転季
目覚めた僕の奇妙な日々
ここは、大、とはつかないまでも都会に分類される町。市街地にいけば大きな病院もある。特別な隔離用の施設を保有しているところもある。超高級ホテルみたいな設備を持ったところもある。医療設備が充実しているところも、あるって噂に聞いていた。
市街地の外れ、穴場的な場所に建っている町一番の大病院はなにかと訳ありの患者がいるらしくて、そういう個室も充実しているというのは噂程度の情報で知っていた。
「可哀想にねえ」
「この部屋のコ、ですか?」
「親御さんやお兄さんに殺されそうだったんだよ? なのに、虐待なんて受けていないって思い込んでなんとか普通に生活しようとしていたんだって。これだけ虐待死をなくそうって政府がうるさいのに、どうしてこんなことが平然と起こるっていうんだろうね」
「橘杏ちゃん。たしか……」
「まともなもの、食べさせてもらえてなかったんだよ。暴力は当たり前。ここに
「他に、卵巣を潰されても確認だけされて放置されていたんですよね。……ひどい」
「こういうコは自殺未遂も多いからよくよく気を配ってやっておくれ。あたしもちょくちょく様子見に来るけど多分いやがるだろうから無理に近づきすぎないようにね」
「はい」
市街地外れも外れ。山に囲まれ、近くには湖もあってスワンボートもあるらしいここ、
僕のいる個室はこの病院の中でも特に心身ケアが必要な患者用につくられた部屋なんだって。目が覚めて最初にここへ様子を見に来た年配の看護師さんが教えてくれた。僕には特にきちんとしたケアが必要なんだって説明されたけど、僕には理解できなかった。
僕、どこも悪くない。ケアなんて必要ないのに。なのに、どうしてここに来た女医さんも、看護師さんもカウンセラーの先生も僕には休養と癒しが必要だ、と言う?
――コンコン。
僕がまた考え事していると扉をノックする音が聞こえてきた。僕は応えない。
外、廊下からの話し声は聞こえてこない。けど多分、僕のことを意味不明なくらい憐れんでいる。とかそういうなにかだ。僕には意味がわからず、理解できないほど。
だって、目が覚めた時、来た看護師さんはずっと悲しそうな目で僕を見ていた。診察に来てくれた女医さんも、カウンセラーのひとも。ずっと同じ目で僕を見ていて僕は居心地悪くてならなかった。そしてどこも悪くないのに個室占拠している自分がヤダ。
「杏ちゃん、おはよう。朝ご飯ですよ」
「……はい」
ここの
他の患者さんはみんな姓で呼ばれているみたいだけど、僕はどうしてか、名前で呼ばれる。……まあ、どうでもいいけど。どう呼ばれようと、僕は、どうでもいいよ。
「あの」
「どうしたの? どこか具合悪いの?」
「いえ。……僕、いつ退院できますか?」
部屋に入ってきた看護師さんはとっても優しい顔で笑っていたけど、僕の質問を聞いて途端に悲しそうな顔をした。辛そうな、ひどく憐れな者を見るその目は優しい。
いや、多分、呆れているだけだろうけど。
だって、僕、目が覚めてからそれしか訊いていない。いつ、退院できるのか。
訊きたいことはいろいろあったけどそれは僕にとって優先することじゃない。
とにかく早く退院したい、と切に僕は願っていた。入院なんて、いくら金がかかるか知れない。しかもこんな、いい部屋、それも個室を使わせてもらうなんて贅沢すぎる。
帰ったらきっと、殺される。全部殺さないまでも半殺しは確実だ。だって迷惑だし、僕が虐待被害を訴えたなんてことになったら世間体を気にして外を歩けないから。
「杏ちゃん、帰りたいの?」
「いえ。でも、ここにいる時間が長ければ長いだけ僕の罪は重くなる。早く謝らないといけないのに僕、僕、は……っ、僕はなんでここに、なんで、どうしてどうして!?」
「落ち着いてっ」
「……ぜぇ、ひゅー。……かはっ」
「過換気です! 頓服持ってきて!」
いつも、のことだ。ここ数日の、いつも。
入院してから看護師さんが言うにはまだ十日らしいけど、ずいぶん長い気がする。
僕は罪悪感で身も、心も、すべてが押し潰されてしまいそうで、家にいったいどんな恐怖が待っているかと想像しては過換気、過呼吸発作を起こしてしまう。苦しい。
遠くで声が聞こえてくる。
頓服。本来は注射で薬を入れるんだけど、僕がいろんな痛みに恐怖と怯えを持っているという前提で発作を静めるのにいつも苦い液状の頓服薬を水に溶かして飲んでいる。
恐怖による発作は多い時で一日に十数回。少なくても日に五回はある。発作が起こる度に僕は後悔する。また起こしてしまった。心が弱いせいだ。情けない。病院のひとたちはそんなふうに思う必要はないって言うけど、どうしても僕は悪い方へ考えてしまう。
僕はいつからこんな弱く甘えた根性に堕ちてしまったんだろうって。耐え難きを耐えてきた筈なのに。一度、逃がしてもらったから。だから甘ったれているんだ、と。
目の前は真っ暗。体に力が入らなくなって支えてもらい、ベッドに腰かけて薬を待つ。背をさすってもらうのは心地いい筈。安心していい筈。なのに、ダメだと思う。どうかしてんのかな? それともどうかしているのはやっぱり僕に優しくしてくれるみんな?
わからない。一般的にまともな生活を送ってこなかったから。いつも家族の顔色を窺って、癇癪に触れないように生きてきた。ここにあいつらはいない。なのに、安心してゆっくりしていい筈なのに、どうしても心が、体が、休まらない。どうしてだろう?
「杏ちゃん、お薬飲める?」
「……っ」
狭くなっていく視界。黒に塗られていく視界の端に見えた紙コップ。僕はそれに口をつけて一気に呷った。薬効はすぐすぐ現れない。僕が薬を飲んだのを見て看護師さんたちは僕を布団にもぐらせた。そして、僕は心休める為、深く眠りに落ちていくのだ。
また、ご飯食べられなかった。いや、いつもちゃんと食べられていないけど。
例え仮に食べても胃が異常に弱っているせいか、ほとんど吐き戻してしまう。
野菜も果肉部分を食べるなんてなかったから受けつけない。肉や魚もそう食べたことがないから食べ慣れなくて苦戦する。かろうじて米だけは床に捨ててもらえて拾い食いしていて食べられる。でも、ゴミがついていないご飯はなんて綺麗、と思って躊躇する。
腎機能も弱っているらしく果物もあまり食べない方がいい、と言われた。いや、食べたことないけど。少なくとも物心ついてからは食った覚え、ないんだよな、果物。
学校で冷凍蜜柑とかでる日は必ず熱だして休む。お菓子や甘いものも食べたことない。七夕とかクリスマス献立だとケーキがついてくることあったけど、食べるまでに腹いっぱいになっちゃうから結局食べられないでクラスの男子、朝倉なんかにあげていた。
クラスの女子にはそのことで嫌みを言われたこともあったけど、気にならなかった。家のやつらがすることに比べたら可愛いもんだ。上履きに画鋲とか、さ。可愛いよ。あいつらだったら、餌の中に画鋲の針だけペンチとかなにかで外して混入するからな。
小・中学校時代が一番食事面では恵まれていたかもしれない。給食ってホント天のお恵みって感じでさ、普段だったら絶対に食べられないものが食えたりしたんだよね。
けど、だから学校の給食献立を親父に見せるのはいやだった。この日はこれが食えるからしばらくこういった食材は食わなくても平気だろう、ってか、給食あるんだから飯なくてもいいだろう? みたいな感じで朝晩は滅多に食べさせてもらえなかった。
「……すー」
中学までの幸せな給食時間を思いだしていると徐々にそれが夢なのか現実なのかわからなくなっていって、僕のホントはいったいどっちだったのかな? なんて思った。幸せ? 不幸せ? 不幸? 幸福? わからない。でも、今はいいや。どうでも。
眠ろう。なにもない闇に落っこちて……。
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