三、放浪者 3
万里の城を飛び越えたような心持であった。
原野の中に二十程の
中原の野におよそ似つかわしくない光景は、劉備に馴染み深い北地を思い起こさせ、そして闇の奥から此方を伺う人々の、隠されず編み縄に似て垂らされた髪や、倫理に反し剃り上げられた前頭や、死装束と同じ左前の胡服などが、本能的な抵抗感を以って
そうして一瞬立ち止まった劉備の横を、関羽が躊躇いなく素通りしようとしたものだから、劉備は彼の痩せた肩を引っ掴んで
「おい」と呼び止めた。「お前が先に入ってどうする」
「知るか」
「話すのは俺だ」
「ならさっさと入れ、邪魔だ」
遠く司隷の言葉で云い合う二人を、烏丸が訝しげに眺めていた。劉備は舌打ちして体躯に劣る関羽を押し退け、使者の案内に従い一際大きな
穹廬の中には高い卓と、それを挟む二つの胡座(折畳み椅子)が置かれ、向かい右の胡座に座る邑落の
老人は、緩慢な動作でしかし堂々と立ち上がると、遅れて現れた関羽のことも同じように見た。彼の身の丈は劉備と同じほどあった。関羽は牙を剥いて唸る犬のように躊躇いなく刀柄へ手を伸ばそうとしたが、劉備はその手首を堅く掴んで留め、
「護衛だ。座は要らない」
と痩せた
「座れ」と重々しくかさついた声色で云った。「我らは左を上に置く」
仲介役も要らぬ、流暢な広陽の言語であった。劉備はその言葉に好ましい漢気と、彼らが今から対話を行う気である意外な事実を窺い知った。すぐ殺されるような恐れは少ないだろう、と内心幾らか緊張を解いた上で拱手し
「では、其方が右か」といつもの胡散臭い微笑をたたえて云った。老人が今示したものが己に対する敬意であったなら、此方の思惑もこの物云いで通じるはずであった。「我らは右を貴ぶのだ。貴公が俺を左座に座らせたように、俺もまた貴公を貴ぼう」
老人が値踏みするよう見てから、穹廬の外へ烏丸の言葉で呼びかけた。従者らしき若者が木椀と革の水筒とを持って現れ、そのまま老人の後ろに控える。劉備は胡座に腰掛け密かに関羽を見やった。彼は地べたに存外大人しく座り、変わらぬ漢人らしからぬ出で立ちで、斜めにした大刀を膝の間や自らの首筋に立て掛けていた。劉備の眼には彼も老人も従者も、みな押し並べて爪牙を携えた獣に見えた。
やがて烏丸の老人が酒を注ぎ、劉備はそれを受け取って干した。青州で口にできなかった馬乳酒はひどく懐かしく美味かった。老人も飲んだ。穹廬に沈黙が舞い降り、劉備は悴んだ手で羽織った
「琢県の劉玄徳」
老人が、おもむろに呼んだ。
「変わらぬな、お前は。その外套も矜持も。あの片田舎で、我らと一線を画し続けたあの頃から、何一つ」
劉備はゆっくりと瞬き、少し考えてから
「広陽烏丸か」
と噛み締めるように云った。老人は頷くだけで多くを語らなかったが、彼が張世平下に居た頃の劉備と三年近く相対し続けた、あの小さな烏丸一群の
「投降を望むというのは、真か」
劉備は尋ねた。
「真だ。そちらにとっても悪しき報せでは無かろうよ」
「善いかどうかはまだ決め兼ねる。仔細を聞きたい」
「余地があるのか?」老人が薄笑いを浮かべた。「先の戦で多く兵馬を失ったようだが」
劉備は表情を変えず唇を舐めた。獣の手強さは何もその武勇によるものだけでは無い。損害を受けたこちらが即戦力を欲していることまで把握した上で投降してくるような、こういう嗅覚の良さ有ってのものである。だから彼らは何度も漢に叛いては降伏し、そのたびに許されることができたのだ。
故に劉備が今探ろうとしているのは、彼らにとっての利益である。此方に投降を断る余地は無いが、田豫の言葉の通り、倫理を持たぬ彼らは決して義勇兵にも正規兵にも成り得ない。それを繋ぎ止めて置けるような利益、寄る辺。無ければ今から作ることができるのか、そういうことを考えていた。
暫しの沈黙ののち、老人がやはり峻厳な態度で
「我ら
と切り出した。
「
「大人だと?」老人は反り返り、劉備を睨みつけるように顔を顰めた。「漢人に乗せられ強胡の誇りを捨てた遼東烏丸の
「張純と、張挙なのか。烏丸に変化を促したのは」
「そうだ。奴らは元役人の伝を利用し、漢人にしか作れぬ弩を烏丸の元へ持ち込んだ。弩の矢は遠く届き、近ければ鎧ですら貫いた。
初め淡々としていた老人の語口は、次第に烏丸訛りと哀憎の情を増し、最後の方に至っては一言一言に怨嗟を込めて漢語を苦々しく吐き捨てているようにも思え、劉備は今一度彼の顔をじっと見据えた。
「同じようなものだな、どこも」
「随分と、知ったような口を利く」
老人が嘲笑した。
「知っているさ」俯き、劉備も嘲笑した。「ガキの頃から、近くの県が烏丸に襲われた話なんてのは散々聞いた。曽祖父は荘園を襲った烏丸と私兵を率いて争った。貴公らの恐ろしさも強さも、俺はずっと見て来た。故に一線を画そうと考え、故に弩を持ったことに怒った。結局、それも戦火に揉み潰されようとしているが」
老人が嘲ったのは、変わりゆく烏丸か、それとも知ったかぶりの激しい、馬鹿な一人の漢人へ向ってかは解らなかったが、劉備が嘲ったのは自身のうだつの上がら無さであった。
そんな劉備を、今度は烏丸の老人が改まって見据えた。彼は暫し考え、真剣な面持ちで
「だからお前は、狼の仔を拾っているのか」
と、劉備の後方を指して尋ねた。振り向いた劉備を、うざったげに関羽が見返した。
「何だ」
「お前のことを、狼だと云っている」
「鬼だ、俺は」
やはりつっけんどんな応えが返る。関羽の代わりに訳した劉備へ、鬼とは何かと老人は尋ねた。劉備は答えた。それは天であり、天命であり、妖であり、死であり、鬼神でもあり——漢人にとっての畏れの対象となる、人間の外に居るもののことだと。
「狼だ、それは」老人は云った。
「忌み子と、いうことか?」
劉備は尋ねた。というのも、幽州でも放牧は盛んであったから、馬飼や羊飼にとって狼が手強い仇であることを知っていたのだ。だが男は
「違う」と首を振った。「我らはみな草原を駆ける狼の裔である。狼は強い。獲物を群れへと持ち帰り、一人で食わず仲間と分け合う。ときたま現れるその血を濃く継ぐ仔のことを、我らは元来大人として仰いだ。生れながらに爪牙を携えた、強く誇り高い仔を」
漢人の祖は天地開闢ののち、三皇の一神が中原の黄土で練った、生きた泥人形であると伝わる。対し胡は、己の種の祖を獣と語るのだ。目鼻手足の数は等しくとも、やはり彼らと己は別の生き物なのだと劉備は考えた。伝え聞き、関羽が迷わず口を開いた。
「分からない。だが俺は土から生れていない。だから俺にとって、生きるというのは鬼であることだ。
「それが誇りだ」唸るように老人は云った。「多くの烏丸が捨てた誇りだ。やはり狼なのだ、お前は」
「狼」
関羽が何か考えながら云った。見つめる老人の眼は熱っぽく、言葉も交わせぬ両者の視線は真直ぐと交わり続けていた。どちらも目を逸らしはしなかった。穹廬の中に陽炎が揺れる。劉備と老人を酷似した熱が覆っている。火を焼べたのは紛れも無い、爪牙を剥き出しにした美しい一匹の獣であった。
漢人と烏丸が、異なる畏敬を抱いて同じ仔を見据えている。それは奇妙な構図であると同時に、異なる二つの民族が、異なる鬼神を信じて同じ壁を見据えていた、かつての世の在り方に近しいものなのではないか。劉備はそう感じていたし、老人も同じ想いであると信じた。だからこそ
「どうだろう、投降ではなく同盟というのは」
身を乗り出して云った。
「貴公らの監督はこの男にやらせる。土の子は土の子が、獣の子は獣の子が率いる。無論、此方の法だ倫理だのは其方に押し付けん。戦利品の分配も罪の裁きも、烏丸の方式で行わせる」
「正気か、土の子」
「そのつもりだ。俺は獣が漢人になることなどあってはならぬし、その逆も然りだと思っている。故郷も栄華も失った今、己を己たらしめるものさえ失えば、俺たちは俺たちで無くなる。過去も未来も同時に消え、何も残らない。それは死より恐ろしいことだ」
「投降と同盟では勝手も異なる。この戦中、我らを賄えるあてはあるのか」
「漢人には同族というものがある。同じ姓を持つ者は、五百年遡れば同じ先祖に行き着くという考えだ。同じ先祖を持つ漢人同士は、同じ鬼神を信仰する同胞ということになる」
「同じ
劉備は頷いた。烏丸は個の姓を持たない。大人や勇者の名字を部族の姓とするのだという。
「俺は雇い手と同族だ、多少の無茶は利く。貴公らを飢えさせはせん。——何よりこの身体には、きっと赤き龍の、
老人は目を瞑り、暫し考えていた。劉備は固唾を呑んだ。
「赤龍の裔よ」老人が口を開いた。「狼の裔はお前を認めよう。我らと壁を隔て続けるその矜持を、狼の仔を飼い慣らさぬその志を、たった二騎でこの狼群へ踏み入ったその強さを」
「感謝する」
しかし劉備の差し出した手を、烏丸の老人は取らなかった。
「違えるな。我らは心酔によってではなく、お前を認めた故に軍門に下る。我らはお前の爪牙となるが、この魂は何人のものでもなく、ただ故郷の草原と山川と、偉大なる神々と勇者と、そして
「そう在ってくれ」劉備は頷いた。「
始皇帝の建てた内と外とを別つ壁は、前漢の武帝代に最盛期を迎え、その現実的でない防衛費も相まって彼の崩御後には衰え始めた。老人も劉備も、人と獣が別たれていた時代を知らぬ。知らぬからこそ、還りたいと望まずには居られないのだ。
老人が酒を再び差し出した。劉備はそれも受け取ったが、
「運が良かったな。怪しい動きを見せれば、人質にしてから殺すつもりだった」
彼の言葉を聞いて、杯を感覚の無い指先から滑り落としそうになった。
「否——良かったのは在り様か。それとも矢の当たりどころか。どの道、その傷ではもはや歩けぬだろうて。灸と車くらいは用意してやろう」
「歩ける。馬に乗って来た、だから馬で帰る。当然だ」
劉備は胡座から立ち上がるため関羽を呼んだが、彼は己の杯を傾けたまま
「大将なんだろ、あんたは」
と、劉備へ一瞥もくれなかった。
「くそっ」
劉備は吐き捨てた。老人はまた笑い、立ち上がると、関羽へ向って近付いて行った。劉備はもう止めなかった。見上げる関羽の瞳には、珍しく鮮明な意思の光があったからだ。
『久しいな、
老人は云った。意味の知れぬ、烏丸本来の言葉で云った。関羽は黙っていたし、劉備は何も問わなかった。赤龍に縋る己のように、今の老人の振る舞いも、多くを失った彼に残された、僅かな聖域の一片であるに違いなかった。
「生れる場所を、間違ったらしいな。お前は」
劉備が唐突に口を開いた。関羽は声の方を見やったが、車中の灯りは既に燃え尽き、窓の帳も下りたままであったから、暗中劉備の仔細は伺えなかった。男の周りにはもうずっと濃い血の匂いが立ち込めていて、外からは絶えず回り続ける車輪の音が聞こえている。
劉備はまた黙ったが、彼が何を云ったか関羽には分かった。ずっと考えていたのだ。といっても考えることは多くなかったから、 “内”でのことを思い返しただけだった。そして殺めた人間のことだとか、そもそも何故殺めたのかとか、育った場所のことだとか、そういう取るに足らないことは全て忘れてしまっていて、覚えていることも多くは無かったから、すぐ思い出せるのは
狼。関羽は反芻した。狼。誇り。獣の誇り。難しい話だと思った。意味を知るには時間がかかりそうだ。だがそれは自分にとって、いつか必ず知らねばならないことなのだという気がした。昔に暗唱させられた、永遠に理解しえぬ経書なんぞの内容より、よっぽど。
関羽は劉備と、あの烏丸の老人のことも考えた。この煩わしく面倒で、窮屈な世の中に、赤龍の血を継いでいるという男が居る。狼の血を継いでいるという男が居る。奇妙でありながら心地が良かった。ただぼんやりと己を覆っていた世界が、初めて語りかけてきたような感覚すらあった。大きく息を吸った。胸の骨がはちきれそうなほど膨らんだ。これほど深い息をしたことはない。何かが心の奥底で叫んでいる。本能のようなものだ。
「魂」関羽は口にした。己でも驚くほど合点がいった。「魂を見つけた、俺は。ここで」
「長生」劉備がゆっくり呼びながら、此方へ近付いてきた気配があった。「俺の代わりに、烏丸を率いろ」
「とうとう頭がいかれたのか」
関羽は素っ気なく返した。己が兵をまとめられると思えなかったのだ。そも沢山の生き物を引き連れる、ということ自体が解らないのに。
「死にたいのか、お前」
「死ぬ気は、無い」
「ならやれ」関羽の胸ぐらを引っ掴んで、云い聞かせるように劉備は云った。「無理なら死ね、俺も死ぬ。そういう話だ。これがお前の、生きる道だ」
不自然緩やかな口調には、しかし血を吐くような
「良し」劉備の笑う気配がした。「これからてめえに、俺の兵法と馬術を叩き込む」
石でも撥ねたか、車ががたりと大きく揺れる。体勢を崩したのか、覆い被さるようにしなだれかかる厚い身体を、関羽は受け止めようとはしなかった。劉備がそのまま傍に倒れる。暫し経っても起き上がる気配はなかった。袖でも噛んでいるのか、くぐもった呻きを上げて身体をくの字に折ったのが朧げに伺える。関羽は迷うことなく男の脇腹を探った。新しく変えたはずの衣が血を吸って重く冷たくなっている。
傷が開いたのか。それとも前から耐えていたのか。関羽は少し考えて、意味のないことだとすぐやめた。死ぬなら死ぬ、死なぬなら死なぬ。ただそれだけの話である。だが関羽のこれまで重んじ続けた嗅覚が、この場に確かな凶事の匂いを嗅いでいた。劉備の死そのものにではない。関羽はこの男に、生きて欲しいとも死んで欲しいとも望んでいない。ただ劉備の死が己にとって、何か取り返しのつかぬものの喪失たり得るのではないかという予感があった。人間から別たれていることを、罪ではなく誇りだと云ったのはこの男だ。それが失せるということは、山川から実りや水や、食い物になる獣や魚が消えることと、関羽には同じに感じられたのだ。
関羽は劉備の傷を強く押さえた。また呻きを噛み殺す音がした。男の肋が忙しなく伸縮する感触が、今すぐにでも握り潰せる矮小な動きが、掌を通して関羽の脳裏をくすぐった。
「あんたが死んだら、困る」
関羽は云った。ほとんど呟くように云った。
「困るか、俺が死ねば」
劉備が掠れた声で笑った。
「困るな。前にあんたが死ぬのは、俺が死ぬのと同じことだと云った」
「嬉しいな、それは」
聞いて、関羽は少しばかり顔を顰めた。自分が困ってこの男に、一体何の得があるというのだろう。それともこの男は、男が困っているところを見て喜ぶ性癖でも持ち合わせているのか。劉備がくつくつ笑い始めた。だから関羽は、この男はやはり頭がおかしくなっていて、だからこんな意味の無い、何にも役立たぬ問いを投げかけたのだろうと考えた。
男はやがて笑い声をぱったり途絶えさせ、もう何も云わなくなった。車内の停留した空気に、燃え残った灯心の焦げ臭い匂いが沈殿している。ずれた帳の合わせ目から、いつしか誘なうように光の帯が覗いていた。
関羽は帳を大きく開いた。群青色の原野が見えた。馬車は雪原を走っていた。広がる明かりが鉛色の車内を僅かに照らして、闇の過ぎ去った白い隙間に、新たな風と光とが差し込んだ。
関羽は薄明るくなった車の中で、依然と横たわり続ける劉備の様子を覗き込んだ。長い夜が明けて、薄紫の澄んだ朝陽が、男のあどけない気絶顔に降り注いでいた。
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