僕が愛する唯一の家族を想って
「ところで、地毛だそうですわね、それ」
「ひとの髪差してそれとか言うな。失礼だ。正真正銘ってか地毛以外の何物でもな」
「とか言って、本当は染めているんじゃありませんこと? お母様が外国人だからといってそんな都合よく外国人のような容姿で生まれてくるなんておかしいのでは?」
「……あのさ」
プツン、と僕の中のどこかでなにかが切れる音が聞こえてきた。僕は、僕のこといくら貶されても平気だよ。クソ親父やクソな兄貴たちにずっとそうされてきたんだから。
でも、母さんのこと悪く言われたり、もとい生まれまで貶される謂われはない。
相手の女をギロリ、と睨み、僕は立ちあがる。っていっても所詮ミクロ系の代名詞みたいな僕だから相手の顎に頭が届くかどうかだけど。相手はかすかに狼狽えて見えた。
「ひとの母親のこと悪く言うなんて頭腐っているんじゃないの、アンタ? 僕のことだってそう。僕は僕がお願いしてこういう色で生まれたんじゃないんだ。わかる?」
「では、本当のご家族みんな」
「……。あの、クソ共は関係ねえだろっ!」
関係ない。そう。あの、あんなクソ共なんて関係ない。本当の家族は家族じゃない。そこは僕の地雷だと藤堂先生が言っていた筈なのに、踏み抜いたこの女はクソだ!
僕の拳が自然と固く握られて相手の女の鳩尾に食い込む。げほ、と噎せる声。相手の、それこそ染髪していると思われる茶髪縦ロールの女は膝をつく。僕は遠慮もクソもなくその女の顔に膝蹴りを叩き込む。鼻血が散る。でも、僕の怒りの緒は切れている。
あがる女子の悲鳴も意に介さず、クソ女の胸倉を掴み、何度も顔を殴る。殴る。殴る。殴ってトドメを刺してやろう、としたと同時にその手が掴まれた。振りほどこうとするのに僕の手を捕まえている大きな手は一切緩まない。そして、僕の耳に声が届く。
「杏さん、杏さん、落ち着いて!」
「っさい! こいつ、僕の母さんをよくも、許さない。許さない。許さ、な、い!」
「杏さん、ダメだ! 気を静めて!」
「ああ、母さん、母さん母さん母さ……っ」
僕に制止の言葉を吐く誰か。でも、僕はその相手、誰かを認識できず相手を殴って傷つけることだけ考える。母さんが死んだあの日のことが克明に思いだされていく。
……やめて。見せないで。見たくない。覚えていたいけど、思いだしたくはない。
だって、あの日、あの時母さんは僕と散歩していただけなのに、なのに、アクセルの踏み間違いなどというありきたりな理由で突っ込んできた車から僕を庇って壁と車にはさまれてしまい、瀕死の重傷を負った。それだけならいい。まだ許容の範囲内的悲劇だ。
でも、問題は救急車に乗せられた僕と母さんの搬送先、最も近かった病院が受け入れを拒んだことと、その病院が親父の経営している病院だったってことだ。最悪すぎる。
親父は母さんの容体を正確に聞いていた筈なのに、だというのに、受け入れない、と拒否したのだ。そのせいで僕らは隣の市の大きな病院に搬送されて病院に到着直後、母さんはこと切れてしまった。間近で見ていた僕は今でもその怪我のひどさを覚えている。
ズタボロの体。臓物破裂のどす黒い吐血。折れて飛びだした尺骨。あらぬ方を向いた手足が無惨だった。だけど、母さんは最後の最後まで僕をあやそうとしてくれていた。泣いている僕を。最期、「ゴ、メンね。杏ちゃん……っ」と言って息絶えた母さん。
最初こそその真意をはかりかねた。でも、母さんの葬式で知った。母さんの葬式で大泣きした親父なのに、次の瞬間にはころりと泣き止んで物陰で兄貴たちに「これで目障りなのがいなくなった」と言ったことで僕は足下が崩落するような気分になった。
そして、悟った。
その瞬間から僕の飼育ははじまった。小学校三年生のことだ。まだ、甘えたい盛りだったのに、唯一僕に目一杯愛情を注いでくれた
雲林院家のみんなに救ってもらったと思ったのに、僕はまだ過去に囚われている。
死の縁にいた母さんの「ゴメン」の意味がわかってしまったからこその呪縛。
母さんは天国にいてもまだ僕を心配しているかもしれない。と、思えば思うほどクソ共の酷な虐げに耐えられた。けど、だから僕は幸せになっていいと言われて躊躇している。母さんを悲しませたまま死なせてしまった僕なんかが幸せになっていい筈ない!
「この髪も目も母さんの忘れ形見なのに。なのに、この、このクソ女……っ!」
「杏、さん……」
「僕のことならいくらでも貶せ! でも、母さんのことを悪く言うのは許さない!」
「杏さん……。ねえ、杏さん、泣かないで。僕がわかりますか? 僕を、認識して」
「……ぇ?」
ひどく柔らかで落ち着いた声。優しい声が言う。自分を認識してくれ、と……。
僕の中に吹き荒れる暴風が少しだけおさまる。僕の手を掴んでいる大きな手を見て、たどっていき、見上げる。雪春が僕を悲しそうに見つめていた。雪春の方こそ泣きだしそうに僕を見ている。泣かないで、と言われたのを思いだし、ふと気づく。……涙。
感情が凍結した僕はいつしか涙すらも忘れていたのに、母さんのことになると途端に涙腺が緩むようだ。涙がぽろぽろ流れていく。肩で息をし、相手の女の胸倉を放す。
女はその場でひんひん泣きじゃくる。目は僕を悪魔かなにかのように見上げているけどどうでもいい。僕は自分がしでかしたことにゾッとした。脳裏によぎる退学の二文字。転入初日で退学になるってのはかなり、不名誉なことなんじゃないのか? って。
せっかく義母さんがすすめてくれたのに、こんなくっだらない挑発で僕はなにをやっているんだ? 僕は真性のバカ? 母さんのことでキレて、義母さんの顔に泥塗って。
でも、許せなかったのは事実で覆せない僕の中の本心。心の底から僕は怒って、悲しくて暴力に訴えたんだ。訴えちゃったんだ。どうしよう。……軽蔑された、よね?
そう思って俯くと急にあったかいものに包まれた。目をぱちくりさせる。僕の目の前には濃紺のジャージを着た男子の胸。あったかいにおいの誰かが僕を抱きしめている。
きょとん、とする。なに、誰、なに?
「杏さん、もう、大丈夫なんです。誰も、あなたのお母様を貶したりしませんから」
「でも、だって、僕、僕は……」
「あなたのお父様のことは調べがついています。杏さんのお母様にもDVを繰り返していたというのも、事故に遭われた彼女を自院へ受け入れずわざと見殺しにしたことも。あなたが目の前でお母様を亡くされ、看取らされてしまったことも知っていました」
「けど、それとこれは」
「先に挑発、いえ、惨い言葉の刃を浴びせたのは
「……」
「すぐ、なんて無理なのはわかっています。でも、いつかでいいのでもう解放されてください。あなたの心を縛るその悲しみと痛みから。ごめんなさい、杏さん。僕は無力です。こんなに苦しんでいるあなたが目の前にいるのになにもできないんですから」
「……ゆ、きは、る」
「落ち着くまで保健室で休みましょう? 僕が付き添いますから。歩けますか?」
雪春の確認に僕はひとつ弱くとも頷く。
雪春は女子監督と男子監督の教員両名に僕のことを少し話し、心の傷からの出血、というのを理由に体育はお休みさせてもらえるように頼み、付き添いを申し出てくれた。
許可がでたので、雪春に支えられた僕は体育館をあとにし、保健室へ向かった。
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