悲季

僕の最低ないつもの朝


 目を開ける。暗い中で斜めの天井が見えた。


 見慣れた天井。僕の部屋だから当然だ。そんな微妙に意味わからないことを考えながら布団から起きあがる。時刻は早朝四時前。いつもの時間だ。なんだか、微妙な夢を見たような気がする。けど、薄らっているからきっとどうでもいい夢だったんだね。


 部屋で僕は起きあがって身支度を整える。つってもベッドと部屋に渡した縄とその縄にかかるハンガー三つ、姿見があるだけの部屋で制服に着替えるだけなんだけどね。


 僕が公立の高校に入れたのはほぼ奇跡だ、と思うけど勉強を欠かしたことはない。帰宅部でやることが他になかった、ってのと家の方針で僕は公立の高校に受からなければならなかった。受からなければ、中卒かつで雇ってくれるところを探すだけ。


 部屋をでていき際、扉のそばにある一枚の姿見にうつった自分を見てため息。


 僕のこの部屋に照明器具はないからいまいちわかりにくいが、きっといつもの姿がうつっているのだろう。だからため息。そっとノブをまわし、扉を開けて部屋を抜ける。


 こんな時間に起きているのは新聞配達の仕事をしているひととか夜勤しているひととかだけ。そんな時間に僕が起きだした理由はひとつ。朝飯を食べて学校にいく為、だ。


 本当は寮に入りたかったけど、ただ絶対たるひとつの理由が故に許されなかった。


 三階の自室。元物置部屋から抜けだした僕は一階にあるダイニングへと抜ける。


 そこはしん、と死んだように、不気味なほどに静まり返っていて薄気味悪い。


 当然。住まいを同じにしている者はまだ呑気に夢の中。僕はとりあえず部屋の隅にある箒と塵取りを手に掃除をはじめる。手早く終えて次は床の水拭き。ごしごし、と力いっぱい入れての掃除。誰かジュースを零したか、ねちょっとしているから入念にこする。


 咎めを受けるのは僕だ。誰がやったことでもそれはすべて、僕のせいになるのだ。


 ――く、きゅうぅう……。


 一通り掃除を終えた、と同時に腹が鳴る。壁にかかっている時計を見ると、軽く五時をまわっていた。そろそろ食ってでないとまずいな、とそう思ったのが悪かった。


 僕の無防備だった後頭部にぶつかる硬いなにか。それは僕の頭をぶったと同時に砕け散った。ばしゃっと冷たいものが僕の髪を濡らした。ぽたぽたと滴る水が床を濡らす。


「まだいたのか」


「……」


「今日は早出だと書いておいただろう!」


 上から降るだみ声に僕は返事をしない。


 正確には、僕が返事などしてはから黙ったままでいるんだけどね。


 僕は黙ったまま視線をあげていつもの場所を見た。ホワイトボードにある殴り書きが見えてやっちまった、と思った。父、の欄に「早出」の二文字がある。だから、僕は顔を伏せて床に額をつける。そして、もう身に沁みついているよう、のようにする。


「申し訳ありません」


「謝る暇があればさっさとそれを拭いてでていけ! 失せろ! 目障りだ!」


「……はい。申し訳ありません」


 怒鳴り声に僕は謝罪を繰り返す。大急ぎで床に散らかったものを片づけてまかれた水を拭いて立ちあがり、階段のそばに置いておいた鞄を掴んで玄関から外へと飛びだす。


 玄関の扉にナニカがぶつかって砕けるような、耳を劈くひどい音が聞こえてきた。


 また、なにか凶器まがいを投げてきたんだろう。それは扉を叩くだけに終わった。


 外はまだ暗い。いや、微妙に明るくなっている、と言うべきか? けどまだ、学生が出歩く時間には少々早い。部活の朝練があるわけでも、用事があるでも、日直でもないのに毎日こうして追いだされるように登校する。でも、今日は少し運がなかった。


「……はあ。あー、お腹すいた、な」


 そういえば、昨日の晩からなにも食べていない。まあ、僕が悪いんだけど。昨夕、二十七秒ほど帰宅が遅れたばっかりに兄と鉢あわせてしまい、機嫌を損ね、食べ損ねた。


 そして、今朝は今朝でいつも通りな親父と鉢あわせた。なんだろう、こいつはそう、もういっそ断食しなさいっていう腐れ神様からのお命じっつーかお達しですか?


「……ふっ」


 笑っちゃうね。神様なんて信じていないクセにさ。こんな時だけ神様のせいにしようとするなんて。なんて……汚らわしいクソな思考回路だ、僕。死ねばいいのに。


「……いこ」


 いつまでも玄関先で立っているわけにもいかないから歩きだした。頭、結構痛い。そっと触ってみる。ぬるっとした感触があった。ああ、うん。まあ、予想の範囲内だ。


 花瓶がぶつかって割れたのに、頭皮が裂けない方がどうかしている。でもまあ、多分ちょっと切れた程度だ。そんなに痛くないし。……痛くない、痛くない、痛く、ない。


 視界がうっすら滲んでいる気がして腕で目元をこすったけど袖は濡れなかった。


 よし、大丈夫だ、僕。それにどうせ、なにが起こっても顔にでることはないんだ。


 昨日のうちに用意していたハンカチをポケットからだして後頭部を押さえ、簡単に止血する。僕は傷がじんじん、疼くのがなくなるまで頭にハンカチを当てて道を歩いた。


 閑静な住宅街に人気はない。誰にも会わず、すれ違うこともなく僕は近所の商店街へ抜けた。そこはもう息づいて活気づいている。当然か。気の早いひとは朝採れたて新鮮な野菜を八百屋に求めるし、豆腐屋さんは僕など比じゃないほど未明から仕事している。


 商店街の中を進む途中、後頭部は痛い痛いと言わなくなり、ハンカチを取る。


 惣菜屋が揚げ物をしているにおいが空腹に残酷なほどきつく響く。こういう時、僕も生きているんだなーって痛烈に思い知る。空腹は生きている証、だから。でも、財布には昨晩のうちに置かれていた今日の昼食代しか入っていない。買い食いなんてできない。


「ちっ」


 舌打ちの音。振り向くまでもないし、別に構う必要もないので僕は気にしない。


「おい、不良」


「……。なんですか。僕、登校してい」


「髪を染めろ」


 いつも通りの言葉。いつも飽きず、このひとは僕にいちゃもんをつけるのが好き。


 近所にある交番のおまわりさんは僕の見てくれが気に喰わないのだ。だから、なにかと理由をつけては僕を無意味に叱る。今日は髪のことに触れてきた。ああ、面倒臭ぁ。


「地毛です」


「嘘をつくな」


「嘘でアンタなんかと話して時間無駄にして、僕はなんか楽しいんですか? 嬉しいんでしょうか? もしくはなにか面白かったりするんですか? 僕は全然です」


「……っ、その減らず口は誰に似たんだ? 子は親をうつすと言うが嘘だな。あの立派なお父さんがいて息子さんたちも素晴らしい人格者だってのに末っ子がこれか」


 なに言ってんだ、こいつ。


 立派、立派ね。家での掃除していただけの僕に花瓶をぶつけて怪我させても平然としている上、飯も食わせず追いだす父親がどう立派なのか教えてほしいものだ。


 それに、素晴らしい人格者の息子って誰のこと言ってんの? あのふたりのクソ兄貴共のこと言っているとしたらとんでもない節穴だな。いや、節穴ってか、目に特殊フィルタがかかっている感じなんだろうか? だって、そうじゃなきゃおかしいもんね。


「女だからって甘やかされすぎてんだろ?」


「さあ、どっすかね。僕、そいつらじゃないんでわかんねえよ、どうなのかなんて」


「可哀想に。息子さんらが立派でも娘がこれでは胃が痛いだろうに。同情するよ」


 おい、笑かすな。どこに立派な息子がいるんだ。気に喰わないことがあったら妹を殴って蹴って憂さ晴らしするようなクソ共がなにをどうしたら立派にうつるって?


 親父だってそうさ。どこが立派だよ。この前なんて、危うく栄養失調で死ぬところだったんだぞ、僕。ああ、そう。入院している間、これ見よがしに吹聴したわけね。


 なにを言ったのか知らないが、想像するのは易い。僕が過度なダイエットで拒食症になったとでも言ったのだろう。あー、絶対そうだ。だから最近、が少ねえのか。


 うん、納得。納得したら余計に空腹を思いだしてきた。生きているって面倒だね。


 けど、この嫌みおまわりに腹の蟲鳴くの聞かれるなんていやだし、さっさといこ。


「けっ、気味の悪い金髪能面不良が」


「……」


 ぶつかる罵声。でも、僕は聞こえないフリをした。だってとっても、から。


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