今時誰も言わないって、それ
「そうか。やはり」
「昨日は少しだけ食べてくれたんですが、本当に胃腸機能が弱っていて……。やはり、このまま食事不足を点滴で補っていくのは体以上に心へ負担があるかと思います」
「胃の状態は?」
「あまりよくありません。潰瘍がいくつも」
「ふむ、カウンセリングは?」
「はい。なんとか話そうとしてはいますが、いつも「いつ退院?」と訊いてくる以外は口を開いてくれません。このコは長期に渡り、虐待にひたって感覚そのものが麻痺しているのといまだ逮捕された父親や兄たちに危害を加えられることを怖がっているようで」
「……よくないな」
しっかり深く眠っていた意識が目覚めて、僕の耳に女のひとたちが話している声が聞こえてきた。知っている声だ。いつも僕のこと診てくれている女医さんとカウンセラーさんの声。カウンセラーの先生はどこか、なんとかかんとかって財閥専属だったらしい。
なんでも、そこの、財閥のご子息様たちたっての願いで僕のところへ定期的に通ってくれる優しい先生。嫌いじゃない。でも、僕がいつ退院できるか教えてくれない、という一点で話題に乗りにくい。退院日を教えてくれたらいろいろと訊いてみたいのに。
財閥のご子息ってなんだよ。今時の日本にそんなもんいるってことが僕には信じられないし、ある意味ギャグだよ。とか心で突っ込んだのは内緒だ。だって、そう。
笑っちゃいけないよ、僕。だって、そこにいるってことはそこでそう在れ、って言われて宿業を負った命なんだから。だから、冗句じゃない。ただ、僕とは天と地ほど離れた環境にある存在だからなんだかおかしい気がする。だから、おかしいのは、僕だ。
「あ、杏ちゃん。目が覚めたかしら?」
「……ん」
「ちょっと診せてね」
目を開けると、すごく薄ぼけた世界が広がっていた。発作で倒れて目覚めるとだいたいこんな感じだから気にならない。最初は目が見えなくなった、と思ってパニックになったけどもう慣れた。入院してから伊達に倒れてないよ。全然自慢にならないけど、さ。
そう、そんなもの自慢にならないからね。
「気分はどう?」
「……へい、き、です」
平気だよ。僕はいたって健康体。だから。
「せん、せい……」
「うん? どうしたの?」
「僕、いつ退院できる?」
また、繰り返しの言葉。幼子みたく、僕はただただ繰り返す。いつ、ここを退院できるのか、そればかり気にしている。隔離されてなお親の、兄らの顔色を窺ってしまう。
ここに入院させられてこっち、半分以上口癖になっている。「いつ退院?」は。でも、早く退院したいけど家には帰りたくない。ああ、なんなんだろうなあ、この矛盾は。
「ちょっといいか」
「?」
知らない声がした。どこかで聞いたことがあるような気がするのは雰囲気が誰かに似ているのかな? 目を細めるととっても綺麗な女のひとが見えた。カラメルを煮詰めたような黒髪。琥珀色の瞳。色白で顔形はちょっときつそうでもすごく整っている、美女。
女優さんみたいだ。いや、映画とかドラマとか僕は見られないけど。クラスの女子が話している内容から、多分、こういうひとを「女優みたい」だと言うんだろう。
「ここに入ってからずっとそればかり訊いているそうだが、そんなにこの部屋が気に入らないのか? これでも相応に自信持っておすすめする特別室なんだぞ、ここ?」
「?」
「この部屋は私が注文をつけたんだ」
えっと、このひといきなりなにを言いはじめているんだ? 僕、別にこの部屋に不満があるわけではないんだけどなぁ。でも、そうか。傍目には、そう、うつるのか?
このひとが誰かは知らないけど、部屋に注文をつけたってことは病院の関係者。で、それもかなり上の地位にいるひとかな? 院長先生とか。はたまた理事長、とか?
「雲林院先生、そうじゃないと思いますよ」
「なぬっ」
……ぶっ。おいちょい待て、笑かすな。「なぬっ」なんて今時どんなひとが言うんだ。目の前にいるけど。しかもすんごい美人が。やめてくれ、破壊力がすさまじいって。
「なんだ、笑えるじゃないか」
「え?」
「定時報告でいつも沈んだ、死んだような顔をしているって聞いていたからな。こんなに可愛いのにどうして笑えなかったんだ? ここは絶対に安全な場所なんだぞ」
「だって、僕、迷惑を」
「……ふむ、誰にだ?」
「えっと、親とか……」
自分で言っていてバカじゃねえのって思ってしまう。迷惑かけてごめんなさい、っての以前に迷惑かけたら殺されるって思っているクセに。沈んだ顔は標準装備なのに。
楽しそうにしていたりしたらなにを言われるかわからない。それと、本当に楽しいと思ったことがないから、なにが楽しいのかわからない。でも、「なぬ」は正直うけた。
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