セクハラと三兄弟の名前
――ちょいちょい。
「ん?」
先生がなんだか長考姿勢になってしまったので僕はどうしたらいいのかわからずにいると肩をつつかれた。振り返ると屑籠を脱いだせつかがゆきはるが取りだしていたメモ帳を掲げていた。そこにあった文字。雲林院雪夏、という名前のような漢字の連なり。
「俺、雲林院雪夏」
「は、はあ……」
「杏ちゃん、って呼んでいーい?」
「却下」
「えー、なんでー?」
なんで、じゃないよ。却下ってからにはいやだからに決まってんだろ。なんか微妙にふざけた態度やなんかのせいであまり歳上な感じがしないからタメ口だけどなんも言われないってことはいいのか? まあ、いいや。ダメな時は怒られ嫌われて終わりでしょ?
それなんて好都合。なんとなくでも面倒臭そうなにおいがぷんぷんするからあまり関わらないでおきたいってのはあの時と同じ。思いだした、出会った時と、同じ気持ち。
「ねえ、杏ちゃん?」
「……」
「杏ちゃーん」
「……」
「……かぷ」
「ひにゃうっ!?」
却下、と伝えた。が、雪夏は気持ちいいくらいシカトして杏ちゃんと呼んでくる。なので、僕もきっちりシカトすることにしたのに。しばらく無視していると、急に肩を抱かれて引き寄せられ、あろうことか耳を優しくかぷり、と齧られてしまった。痴漢!
ぞわわわっ、として、くらりとする。思わず気絶しそうになるくらい気味悪い感覚に僕は顔とキャラに似合わぬ悲鳴をあげて雪夏を突き飛ばした。そりゃもう全力で。
雪夏はでも少しぐらっとした程度であまり離れてくれない。おかしい。ゆきはるがどついた時には盛大に吹っ飛んでったのに。でも、手に残った感触からするにこのひとは相当鍛えている。筋肉がすごい、ってわけじゃない。ただ、細いのに凝縮された体だ。
「な、んなな、なん」
「ひにゃう、だってー。かーわいー」
「可愛くないっ変態っ」
「もっと可愛い杏ちゃん見たいなー。抱っこしていい? いいよー。やったー」
誰かお願いです。処刑許可をください。
ひとり芝居しているのもイラっとするけどそれよりも勝手に「杏ちゃん」呼びを定着させようとしているのが腹立つ。いやだって言っているのにどう……あ、いやがらせ?
「ほーいさ、っと」
「え?」
いやがらせか、これ。とか思っていると体が急にふわっと浮いた。そして、なにか温かいものにぎゅーっという効果音で包まれたのがわかった。それはひとの、ぬくもり。
僕はあわあわするしかない。僕の背で交差している腕はどう考えても僕のものじゃないから。男の腕だ。僕なんか比較にならない、うんと逞しい腕が僕を抱きしめている。
抱きしめられるなんてはじめて。って、そうじゃないだろ、違うだろう、僕!
「は、放、せ……」
「んー? なんで?」
「や、あの、恥ずかしい……」
「慣れだよ、杏ちゃん」
「慣れないっ。いいから、放せっ」
「んふー。杏ちゃんいいにおいするー」
なにこれ新手の拷問? 僕、生まれてから男のひとに触れられたことなんてない。保育園時代に朝倉と取っ組みあいの喧嘩はしたけど、こういう触られ方は記憶にない。
どうしよう。猛烈に恥ずかしい。でも、これプロレス技だったら完全に極まっている状態だし。僕のこの貧弱じゃ絶対に抜けだせない。しっかりがっちりぎゅっ、だ。
腕もなにの不幸か雪夏と僕のほとんどってか断崖絶壁並みにない胸にプレスされているし。押し退けることも難しいから本当にどうしたら、いいものなのでしょうか?
――ごちんっ!
「あいたっ」
「やめろ」
どうしたらいい、誰かなんとかして。と思っていると願いが通じたのか痛そうな拳骨の音がして雪夏の腕が緩んで一瞬ほどけた。僕はわたわたと不格好にも逃げはじめる。
「ぎゅー」
が、なんという不覚。逃げ損ねた。僕がろくろく食事できず、弱っていたのも原因のひとつなんだろうけど、なによりも雪夏の動きが異常に早すぎるのが悪魔的敗因。
逃げようとした僕を今度は背中から抱きしめてきた雪夏は口でぎゅー、とか言っていやがる。なにがぎゅー、だ。ふざけて、ってか、からかいやがって。ちっくしょ。
「……。ぴら」
それからしばらくなんの考え事か黙っていた雪夏が急にまた擬音を口にしたんだが、ぴらっと言った。ぴらってなんだと思ったのは一瞬で、事態に気づいた僕は即、真っ赤にゆだって咄嗟に口も利けなくなってしまった。だってさ、だってだって、だってさ……。
「わぁ。ピンクだー」
「~~っ!」
なんと、あろうことか雪夏は僕の入院着をめくって下着を確認してきた。入院着といっても普通の病院にありがちな甚平っぽい上衣と下衣じゃない。女性はネグリジェみたいなのを支給される。だから、僕が着ているのも当然就寝用ワンピースで下はスカート。
なに、この公然猥褻。こんなひどい、セクハラを超えたセクハラにはアレだ。死罪適用でいいよね? だからお願いします。誰かこの変態に死刑執行してください。
「……。なにをしとるか、お前は!」
「ん~? いてっ」
いて、という声は軽かったが聞こえてきた音はかなり強いものだった。ビシィっ、とかなりしなりのいいなおかつ硬いものが肉を打った音がした。雪夏の腕が再び緩まる。僕は背にひっついているぬくもりをこれでもか、と思いっ切り突き飛ばして逃げる。
ベッドの上、枕側から足下の方に逃げた。
そこへ迎えるように腕が差しだされた。一瞬の躊躇。でも、僕はその腕に縋った。
「お前は小学生か!?」
「うー、いたたたぁー、秋兄貴こそその竹刀、どっからだしたの、常時携帯とか?」
「どこの武士だ、それは。今日は部活動があったから持ってきていただけだ。だが、まさかこんなことで、こんなところで役立とうとは……まったくもって恥ずかしい」
「部活あったから竹刀持ってお見舞いに来る兄貴の方が恥ずかしいと思うなー、俺」
そのひとが竹刀を持ってお見舞いに来ようとどうでもいいよ、セクハラ魔。いったいなにを考えているんだ、こいつは。どこまで常軌を逸した痴漢をかまし腐る。
でも、やっと逃げられた。ふう、あきゆきさんに感謝しないとね。あと、こっち。
「あの、ありがと」
「ううん。兄さんがごめんね。けど、いつもああだから、できるだけ流してあげて」
「すごくいやな仕様だけど、わかった」
「あ、っと、ついでに、といったらアレなんだけど、僕はその、こういう名前」
言って、ゆきはるがメモ帳を差しだす。僕が視線を向けるとそこには雲林院雪春、と書いてあった。僕が雪春の名前を確認したのを見て雪春はペンの蓋を取って雪夏の名前の上に新しい名前を記していく。雲林院秋雪。……あき、ゆき。あ、長男さんの名前?
僕が理解したのを見て雪春はにっこりし、秋雪さんの上にもうひとつ名前を書く。
雲林院冬華。この場で雲林院という姓を持つのはもうあとひとりしかいない。僕はすぐ理解するにいたった。雲林院先生の名前。とうか、冬華っていうんだ。綺麗な名前。
冬の華。……あ、だから? 秋雪さんが言っていたお母さんの名前をもらって、っていうのはそういう意味なのか。冬に咲く華。すなわち「雪」の文字がそういえば三兄弟の名にそれぞれ入っている。じゃあ、春夏秋、ってのはどこから来たのだろう?
「僕は四月生まれ、雪夏兄さんは八月生まれ、秋兄さんは十月の生まれなんだ」
「生まれた時の四季と先生の名前を組みあわせたってこと、でいいの? そう」
「あはは、そうなんだ。お母様はずっと米国や英国で医療を学んでいてね。漢字とか苦手だったからそこら辺の、名づけのセンスはちょっと他のひととずれていたんだ」
「……そっか。僕の母さんと似ているね」
「え?」
「……。僕の母さん、カナダのひとだから。それで僕、こういう色で生まれた」
僕の言葉に雪春は一瞬ほどきょとんとしたけどすぐ納得の顔になった。心なしか僕の髪や目を見ていった気がしたものの、本当に刹那、というくらいちょっとの間だったのでこちらの方が逆に居心地悪い。いつもなら他のひとならじろじろ見てくるから、さ。
だから、雪春の反応に困る。困って僕がおろおろ、としそうになっていると急に指を鳴らすパチン、という音がして異様にびっくりしてしまう。音の発生地点を見ると雲林院先生がいた。背景音楽は秋雪さんが雪夏にお説教している、もとい言いあう声だ。
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