」

「於夫羅が単于の座に着くのに、何故漢の援けが要る! 強き狼が単于になる、それが匈奴の定めではないか。歯向かうものは殺せば良い、立ちはだかる壁は穿てば良い」

「ならぬ」父は淡々と云った。「今戻れば、単于が国に二人生れる。それはならぬ。忘れたか、柸利。匈奴はかつて単于の座を巡る内紛を経て南北に別れ、我ら南匈奴は北匈奴を征伐するため漢へ服従した。戦を経て北匈奴は遠く逃れたが、我らもまた漢という鎖に繋がれ草原の王者の座を失った。これ以上内紛を重ね権威をおとしめれば、我らは更に別たれよう。さすれば、何れ呑まれる」

「何にだ」

「中華に。……力を削げば、匈奴は消える。跡形もなく中華に呑まれる。かつて幽州や涼州に住まうていた幾つもの部族のように、漢人の服を着、漢人の税を納め、己の内を流れる獣の血を漢人のものと交えて失うであろう」

「なれば負けるな」柸利は叫んだ。「中華が恐ろしいか、於夫羅。ならば呑み込め、この国を。獣の胎に飲み込め! 爪牙を以って食い千切り、民をさらい、文明ごと己の糧としろ! 我らの祖はそうして来た。そうして生きてきたのだ、於夫羅!」

「柸利よ、若き狼よ。我らの蹄が流離さすらうのはもはや草原の青草の上でなく、あの万里の城によって囲われた、この中原の黄土の上なのだ。我らは烏丸を討ち、漢の沙汰を待つ」

 南匈奴の単于は代々そうして擁立されて来たではないか。於夫羅は柸利へ言い聞かせた。羌渠単于もまたそのようにして擁立されたのだと。

「臆したか、狩を忘れた漢の犬。誇りを忘れ牙を失い、主の手から喰う肉はそれほど美味いか」

 柸利は吐き捨て、乱雑に帳をくぐって穹廬を出た。

「——柸利!」

 階段も使わず、性急に地面へ飛び降りたところで背後から呼厨泉の呼び止める声が聞こえる。だが柸利は振り向かなかった。今すぐ叩き斬ってやりたい想いに駆られていたが、刃を抜くと死罪となる故それも叶わぬ。

 外はすっかり嵐めいていた。穹廬の重々しい幕が強風に揺れ、闇中には降りつける氷雨と風の唸り声だけがあった。だが身を切るような冷たさも、果てのない闇も、柸利には己の知らぬ懐かしき故郷へ——あの、壁の無い、無限の草原へ繋がっているように思えて愛おしかった。

「単于」

 柸利は穹廬の合間を縫うようにして歩き、吹きつける暴風のうねりに抗い、祈るような響きで云った。殺された祖父でも、ましてや父でもない。絶えず天地と共に在り続ける、単于という偉大な狼の魂そのものへ呼びかけていた。

 嗚呼、単于。——まことの名を撐犁孤塗とうりこと単于。広大なる天の子、という意味を持つ言である。古来、匈奴単于の力の及ぶ範囲は、中華の天子の比では無かった——。

 元来、漢は匈奴の属国であった。前漢の初代皇帝劉邦が匈奴の英雄冒頓ぼくとつ単于に敗れ、皇室の娘を冒頓へ差し出して以来、漢は匈奴と兄弟国の契りを交わし、匈奴へ貢物を捧げて来たのだ。

 当時匈奴の領は遥かに漢を超え、軍隊は精強で、“絹の道”を用いた西域との交易により国力もまた漢以上に強大であった。胡麻ごま胡瓜きゅうり胡姜しょうが、胡座、胡角——漢において胡と名のつく品々は、多くが“絹の道”、そして匈奴との交易により中華にもたらされたものである。

 ところが漢は恐るべき執念の下、匈奴を討つ準備を数代に渡り水面下で着々と進めていた。幽州等に住まう北地民へ馬の商いを奨励し、騎兵を増やすことに成功したのだという。そうして前漢の五代皇帝武帝は、偉大なる匈奴へ反旗を翻した。数十年もの追討の末、匈奴は“絹の道”へと通じる要地、涼州付近を奪われ内紛により南北に分裂。前身の東胡族を滅ぼし支配下としていたはずの烏丸・鮮卑にも叛かれ衰退し、北匈奴は行方知れずとなり、南匈奴は漢の并州に移り住んだ。古の時代に匈奴が駆け回ったあの草原には、今や鮮卑が新たな覇者として君臨している。草原を追われた匈奴には、もはや帰る場所など残されてはいない。

「嗚呼、単于。単于よ」

 柸利は風雨のなか北を睨んだ。その先にある万里の壁。錆びついた狼煙台を気味の悪いほどたずさえ、愚鈍にすさんだ紫色の形骸。あの壁のない頃、匈奴は自由に草原を駆け回り、軽やかに漢人を狩ることができたはずだった。それが、いつからだろう。漢人が壁を棄ててなお、匈奴が漢の土に自ら縛られるようになったのは。

 柸利は陣営の端に立ち止まり、腰の革袋に入れた挏馬酒とうばしゅを地に撒いて捧げると、剣を抜き己の額をぶつりと切った。死者を悼む匈奴の習俗なのだ。死者と同じ血を生者が流すことにより、生けるものと死すものの血が重なる。そうして死したものの蘇生を願う。柸利が悼んだのは誇りを捨てた祖父の死ではなかった。額からはみるみる血があふれ、柸利の高い鼻先や尖った顎の方まで滴った。獣の血だ。誇り高き狼の血だ。冷えた額と頰を流れる血潮は燃えるように熱かった。その熱に突き動かされるよう柸利は叫んだ。

「偉大なる天よ、地よ、山よ、川よ。遥かなる草原よ。からすよ。勇者よ。狼よ。遠き先祖よ。我らの在り処はどこにある。我らの誇りはどこにある。猛き狼はいずこへ消えた。それはまだ我らの矢のとどくところに居るか、我らの馬の追いつけるところにあるか」

 柸利は両手を天に突き出し、己の掌から遠ざかるように翳りゆく下弦の月を、血を吐くような想いで拝んだ。

「偉大なるかみがみよ、迷える我らを導きたまえ。その昔、我らの飢えたる先祖を、狼が導きたもうたのと同じように。からすが狼へ餌の在り処を示すのと同じように。消えかけた我らの魂を守りたまえ。狼の、狼の血を——! 今はもう、寄る辺なき放浪者となった我らの、我らとしてこの世に生きるみちを‼︎」

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